第68話 壕を出る夜
出発は、暗くなってからだった。
島袋先生にそう伝えられたとき、私は患者さんの上着を替えていた。袖から腕を抜くと、肩の下に溜まっていた汗が手についた。患者さんは私の後ろにいる先生を見て、どこへ行くんだ、と尋ねた。
「南の方へ移ることになりました」
先生が答えた。
私は袖を持ったまま、顔を上げた。
先生は続けて、荷物をまとめること、勝手に外へ出ないこと、呼ばれるまで今の仕事を続けることを伝えた。
「石川さんには担架を使います。寺田さんたちは、運ぶ支度をしてください」
照子を連れていける。
そのことだけが先に胸へ入り、私は頷いた。
先生が別の場所へ向かってから、患者さんの腕を新しい袖へ通した。襟を合わせようとして、指が何度も滑った。
「学生さん、わしはどうする」
患者さんが尋ねた。
私はその人の足元を見た。
両脚に布が巻かれていた。寝返りにも手が必要で、起こすときには、いつも二人で支えていた。
「先生に、聞いてきます」
そう答えると、患者さんは私の袖を掴んだ。
「聞いたら、戻ってきてくれ」
「はい」
私はその手が離れるまで、枕元にいた。
*
照子は、もう荷物を結んでいた。
玲子が持っていくものを確かめ、文子が水の器を自分の荷物へ入れた。千代は担架の布を触り、裂けているところがないか見ていた。
「連れていってもらえるんだね」
照子が言った。
「うん。四人で持つ」
私は答えた。
照子は私たちを順に見て、ありがとうと言った。
嬉しかった。先生が担架を使うと言ってくれたことも、照子に返事ができたことも。
けれど、その横で清美がもんぺの裾を下ろしていた。
清美は担架に載らなかった。幸子と信子が交代で支え、歩いていくことになっていた。傷めた腕を胸の前で吊り、もう片方の手で荷物の紐を直している。
「歩ける?」
尋ねると、清美は頷いた。
「休みながらなら」
高橋さんがそばへ来て、履物を確かめた。足の布を巻き直し、清美が立つところを見た。
壁から手を離すと、身体が傾いた。
信子が腕を支えた。
「急がなくていいから」
清美は足元を見たまま、頷いた。
*
荷物を持つ人が、先に入口へ向かった。
器具の箱も、残った布も、薬の包みも、人の背中へ載せられた。運べないものを棚へ戻すたび、誰かが中身を確かめ直した。
私の荷物は美咲が持ってくれた。
「照子を持つんでしょう」
「でも、美咲の分もあるのに」
「小さくしたから」
美咲は自分の風呂敷を見せた。私のものと合わせて結び、肩へ掛けた。紐が食い込んだところを一度直したが、重いとは言わなかった。
照子の荷物は和子が受け持った。
私は空いた両手を見た。
その間にも、患者さんから声がかかった。水を求める人、上着を探している人、自分も列へ入っていいか尋ねる人がいた。
先ほどの患者さんのところへ戻ると、目を開けて待っていた。
「先生は」
「今、確認してもらっています」
「そうか」
その人は頷いた。
私は枕の位置を直した。何も決まっていないことを、決まるまで待っていてくださいと言うようにして伝えていた。
顔へ触れた布を洗いに行こうとすると、また呼ばれた。
「水だけ、置いておいてくれ」
器へ水を入れ、手の届く場所へ置いた。
倒れないよう、底の下にあった小さな石を除けた。
*
村田さんは身体を起こしていた。
壁へ背中を預け、脇に松葉杖の代わりになる木の棒を置いていた。そばの兵隊さんが、片足で立つところを支えている。
「村田さんも、歩くんですか」
私が尋ねると、村田さんは顔を上げた。
「こっちは使える」
布を巻いていない方の足を少し動かした。
ずっと寝ているところばかり見ていたため、立てるのかどうか考えたことがなかった。
兵隊さんに脇を支えられて立つと、顔の色が変わった。棒の先が床へ食い込み、腕に力が入った。傷めた脚は下ろせず、少し浮かせたままになった。
「一度、座ろう」
兵隊さんが言った。
村田さんは首を振ったが、すぐに膝が折れた。二人で支えて元の場所へ戻すと、肩が大きく上下した。
私は水を差し出した。
「少し待って」
村田さんは息を整えてから飲んだ。
照子の方へ目を向け、四人揃ったか、と尋ねた。
「はい」
「先に行けよ。入口で詰まるから」
私は器を受け取った。
「村田さんは」
「こいつに手を借りる」
隣の兵隊さんを見て言った。
その人は頷き、棒の先へ布を巻き始めた。泥の上で滑らないようにしたいらしかった。
私は何か言いたかったが、そばから呼ばれた。
照子を担架へ移す時間になっていた。
*
高橋さんの声に合わせて、照子を持ち上げた。
足を支える玲子が顔を近づけ、動かすよ、と伝えた。照子は私の肩へ手を置き、歯を食いしばった。
担架へ下ろすと、額に汗が浮いた。
「今の、痛かった?」
「平気」
照子は答えてから、首を振った。
「痛かった。でも、もう大丈夫」
私は頷き、足の下の布を確かめた。
高橋さんが最後に傷のところを見た。担架の縁を掴む照子の指へ触れ、力を入れすぎないように言った。
私と文子が前を持った。
千代と玲子が後ろへ回った。
「持ち上げるよ」
四人で声を合わせた。
肩に重さがかかった。私は膝を伸ばし、持ち手を身体の近くへ寄せた。照子は目を閉じていた。
通路の人が足を引いてくれた。
その隙間を少しずつ進んだ。棚も、患者さんの寝ている場所も、何度も往復したところだった。どこで肩を引けば通れるか、どこに器があるか、身体が覚えていた。
入口の手前で一度止まった。
野原さんが外を確かめていた。
背後から、学生さん、と呼ぶ声がした。
振り向こうとすると、持ち手が傾いた。
「理恵、前」
文子に言われ、私は顔を戻した。
*
壕を出ると、雨が顔へ当たった。
灯りは持たなかった。前を歩く人の背中と、足元に残るかすかな明るさを頼りに進んだ。
野原さんが道を指した。
「穴がある。左へ」
文子と私は同じ方へ寄った。担架の後ろへ伝えると、千代が返事をした。
縁を回る途中で、足が泥へ沈んだ。
持ち上げようとすると履物だけが残りそうになり、私は足首を捩った。担架を支えたままでは、自分の足元へ手を伸ばせなかった。
「止まる」
声をかけると、四人が止まった。
野原さんが戻ってきて、私の足元を照らさずに手で確かめた。
「ゆっくり抜いて」
私は持ち手を握ったまま、膝を上げた。
泥が離れた。
その瞬間、腕が下がり、照子が声を漏らした。
「ごめん」
私は担架の高さを戻した。
まだ、壕の入口が見える場所だった。
*
前の列が止まると、私たちも止まった。
誰かが転んだのか、道が分からなくなったのか、後ろからでは見えなかった。止まっている間も、照子を持ち続けなければならなかった。
指の付け根が痛くなった。
昨日擦れたところに汗と雨が入り、持ち手が滑った。少し握り直すだけで照子が揺れるため、文子に声をかけ、片方ずつ持ち替えた。
暗闇の向こうで砲弾が落ちた。
遠い光に、前へ続く人の列が浮かんだ。肩を貸し合う兵隊さん、荷物を背負った女生徒、その間を進む人たちの濡れた背中が見えた。
光が消えると、また分からなくなった。
「下ろせるところ、ある?」
玲子が尋ねた。
野原さんが足元を確かめた。道の脇は穴になっていて、少し先まで進まなければ置けなかった。
「あと少し」
私は照子に言った。
照子は頷いた。
その言葉が何度も必要になることを、もう身体が分かり始めていた。
*
石垣の残った場所で、ようやく担架を下ろした。
泥の少ないところを選び、四人で膝を曲げた。木から指を離すと、腕が軽くなりすぎたように感じた。
文子が手を開いたり閉じたりしていた。
玲子は照子の足を確かめ、千代は後ろの列を見た。
「清美、来てる」
私は振り向いた。
信子に肩を支えられ、清美がゆっくり進んでいた。幸子が荷物を持ち、足を置く場所を指している。
私は水を出してもらい、照子の口へ寄せた。
照子は一口飲んでから、私たちを見た。
「まだ、近い?」
「壕から?」
頷いた。
私は後ろを見た。
もう入口は見えなかった。暗い斜面のどこかにあり、そこへ至る道も、人の列に隠れていた。
「少し、離れた」
答えると、照子は横になったまま空を見た。
雨が頬へ落ちた。私は拭こうとしたが、照子が目を閉じたので、顔のそばへ布を置くだけにした。
後ろから来た人たちが、私たちの横を通った。
その中に、村田さんの姿を探した。
棒をつく人はいた。兵隊さんに背負われた人もいた。けれど、暗くて顔が分からなかった。
壕で袖を掴んだ患者さんの顔が浮かんだ。
水を置いた場所を、私は覚えていた。
その人が列の中にいるかどうかは、分からなかった。
*
「進むぞ」
前から声が伝わってきた。
私は立ち上がり、持ち手へ指をかけた。
文子も、千代も、玲子も、自分の場所へ戻った。照子が担架の縁を握り直し、私たちの顔を見た。
「お願いします」
その言い方が寂しくて、私は名前を呼んだ。
「照子、上げるよ」
「うん」
四人で持ち上げた。
腕には、休む前の痛みが残っていた。私は持ち手を握り直し、文子と歩幅を合わせた。
前の人が踏んだ泥の跡を追った。
壕で結んだ照子の荷物は、和子の背中にあった。清美は後ろから来ていた。千代と玲子の返事も聞こえた。
一人ずつ確かめながら歩いた。
南へ向かっていることだけは、確かめなくても分かっていた。




