第67話 四人で持つ
照子の傷から、匂いがするようになった。
布を外す前から分かった。汗に濡れた服の匂いとは違い、そばへしゃがむと鼻の奥に残った。高橋さんが包帯の端を持ち上げると、傷へ当てた布に黄褐色のものが染みていた。
照子は顔を壁へ向けた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。足を動かさないでね」
高橋さんが答えた。
ふくらはぎは反対の足より腫れていた。傷の周りが赤く、濡れた縁のところに膿が溜まっていた。私は渡す布を持っていたが、照子に見られる前に目を顔へ戻した。
「どうなってる?」
照子が尋ねた。
「高橋さんが、見てくれてる」
私が答えると、照子は目を閉じた。
「それは、分かってる」
声が少し強かった。
私は黙った。高橋さんが照子へ傷の様子を説明し、もう一度軍医に診てもらうと言った。
照子は頷いたが、そのあと私には話しかけなかった。
*
移動の準備をするよう言われてからも、何日かが過ぎた。
結んだ荷物をほどき、必要なものを出して、また結んだ。いつ出るのか尋ねても、まだ分からないという答えが返ってきた。仕事の途中で急に呼ばれるかもしれないと思い、眠るときにも荷物を頭のそばへ置いた。
雨は続いていた。
濡れた服を掛けても乾かず、畳んだ布の内側まで湿っていた。患者さんの下へ敷くと、初めから冷たいと言われた。替えがほかにないことを伝えるたび、自分がその冷たさを我慢させているように感じた。
清美は、支えられながら通路を歩く練習をしていた。
傷めた足を床へ下ろし、少しずつ体重を移す。高橋さんが止めると、清美は素直に座った。もっと歩きたいとは言わなかったが、座ったあとも、自分の足を見ていた。
照子はその様子を黙って見ていた。
私は水の器を置き、そばへしゃがんだ。
「さっき、ごめん」
照子が顔を上げた。
「足のこと、聞いたのに答えなくて」
「理恵が悪いんじゃないよ」
照子は膝の上へ手を置いた。
「でも、皆が私の足を見て、何も言わなくなるから」
私は布に包まれた足を見た。
「自分では、よく見えないでしょう。曲げると痛いし」
「うん」
「見えない方が、怖いんだよ」
私は頷いた。
傷のことも、その先のことも、私たちは照子の前で口を閉じていた。安心させたいと思っていたのに、照子はその沈黙をずっと見ていた。
「分かることは、ちゃんと言う」
私は言った。
照子は少し考え、それから頷いた。
*
担架を使わせてほしいと頼んだのは、文子だった。
高橋さんに照子を動かしてもよいか尋ね、島袋先生にも話した。運ぶときに傷めた足をどう支えるか、入口を通れるか、出発してから初めて確かめるのでは遅いと思った。
先生はすぐには答えなかった。
担架は何度も外へ出ていた。空いたものがあっても、次の負傷者のために入口へ置いておかなければならなかった。
夕方近くになって、一つだけ使える時間ができた。
「壕の中で、少し持ち上げるだけです」
先生が言った。
「無理なら、すぐ下ろしてください」
私と文子と千代、それに玲子が集まった。
照子は私たちを見た。
「四人も、いいの?」
「今だけ、代わってもらった」
千代が答えた。
和子が仕事を振り分け直してくれていた。照子を運ぼうとすると、その間、四人がしていた仕事を誰かが受け持たなければならなかった。
高橋さんの声に合わせて身体を移すと、照子が息を詰めた。足の下へ布を入れ、揺れないように位置を直した。
「痛かったら言って」
私は顔のそばで言った。
「うん」
照子は担架の縁を握った。
*
四人で持ち上げると、最初は運べると思った。
以前の訓練のときより腕に力が入った。照子は私たちの動きを見て身体を固くしていたが、担架の上で大きく動くことはなかった。
私は前を文子と持ち、千代と玲子が後ろについた。
「行くよ」
声をかけ、足を出した。
通路が狭く、横に並んだままでは肩が壁へ当たった。文子が少し前へ出ると、持ち手の高さが変わり、照子の身体が傾いた。
「待って」
玲子が言った。
止まろうとしたところで、私の履物が泥を踏んだ。足が滑り、腕に急に重さがかかった。文子が踏ん張り、担架は落ちなかったが、照子が短く声を上げた。
「ごめん」
私は足を置き直した。
持ち上げているだけならできた。歩き始めると、四人の足が揃わなかった。患者さんの腕を避け、床の器を跨ぎ、壁の出っ張りに肩を擦った。そのたびに誰かの歩幅が変わった。
十歩ほど進んだところで、指が痛くなった。
持ち手を握り直したかったが、片手を緩めると、もう片方の手に重さが移った。掌の皮が木へ引かれ、傷のあったところが熱くなった。
「一度、下ろしましょう」
先生が言った。
私たちは床を確かめ、ゆっくり下ろした。
木から手を離すと、指がすぐには伸びなかった。玲子が腕を擦っていた。千代は肩で息をし、文子は照子の足元へしゃがんだ。
「痛かった?」
「少し」
照子が答えた。
声を出したのは、一度ではなかった。
私は照子の顔を見た。唇を噛み、額に汗を浮かべていた。私たちを困らせないように、少しと言ったのかもしれなかった。
*
入口を通す練習は、できなかった。
外から担架を求める声がした。
先生が振り返り、高橋さんと目を合わせた。私たちは照子を元の場所へ戻した。行きより腕が疲れていて、同じ道なのに何度も止まった。
照子を寝かせると、担架はすぐ入口へ運ばれた。
私はその後ろを見ていた。
「もう少し、試したかったね」
文子が言った。
私は頷いた。
壕の中を少し進んだだけで、腕が震えていた。外には砲弾の穴があり、雨で滑る斜面があった。そこで四人が同時に伏せなければならなくなったら、照子をどうすればよいのか。
考えているうちに、新しい患者さんが運ばれてきた。
照子が載っていた布へ、泥のついた軍服が沈んだ。兵隊さんは胸元を押さえ、息をするたびに苦しそうな音を出していた。
高橋さんに呼ばれ、私は布を取りに行った。
*
夜になって、村田さんが私を呼んだ。
水を飲ませたあと、器を戻そうとすると、手首へ指が触れた。
「さっきの学生さん、足をやられたのか」
「はい」
「同じ学校か」
私は頷いた。
村田さんは少し離れた照子の方を見た。人の身体と荷物の陰で、ここから顔は見えなかった。
「運ぼうとしてたな」
「移ることになったら、運べるように」
私は答えた。
村田さんは自分の脚へ掛けられた布を直そうとした。端へ手が届かず、私は引き上げた。
「ありがとうございます」
言われて、私は顔を上げた。
いつもより丁寧な言い方だった。
「いえ」
「その子の荷物は、先に誰かが持ってやるといい。運ぶ人が背負ってると、引っかかる」
私は頷いた。
「途中で持ち替えるときは、置くところを見てからにしろよ」
「はい」
村田さんはそこで口を閉じた。
私が立とうとすると、もう一度呼ばれた。
「学生さん」
「はい」
少し間があった。
「無理をして、皆で倒れないようにな」
私は返事をしようとして、村田さんの脚を見た。
村田さんも歩けなかった。
担架を四人で持っているところを、どんな気持ちで見ていたのだろう。その子、と言いながら、自分を運ぶ人のことも考えていたのかもしれなかった。
「村田さんは」
口にしかけた言葉を、私は止めた。
村田さんは私を見ていた。
私は器を置き直し、布の端を脚の下へ入れた。
*
照子のそばへ戻ると、玲子が荷物を二つに分けていた。
着替えを自分の風呂敷へ入れ、照子の手元には小さな包みだけを残した。文子も、持っていく水を誰が受け持つか考えていた。
「私の荷物、どこ行ったか分からなくなりそう」
照子が言った。
「私に聞けば分かるよ」
玲子が結び目を締めた。
「戻せるように、覚えておくから」
照子は少し笑った。
私はそばへ座り、今日持った担架の高さを話した。足元に入れた布がずれたことも、持ち上げる前に四人で声を合わせる必要があることも話した。
照子は黙って聞いていた。
最後に、私の掌へ目を落とした。
「手、切れた?」
木に擦れたところが赤くなっていた。
「少しだけ」
答えると、照子が顔を上げた。
私は自分の言ったことに気づき、掌を隠しかけた手を戻した。
「持ってると痛い。でも、今はもう平気」
照子は頷いた。
外で爆発が続いた。三人とも、照子の足へ掛けた布を見た。
私は掌を膝へ置き、痛みが引くのを待った。明日また持つなら、今日より遠くへ運ばなければならなかった。




