↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/124

第67話 四人で持つ



 照子の傷から、匂いがするようになった。


 布を外す前から分かった。汗に濡れた服の匂いとは違い、そばへしゃがむと鼻の奥に残った。高橋さんが包帯の端を持ち上げると、傷へ当てた布に黄褐色のものが染みていた。


 照子は顔を壁へ向けた。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい。足を動かさないでね」


 高橋さんが答えた。


 ふくらはぎは反対の足より腫れていた。傷の周りが赤く、濡れた縁のところに膿が溜まっていた。私は渡す布を持っていたが、照子に見られる前に目を顔へ戻した。


「どうなってる?」


 照子が尋ねた。


「高橋さんが、見てくれてる」


 私が答えると、照子は目を閉じた。


「それは、分かってる」


 声が少し強かった。


 私は黙った。高橋さんが照子へ傷の様子を説明し、もう一度軍医に診てもらうと言った。


 照子は頷いたが、そのあと私には話しかけなかった。


     *


 移動の準備をするよう言われてからも、何日かが過ぎた。


 結んだ荷物をほどき、必要なものを出して、また結んだ。いつ出るのか尋ねても、まだ分からないという答えが返ってきた。仕事の途中で急に呼ばれるかもしれないと思い、眠るときにも荷物を頭のそばへ置いた。


 雨は続いていた。


 濡れた服を掛けても乾かず、畳んだ布の内側まで湿っていた。患者さんの下へ敷くと、初めから冷たいと言われた。替えがほかにないことを伝えるたび、自分がその冷たさを我慢させているように感じた。


 清美は、支えられながら通路を歩く練習をしていた。


 傷めた足を床へ下ろし、少しずつ体重を移す。高橋さんが止めると、清美は素直に座った。もっと歩きたいとは言わなかったが、座ったあとも、自分の足を見ていた。


 照子はその様子を黙って見ていた。


 私は水の器を置き、そばへしゃがんだ。


「さっき、ごめん」


 照子が顔を上げた。


「足のこと、聞いたのに答えなくて」


「理恵が悪いんじゃないよ」


 照子は膝の上へ手を置いた。


「でも、皆が私の足を見て、何も言わなくなるから」


 私は布に包まれた足を見た。


「自分では、よく見えないでしょう。曲げると痛いし」


「うん」


「見えない方が、怖いんだよ」


 私は頷いた。


 傷のことも、その先のことも、私たちは照子の前で口を閉じていた。安心させたいと思っていたのに、照子はその沈黙をずっと見ていた。


「分かることは、ちゃんと言う」


 私は言った。


 照子は少し考え、それから頷いた。


     *


 担架を使わせてほしいと頼んだのは、文子だった。


 高橋さんに照子を動かしてもよいか尋ね、島袋先生にも話した。運ぶときに傷めた足をどう支えるか、入口を通れるか、出発してから初めて確かめるのでは遅いと思った。


 先生はすぐには答えなかった。


 担架は何度も外へ出ていた。空いたものがあっても、次の負傷者のために入口へ置いておかなければならなかった。


 夕方近くになって、一つだけ使える時間ができた。


「壕の中で、少し持ち上げるだけです」


 先生が言った。


「無理なら、すぐ下ろしてください」


 私と文子と千代、それに玲子が集まった。


 照子は私たちを見た。


「四人も、いいの?」


「今だけ、代わってもらった」


 千代が答えた。


 和子が仕事を振り分け直してくれていた。照子を運ぼうとすると、その間、四人がしていた仕事を誰かが受け持たなければならなかった。


 高橋さんの声に合わせて身体を移すと、照子が息を詰めた。足の下へ布を入れ、揺れないように位置を直した。


「痛かったら言って」


 私は顔のそばで言った。


「うん」


 照子は担架の縁を握った。


     *


 四人で持ち上げると、最初は運べると思った。


 以前の訓練のときより腕に力が入った。照子は私たちの動きを見て身体を固くしていたが、担架の上で大きく動くことはなかった。


 私は前を文子と持ち、千代と玲子が後ろについた。


「行くよ」


 声をかけ、足を出した。


 通路が狭く、横に並んだままでは肩が壁へ当たった。文子が少し前へ出ると、持ち手の高さが変わり、照子の身体が傾いた。


「待って」


 玲子が言った。


 止まろうとしたところで、私の履物が泥を踏んだ。足が滑り、腕に急に重さがかかった。文子が踏ん張り、担架は落ちなかったが、照子が短く声を上げた。


「ごめん」


 私は足を置き直した。


 持ち上げているだけならできた。歩き始めると、四人の足が揃わなかった。患者さんの腕を避け、床の器を跨ぎ、壁の出っ張りに肩を擦った。そのたびに誰かの歩幅が変わった。


 十歩ほど進んだところで、指が痛くなった。


 持ち手を握り直したかったが、片手を緩めると、もう片方の手に重さが移った。掌の皮が木へ引かれ、傷のあったところが熱くなった。


「一度、下ろしましょう」


 先生が言った。


 私たちは床を確かめ、ゆっくり下ろした。


 木から手を離すと、指がすぐには伸びなかった。玲子が腕を擦っていた。千代は肩で息をし、文子は照子の足元へしゃがんだ。


「痛かった?」


「少し」


 照子が答えた。


 声を出したのは、一度ではなかった。


 私は照子の顔を見た。唇を噛み、額に汗を浮かべていた。私たちを困らせないように、少しと言ったのかもしれなかった。


     *


 入口を通す練習は、できなかった。


 外から担架を求める声がした。


 先生が振り返り、高橋さんと目を合わせた。私たちは照子を元の場所へ戻した。行きより腕が疲れていて、同じ道なのに何度も止まった。


 照子を寝かせると、担架はすぐ入口へ運ばれた。


 私はその後ろを見ていた。


「もう少し、試したかったね」


 文子が言った。


 私は頷いた。


 壕の中を少し進んだだけで、腕が震えていた。外には砲弾の穴があり、雨で滑る斜面があった。そこで四人が同時に伏せなければならなくなったら、照子をどうすればよいのか。


 考えているうちに、新しい患者さんが運ばれてきた。


 照子が載っていた布へ、泥のついた軍服が沈んだ。兵隊さんは胸元を押さえ、息をするたびに苦しそうな音を出していた。


 高橋さんに呼ばれ、私は布を取りに行った。


     *


 夜になって、村田さんが私を呼んだ。


 水を飲ませたあと、器を戻そうとすると、手首へ指が触れた。


「さっきの学生さん、足をやられたのか」


「はい」


「同じ学校か」


 私は頷いた。


 村田さんは少し離れた照子の方を見た。人の身体と荷物の陰で、ここから顔は見えなかった。


「運ぼうとしてたな」


「移ることになったら、運べるように」


 私は答えた。


 村田さんは自分の脚へ掛けられた布を直そうとした。端へ手が届かず、私は引き上げた。


「ありがとうございます」


 言われて、私は顔を上げた。


 いつもより丁寧な言い方だった。


「いえ」


「その子の荷物は、先に誰かが持ってやるといい。運ぶ人が背負ってると、引っかかる」


 私は頷いた。


「途中で持ち替えるときは、置くところを見てからにしろよ」


「はい」


 村田さんはそこで口を閉じた。


 私が立とうとすると、もう一度呼ばれた。


「学生さん」


「はい」


 少し間があった。


「無理をして、皆で倒れないようにな」


 私は返事をしようとして、村田さんの脚を見た。


 村田さんも歩けなかった。


 担架を四人で持っているところを、どんな気持ちで見ていたのだろう。その子、と言いながら、自分を運ぶ人のことも考えていたのかもしれなかった。


「村田さんは」


 口にしかけた言葉を、私は止めた。


 村田さんは私を見ていた。


 私は器を置き直し、布の端を脚の下へ入れた。


     *


 照子のそばへ戻ると、玲子が荷物を二つに分けていた。


 着替えを自分の風呂敷へ入れ、照子の手元には小さな包みだけを残した。文子も、持っていく水を誰が受け持つか考えていた。


「私の荷物、どこ行ったか分からなくなりそう」


 照子が言った。


「私に聞けば分かるよ」


 玲子が結び目を締めた。


「戻せるように、覚えておくから」


 照子は少し笑った。


 私はそばへ座り、今日持った担架の高さを話した。足元に入れた布がずれたことも、持ち上げる前に四人で声を合わせる必要があることも話した。


 照子は黙って聞いていた。


 最後に、私の掌へ目を落とした。


「手、切れた?」


 木に擦れたところが赤くなっていた。


「少しだけ」


 答えると、照子が顔を上げた。


 私は自分の言ったことに気づき、掌を隠しかけた手を戻した。


「持ってると痛い。でも、今はもう平気」


 照子は頷いた。


 外で爆発が続いた。三人とも、照子の足へ掛けた布を見た。


 私は掌を膝へ置き、痛みが引くのを待った。明日また持つなら、今日より遠くへ運ばなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。