第9話 道を覚える
仲村先生のところへ行く朝、おばちゃんは店を開ける前に私の額を見た。
包帯の端が、眠っている間に少し浮いていた。私が指で押さえようとすると、おばちゃんはその手を止め、先生に見てもらってからにしようと言った。
「今日はトメさんが来てくれるから、ゆっくり歩いて行こうね」
私は頷いた。
外へ出るのは、退院してから初めてだった。店の入口まで行くことはあっても、その先の道へ足を踏み出す気にはなれなかった。車の音が近づくと、椀を拭いている手が止まることもあった。
おばちゃんはそのたび、何も言わずに私のそばへ来た。
今朝も、先に戸を開けてから、私が履物を履くのを待っていた。
トメさんは、ちょうど店へ入ってくるところだった。
「行ってらっしゃい。帰る頃には、鍋の支度もできてるよ」
私がお礼を言うと、トメさんは前掛けを広げながら笑った。
「今日は少し外を見ておいで。ここで座ってばかりじゃ、つまらないでしょう」
つまらないとは思っていなかった。けれど、返事に迷っていると、おばちゃんが私の方へ顔を向けた。
「疲れたら、すぐ帰ろうね」
私ははいと答え、入口の敷居を越えた。
*
病院までの道は、退院した日に歩いた道と同じだった。
それでも、反対向きに進むと、見覚えのあるものがなかなか見つからなかった。瓦屋根の家も石垣も、どこにでもあるように見えた。退院の日は、おばちゃんの背中と足元ばかり見ていたのだと思った。
「帰りは、あそこの角を曲がるんだよ」
おばちゃんが、道の先を指した。
「大きな木のあるところ?」
「そう。その先をまっすぐ行けば、店が見えるから」
私は木の幹を見た。根元の石垣が少し膨らみ、そばに小さな鉢が置かれていた。
それを覚えておこうと思った。
道の向こうから、荷物を持った男の人が来た。おばちゃんと挨拶を交わし、私には軽く会釈をした。私は遅れて頭を下げた。
おばちゃんは歩きながら、この辺りで仕事をしている人だと教えてくれた。
店へ来る人にも、道で会う人にも、それぞれ行く場所がある。
当たり前のことなのに、ここへ来てからは、どの人も知らない時代の人として見ていた。誰がどこで暮らしているのか、朝、何をしに出かけるのかを、私はほとんど知らなかった。
少し先の家から、子どもが飛び出してきた。
肩に掛けた鞄を押さえ、後ろへ向かって何かを言っている。家の中から女の人の声が返り、子どもはもう一度短く答えてから走り出した。
私はその背中を目で追った。
「学校ですか」
「そうだよ」
おばちゃんが答えた。
子どもは角を曲がり、見えなくなった。
私は、美羽と並んで歩いた道を思い出した。朝は時間を気にしていて、帰りは話をしながら、いつもよりゆっくり歩いた。
ここにも学校があることは分かっていた。
けれど、自分がそこへ行く姿は、まだうまく想像できなかった。
*
病院では、安里さんが私たちを迎えてくれた。
「あら、理恵ちゃん。よく眠れてる?」
「はい」
「食事も?」
「食べてます」
おばちゃんが横で頷いた。
「前より、ずいぶん食べられるようになったよ。昨日は椀を拭くのも手伝ってくれて」
安里さんは私を見て、無理はしないようにね、と言った。
私は診察室の前にある椅子へ座った。退院するまで寝ていた部屋は、廊下の奥にあった。戸は閉まっていて、誰かが中にいるのかは分からなかった。
ここを出てから、まだ数日しか経っていない。
けれど、おばちゃんと並んで待っていると、一人で寝台にいたときより、建物の中が静かに見えた。
仲村先生は、私が入ると椅子を示した。
額の包帯を外し、傷を見たあと、頭痛や吐き気がないかを聞いた。私は、急に立つと少しふらつくことがあると答えた。
「そういうときは、すぐ座って。まだ、元の調子で動こうとしなくていい」
先生は傷へ新しい当て布をしてくれた。包帯が小さくなり、額が少し軽く感じられた。
そのあと、ここで暮らしているうちに思い出したことはあるかと尋ねられた。
私は膝の上の手を見た。
家の住所も、母の電話番号も、帳面へ書いた。書いたことで、前よりはっきり思い浮かぶものもあった。けれど、先生の知りたいこととは違うのだと思った。
「……ここへ来る前のことは、覚えてます」
先生は頷いた。
「うん」
「でも、この辺りで知ってる人は、いません」
おばちゃんが隣で静かに聞いていた。
先生は紙を一枚動かし、しばらく目を落とした。
「あなたのことを尋ねている人がいないか、引き続き確かめてもらっているよ」
「はい」
私はそれ以上聞かなかった。
母が私を捜しているのは、ここではない。
そう思いかけて、私は診察室の窓へ目を移した。窓の外には塀があり、その向こうで誰かの帽子が動いた。
仲村先生は、おばちゃんにもいくつか注意を伝えた。私は二人の話を聞きながら、自分がここへ来たばかりの頃と同じように、まだ世話をしてもらっていることを考えた。
自分でできることを、もっと増やしたかった。
*
病院を出ると、おばちゃんはすぐには店の方へ曲がらなかった。
「少し寄っていい? 店で使うものを受け取って帰りたいんだけど」
私は頷いた。
行きと違う道へ入ると、急に不安になった。おばちゃんが隣にいるのに、さっき覚えた木が見えなくなっただけで、来た方向が分からなくなった。
私は振り返った。
「こっちからも帰れるよ」
おばちゃんが言った。
「でも、初めは同じ道の方がいいね。今日は一緒だから」
小さな店で包みを受け取り、おばちゃんは相手としばらく話をした。私は入口の脇へ立ち、道を行く人を見ていた。
女学生らしい子が二人、少し離れたところを歩いていた。
鞄を持ち、何かを話しながら、歩調を合わせている。片方が笑って、もう一人の腕へ触れた。その仕草が、美羽のすることに似ていた。
私は目を離せなかった。
昔の服を着た子たちだった。
けれど、歩きながら友達の顔を見る様子は、学校から帰る私たちと変わらなかった。何を話しているのか聞きたくなったが、二人はそのまま通り過ぎた。
「女学校の子たちだね」
おばちゃんが隣へ戻ってきた。
「この辺りに、あるんですか」
「汐見の女学校があるよ。店にも、ときどき生徒が来るから」
私はもう見えなくなった二人の方を見た。
汐見。
現代で調べたときには、覚えのない名前だった。自分が見た資料は少なく、全部の学校を知っているわけではなかった。
私は名前を忘れないよう、心の中でもう一度繰り返した。
「理恵ちゃんも、学校に通っていたんだよね」
おばちゃんが聞いた。
「はい」
「どんな勉強が好きだった?」
私は少し考えた。
得意なものを答えるべきなのか、好きなものを答えていいのか迷った。
「国語は、わりと……。本を読むのは、好きです」
「そう」
「でも、作文はあんまり。何を書けばいいか、分からなくなるから」
おばちゃんは笑った。
「話すことはあっても、紙に向かうと困るんだね」
私は頷いた。
昨日、帳面へ書いたことを思い出した。最初は数行で止まったのに、母のことを書き始めると、鉛筆を置けなくなった。
おばちゃんは包みを持ち直し、帰ろうかと言った。
私はその隣へ並んだ。
*
店へ戻る道で、おばちゃんはゆっくり歩いた。
私が疲れたかどうか、何度も尋ねる代わりに、ときどき足を止めた。立ち止まった場所で、店のある方角や、曲がる角を教えてくれた。
私は石垣の切れ目と、入口に鉢のある家を覚えた。
まだ一人では歩けないと思った。けれど、行きよりは、どこへ向かっているのか分かった。
大きな木が見えたとき、私はおばちゃんより先に口を開いた。
「あそこを曲がるんですよね」
「そう。覚えたね」
私は少しだけ笑った。
角を曲がると、食堂の看板が見えた。入口のそばにゲンさんがいて、トメさんと話していた。
「お帰り」
トメさんが私たちに気づいた。
「先生、どうだった?」
「傷はよくなってるって。まだ無理はしないように言われたけど」
おばちゃんが答えると、ゲンさんは私の額を見た。
「少し身軽になったな」
小さくなった包帯のことだった。
私は頭へ手をやり、頷いた。
店の中では、もう昼の準備が始まっていた。トメさんが鍋を見に戻り、おばちゃんは持ち帰った包みを台所へ置いた。
私は入口に立ったまま、道を振り返った。
次に病院へ行くとき、あの木までは分かる。
そこから先も、一つずつ覚えればいいのかもしれなかった。
*
夕方、帳面を取り出した。
元の服を包んだ風呂敷を開くと、昨日書いた紙が見えた。私は未来の出来事を書いたところを開かず、後ろの方の白い紙へ進んだ。
昭和十六年十一月二十六日。
病院へ行った。仲村先生に傷を見てもらった。
その下へ、道のことを書いた。
店から出て、大きな木のある角。根元に鉢。
書いてから、簡単な線を引いてみた。道は曲がり、家は四角になった。病院までつなごうとすると、途中の角が一つ分からなくなった。
私はそこを空けておいた。
続けて、今日聞いた名前を書いた。
汐見高等女学校。
しばらくその文字を見てから、二人の女学生のことを思い出した。片方が笑い、もう一人の腕に触れた。それだけの場面が、何度も浮かんだ。
私は次の行に、美羽の名前を書いた。
何か続きを書こうとしたが、鉛筆が止まった。
美羽は、今日、誰と帰ったのだろう。
私の席は、そのままだろうか。机の中に置いたものは、母が取りに来たのだろうか。
私は帳面を閉じた。
店でおばちゃんが私を呼んでいた。返事をすると、少し手を貸してほしいと言われた。
帳面をしまい、台所へ行った。
おばちゃんは座ったままできるよう、卓の端に布巾を置いてくれていた。乾いたものを畳む仕事だった。
「今日は疲れたでしょう。これだけでいいからね」
「大丈夫です」
私は布巾の角を揃えた。
少しして、おばちゃんが私の向かいへ座った。手には、繕いかけの服を持っていた。
針を動かしながら、おばちゃんは言った。
「理恵ちゃん。身体がもう少しよくなったら、学校のことも聞いてみようか」
私は手を止めた。
「私も、行けるんですか」
「まだ分からないよ。事情を話して、どうしたらいいか教えてもらおうと思って」
私は畳みかけの布巾を見た。
学校へ行く。
ここで暮らすだけでも、知らないことが多かった。教室へ入れば、もっと分からないことがあるだろう。名前を聞かれ、どこから来たのかと尋ねられるかもしれない。
それでも、今日見た二人の姿が浮かんだ。
友達と並んで歩く時間を、私は知っていた。
「……聞いてみたいです」
答えると、おばちゃんは針を止め、私を見た。
「うん。急がずにね」
私は布巾を畳み終え、重ねたものの上へ置いた。
この家へ帰る道を、今日、少し覚えた。
まだ知らない学校へ行く道も、いつか覚えるのだろうか。
おばちゃんの針が、布を通った。私は次の布巾を広げながら、明日も外へ出られるだろうかと考えた。




