第8話 しまっておくこと
翌日の昼過ぎ、店の入口でおばちゃんを呼ぶ声がした。
私は卓の端に座り、拭き終えた椀を並べていた。顔を上げると、籠を腕に掛けた女の人が戸口に立っていた。退院した日に、留守の食堂を預かってくれていた人だった。
「トメさん、入って。今、お茶を入れるから」
おばちゃんが台所から答えた。
トメさんは私を見ると、籠を卓へ置いた。
「今日は起きてるのね。少し元気になった?」
「はい。あのときは、ありがとうございました」
頭を下げると、トメさんは片手を軽く振った。
「お礼なんていいよ。隣なんだから」
私は入口の向こうを見た。
店の隣にも家があることは知っていたが、誰が住んでいるのかまでは知らなかった。病院から来る道で、おばちゃんと話していた人たちも、この辺りで暮らしているのだろう。
トメさんは私の向かいへ座り、籠から布に包んだものを出した。
おばちゃんが湯飲みを運んできたあと、二人は私には聞き取れない言葉を交えて話し始めた。短いやり取りの中で、トメさんが何度か笑った。おばちゃんも笑い、包みを台所へ持っていった。
私は椀へ布を当てたまま、二人の顔を交互に見ていた。
「分からなかったでしょう」
おばちゃんが戻ってきて言った。
私は頷いた。
「少しだけ」
「お芋を持ってきてくれたの。今、ありがとうって言ったんだよ。ニフェーデービル、って」
おばちゃんは、私に聞こえるようにゆっくり繰り返した。
私は口の中で同じ音をなぞった。最後まで言おうとすると、聞いたときと違う響きになった。
トメさんが湯飲みを持ちながら笑った。
「すぐ覚えなくていいよ。こっちだって、あなたの話し方を聞いてると、あら、と思うことがあるもの」
「私の?」
「そう。お互いさまね」
私は少し笑った。
分からないのは自分だけだと思っていた。けれど、私の言葉も、この人たちには聞き慣れないことがある。
トメさんは包みのあった場所を見て、明日はあれを使うといい、とおばちゃんに話した。何を作るのか尋ねようとしたところで、入口から男の人が顔を出した。
「ここにいたか」
トメさんが振り向いた。
「お茶をいただいてるの。あなたも座ったら」
男の人は手に小さな道具の箱を持っていた。入口で足を止め、私を見ると、少し顔を傾けた。
「理恵ちゃんだな」
「はい」
「トメから聞いてるよ。隣のゲンです」
私は立ち上がりかけたが、ゲンさんはそのままでいいと手を出した。
おばちゃんが、私の肩へ軽く触れた。
「ゲンさんは、戸が閉まりにくくなったときなんかに見てくれるんだよ。今日は裏の戸を頼んであったの」
「下が擦ってるだけだと思うがね」
ゲンさんは店の奥へ目を向けた。
私はその手元を見た。箱の中には、知らない道具が幾つか入っていた。家では何かが壊れると、母が電話をかけて人を呼んだり、新しいものを買ったりしていた。おばちゃんは隣へ頼みに行き、ゲンさんは自分の箱を持って来る。
「邪魔にならないところで、見ててもいいですか」
尋ねると、ゲンさんはおばちゃんを見た。
「立ってると疲れるから、座って見ようね」
おばちゃんはそう言って、裏口の手前へ椅子を運んでくれた。
*
ゲンさんは戸を何度か開け閉めし、下の方を覗き込んだ。
私は椅子に座り、膝の上へ手を置いて見ていた。動かすたびに木が擦れる音がする。ゲンさんが指でその場所を確かめ、箱から道具を取り出した。
「昨日は、こんな音しなかったと思います」
「気づかなかっただけかもしれんよ。初めて来た日は、見るものが多いからな」
私は頷いた。
昨日も、一昨日も、いろいろなものを見ていた。それでも、店のラジオに気づいたのは昨日だったし、トメさんが隣の人だと知ったのは今日だった。
ゲンさんが作業をする間、私は背中越しに店の声を聞いた。おばちゃんとトメさんの話に、客の声が加わった。
「上原さん、いつもの?」
「うん。それと、水を一杯もらえるか」
昨日、よろしくなと言ってくれた人の声だった。
私は椅子から少し身を乗り出し、店の方を見た。おばちゃんが気づき、手で部屋へ戻るような仕草をしたので、私は座り直した。
「働きたいのか」
ゲンさんが、手を動かしながら聞いた。
「少しなら」
「少しずつでいいさ。昨日できなかったことが、今日は一つできれば、それでいい」
私はゲンさんの横顔を見た。
戸の下から、小さな木くずが落ちていた。ゲンさんはそれを払い、もう一度、戸を動かした。さっきより軽い音がした。
「ほら」
私が持ち手へ手をかけると、戸は引っかからずに動いた。
「すごい」
「どこが擦ってるか分かれば、難しくないよ」
ゲンさんは道具を箱へ戻し、床の木くずを集めた。
私はその言葉を聞きながら、自分の分からないことを考えた。
どこで何が起きたのかが分かれば、帰れるだろうか。
事故のあった道。目を覚ました病院。私が見つかった場所。
考えるための手がかりは、幾つかあった。けれど、頭の中で並べようとすると、いつも途中で母の顔が浮かび、順番が分からなくなった。
私は自分の膝に目を落とした。
書いておきたいと思った。
*
トメさんとゲンさんが帰ったあと、私は台所のそばでおばちゃんに声をかけた。
「紙って、ありますか」
おばちゃんは洗っていた皿を置いた。
「何か書くの?」
「忘れないように、少し」
何を、と聞かれるのを待った。
おばちゃんは私の顔を見てから、棚の引き出しを開けた。中のものを確かめ、奥から薄い帳面を取り出した。
「これなら、まだ使ってないよ」
卓へ置かれた帳面は、家で使っていたノートより薄かった。表紙の角が少し曲がっていたが、開くと何も書かれていない紙が続いていた。
「お店で使うものじゃないんですか」
「使うつもりでしまってあったけど、今は別のがあるから」
私は指で紙の端へ触れた。
「もらっても、いいですか」
「いいよ。鉛筆は、部屋のを使って。短くて持ちにくかったら言ってね」
私は帳面を両手で持った。
「ありがとうございます」
さっき教わった言葉を言おうかと思ったが、口にする前に順番が分からなくなった。おばちゃんは私が考えていることに気づかなかったようで、いつもの調子で頷いた。
私は部屋へ戻り、帳面を机に置いた。
戸は閉めた。
閉めてから、廊下に音がしないか、少し待った。
*
鉛筆を手に取るのは、ここへ来てから初めてだった。
短い軸には、使っていた人の指が当たった跡があった。私は机の上にあった小さな布を端へ寄せ、帳面の最初の紙を開いた。
何から書けばいいのか、すぐには決まらなかった。
日付を書こうとして、昨日の暦を思い出した。
今日は一つ進んでいる。
私は紙の上へ、ゆっくり文字を書いた。
昭和十六年十一月二十五日。
その下に、自分の名前を書いた。
寺田理恵。
見慣れた文字だった。学校のノートや、提出するプリントへ何度も書いてきた名前だった。
私はその二行を見つめた。
昭和十六年の紙に、自分の名前がある。
次の行へ何を書くか迷い、鉛筆の先を少し浮かせたまま考えた。
私は家の近くで、トラックに轢かれた。
目を覚ましたら、沖縄の病院だった。
おばちゃんの食堂にいる。
そこまで書いて、一度手を止めた。
こんな文章を誰かが読んだら、どう思うだろう。先生に話したときと同じように、頭を打ったからだと言われるかもしれない。帳面を書いたことも、覚えていることも、休んだ方がいい理由になるのかもしれなかった。
私は戸を見た。
おばちゃんは私の話を聞いてくれた。家へ帰っていいとも言ってくれた。
それでも、これから書くことは、まだ話せなかった。
紙を一枚めくり、上の方へ「覚えていること」と書いた。
十二月八日。
その下へ、真珠湾攻撃、と続けた。
鉛筆が止まった。
日付を書けば、少し落ち着くと思っていた。頭の中に浮かんでくる数字を紙へ移せば、順番ができるはずだった。
けれど、書かれた文字は消えずにそこに残った。
私は行を空け、続きを書いた。
昭和二十年、沖縄戦。
四月一日、米軍が沖縄本島に上陸。
そのあとが続かなかった。
十月に大きな空襲があったことは覚えていた。十・十空襲という名前も、家のパソコンで見た。何年だったかと考え、昭和十九年だったはずだと思ったが、書く前に迷った。
数字の横へ小さく「たぶん」と添えた。
学徒隊の解散についても、六月だったことは覚えていた。十八日という数字が浮かんだが、学校によって違うと読んだ気もした。
私は、「ひめゆり 六月十八日?」と書いた。
ほかの学校のことは、分からなかった。
知っているつもりだったことが、紙の上では少なくなった。
映像で聞いた話は、いくつも浮かんだ。暗い壕、食事、怪我をした人の世話。けれど、誰の話で、いつのことだったかを思い出そうとすると、はっきりしない。
私は鉛筆を置いた。
ただ、沖縄戦があると知っているだけでは、目の前の人に何を言えばいいのか分からなかった。
*
しばらくして、最初の紙へ戻った。
日付と名前、その下の短い文章を読み直した。事故のことも、おばちゃんの食堂のことも、どちらも自分に起きたことだった。
私はもう一度、鉛筆を持った。
お母さんに謝っていない。
そう書くと、目の奥が痛くなった。
母の名前を書き、覚えている電話番号を書いた。家の住所と、美羽の名前も書いた。忘れるはずがないと思っていたのに、書いておかなければならない気がした。
この部屋で暮らす日が増えていく。
朝になれば顔を洗い、店でご飯を食べる。トメさんが来て、ゲンさんが戸を直す。上原さんが席へ座り、おばちゃんが食事を運ぶ。
私は少しずつ、その順番を覚え始めていた。
その代わりに、家の何かが薄くなったらどうしようと思った。母が私を呼ぶ声を、いつかうまく思い出せなくなったら。
私は、家の朝のことを書いた。
母が二度、起こしに来る。ご飯をよそう。制服の襟を直す。
書いている途中で、鉛筆の先が紙に強く当たった。文字の一部が濃くなり、私はその上を指で擦りそうになってやめた。
廊下で足音がした。
「理恵ちゃん、お水いる?」
私は帳面を閉じた。
「……大丈夫です」
「疲れたら、横になるんだよ」
「はい」
足音が遠ざかってから、私は閉じた表紙へ手を置いた。
隠したかったのは、おばちゃんからではなかったのかもしれない。
この年に自分がいることを、誰かと一緒に確かめるのが怖かった。
*
帳面は、元の服と一緒にしまうことにした。
箪笥の下の段は、おばちゃんが私のために空けてくれていた。洗った服を風呂敷で包み直し、その内側へ帳面を入れた。
未来に起きることを書いた紙が、外から見えないようにする。
私は包みを引き出しの奥へ置いた。
閉めてから、一度だけ開け直した。ちゃんとそこにあることを確かめ、今度は音を立てないように閉めた。
店から、おばちゃんに呼ばれた。
夕飯の支度をする前に、少し食べておこうという声だった。私は鉛筆を元の布へ戻し、部屋を出た。
卓には二人分の椀が並んでいた。
台所でおばちゃんが鍋を見ている。裏口の戸は、ゲンさんが直してから、軽く動くようになっていた。
「書けた?」
おばちゃんが尋ねた。
私は席へ座り、頷いた。
「少し」
「そう。思い出したことがあったんだね」
私は返事をする代わりに、椀を両手で持った。
おばちゃんはそれ以上聞かなかった。私の皿へおかずを置き、向かいへ座った。
湯気の向こうで、いつものように、食べられそうかと聞かれた。
私ははいと答えた。
部屋の引き出しには、まだ来ていない日のことがしまってある。
そのことを知っているのは、今は私一人だった。




