第7話 食堂の朝
目を覚ましたとき、どこにいるのか分からなかった。
窓のある方向が違っていた。家では、枕元の右側から朝の光が入る。この部屋では、足元の方に明るい四角があり、その手前に机の脚が見えた。
私は布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
やがて、戸の向こうから食器の触れ合う音が聞こえた。水を使う音に続いて、おばちゃんが誰かと短く話している。昨日、この部屋へ連れてきてもらったことを思い出し、私はゆっくり起き上がった。
頭に手を当てると、包帯の端が指に触れた。強い痛みはなかったが、急に身体を起こしたせいで少しふらついた。布団の上に座って待ち、落ち着いてから立った。
昨日脱いだ服は、畳んで枕元に置いてあった。
もんぺの紐を結び、上着の袖を折り返す。小さな鏡で髪を直そうとしたが、櫛がどこにあるのか分からなかった。手で撫でていると、戸の外から声がした。
「理恵ちゃん、起きてる?」
「はい」
「顔を洗うところ、教えるね」
戸を開けると、おばちゃんはもう前掛けをしていた。
寝ていた間に、店の仕事が始まっている。そのことに少し焦り、私は布団を見た。
「先に、これ片づけます」
「あとでいいよ。起きたばかりでしょう」
おばちゃんについて廊下を歩いた。
朝の台所は、昨日より明るかった。棚の上の椀が光を受け、鍋から細く湯気が上がっていた。店の方にはまだ客がいなかったが、入口の戸は開いていた。
裏へ出ると、水の入った桶があった。
おばちゃんは洗面器へ水を移し、私の前に置いた。私は袖をもう一度まくり、手を浸した。冷たさに指が縮こまったが、顔に水を当てると眠気が少し薄れた。
額の傷を濡らさないようにしていると、おばちゃんが清潔な布を渡してくれた。
「そっとね」
頬を拭きながら、私は辺りを見た。
庭の端に鉢が並び、壁際には箒が立てかけてあった。洗ったらしい布が紐に掛けられ、風のない朝の空気の中で静かに垂れていた。
ここでは、朝起きて顔を洗うことにも、まだ人の手を借りなければならなかった。
*
朝食は、台所に近い卓へ用意されていた。
私は椀を前に置かれ、おばちゃんも向かいへ座った。ご飯と汁物、小さな皿に盛ったおかずがあった。昨日よりお腹がすいていて、箸を持つと、すぐに一口食べられた。
「眠れた?」
「はい。途中で、一回起きたけど」
「知らないところだものね」
おばちゃんはそう言って、私の額を見た。
「痛む?」
「今は、あんまり」
「よかった。今日は休みながら過ごそうね」
私は頷いたが、店の入口へ目が行った。
ここで食べて、ここで寝ている。おばちゃんはその間も、朝から働いている。
「少しなら、手伝ってもいいですか」
おばちゃんは箸を止めた。
「何をしたい?」
聞き返されるとは思わず、私は台所を見た。
「お皿、洗うとか」
「重ねた皿を持つのは、まだやめておこうね。落としたら怪我をするから」
「じゃあ、拭くのは」
おばちゃんは少し考えた。
「座ってできることなら、あとで一緒にやろうか」
私は頷いた。
少しだけでも仕事があると分かると、食事をしていても落ち着いた。
おばちゃんは先に食べ終わり、入口へ出た。外の人と挨拶を交わしている声がした。私は最後のご飯を口に入れ、椀の底に残った粒を箸で集めた。
昨日までとは違う朝だった。
学校へ行く時間を気にしなくてもいい。けれど、それが楽だとは思えなかった。美羽はもう制服に着替えているのだろうか。母は私の部屋を覗き、起きなさいと言う代わりに、誰かへ電話をかけているのかもしれない。
私は箸を置き、膝の上で両手を重ねた。
*
暦は、店の壁に掛かっていた。
おばちゃんが朝食の盆を片づけている間に、私は卓のそばから見上げた。
十一月。
昨日聞いたとおりの月だった。上の方には、昭和十六年と印刷されていた。
声で聞いたときは、言い間違いではないかと思う余地があった。紙の上の文字は、私が何度読み直しても変わらなかった。
私は数字の並びを目で追った。
「今日は、二十四日だよ」
戻ってきたおばちゃんが、私の見ているものに気づいて教えてくれた。
「十一月、二十四日……」
「そう。明日になったら、また一つ進むでしょう」
おばちゃんは冗談めかして言ったが、私は笑えなかった。
十二月八日まで、二週間。
頭の中で数えてから、もう一度、暦を見た。
その日は、まだこの紙には載っていなかった。十一月が終われば、めくられた次の紙に現れる。
私は学校のノートに書いた数字を思い出した。千九百四十一年十二月八日。開戦。真珠湾攻撃。
今ここで、おばちゃんに何と言えばいいのだろう。
もうすぐ戦争が始まる、と言ったら、どこで聞いたのか尋ねられる。学校で習ったと言えば、その学校はどこなのかという話になる。
私は現代から来た。
その言葉を自分の中で考えるだけでも、足元が頼りなくなった。先生には、記憶が混乱しているのだろうと言われた。おばちゃんも、私が日にちを忘れていると思っている。
「理恵ちゃん?」
呼ばれて、私は顔を向けた。
「座ろうか。立ってると疲れるよ」
おばちゃんは卓の上へ布を広げ、洗い終えた椀を幾つか運んできた。
私は椅子へ座った。
暦はそのまま、壁に掛かっていた。
*
椀の拭き方は、おばちゃんが一つ目を持って見せてくれた。
「縁だけじゃなくて、裏もね。ここに水が残るから」
渡された布で、私は椀を包むように持った。家では洗った食器を籠へ置けばよかった。母があとで片づけることもあったし、乾いたものを棚へ戻すよう頼まれることもあった。
こんなふうに一つずつ拭いたことは、あまりなかった。
おばちゃんの手は速かった。椀を回しながら布を当て、確かめるように縁を見て、棚へ置く。私はそれを真似したが、布のどこを使えばいいのか迷い、何度も持ち直した。
「慌てなくていいよ」
「これで、大丈夫ですか」
差し出すと、おばちゃんは裏を見た。
「うん。きれいになった」
私は次の椀を取った。
そのうちに、入口から男の人が入ってきた。
「今日は早いね」
おばちゃんが声をかけた。
「用事の前に、何か食べようと思って」
男の人は卓へ座り、私を見た。
「ああ、この子か」
私は椀を持ったまま頭を下げた。
「理恵ちゃん。しばらく、ここで暮らすんだよ」
おばちゃんが台所から言った。
「そうか。よろしくな」
「……よろしくお願いします」
男の人はそれ以上何も尋ねず、卓の上の湯飲みを取った。
私はそのことにほっとした。
どこから来たのか、親はどこにいるのかと聞かれたら、また同じ説明をしなければならない。答えられることはあるのに、答えるほど相手が困ってしまう。それが、もう怖くなっていた。
おばちゃんが食事を運ぶと、男の人は箸を割り、食べ始めた。
私は椀を拭きながら、店の中を見た。
入口から風が入ってくる。道を歩く人の影が、ときどき戸口を横切る。台所からは、煮える音が聞こえる。
暦に書かれた年と、この店の朝は、私の中でうまく結びつかなかった。
千九百四十一年という数字を見れば、戦争のことが浮かぶ。けれど、目の前では男の人が汁を飲み、おばちゃんが足りるかと尋ねていた。
昨日調べていた「戦争の前」は、こんな時間だったのかもしれない。
そう思ってから、私は拭いていた椀を膝から少し持ち上げた。
写真の中にあったはずの暮らしが、今は手に触れられた。
*
昼に近づくと、店へ来る人が増えた。
おばちゃんは私に部屋へ戻るよう言ったが、疲れていないと答えると、店の隅に座っているならいいと許してくれた。
卓を拭く布を畳み、乾いたものと分ける。それだけの仕事をしながら、私は客の声を聞いていた。
天気の話をする人がいた。家族の用事で急いでいる人もいた。おばちゃんは相手に合わせて返事を変え、食事を運び、空いた器を下げた。
その途中で、私の前へ水を置いてくれた。
「飲んでおいてね」
私は礼を言った。
おばちゃんは、もう別の客に呼ばれていた。
台所と卓の間を動く背中を見ていると、家の母を思い出した。夕飯の支度をしながら、洗濯物を確かめ、私に宿題は終わったかと聞く。
私はそのたび、今やるつもりだったと言った。
この店では、おばちゃんが次に何をしなければならないのか、少しだけ見えた。椀を下げれば、次の客に使える。布巾があれば、卓を拭ける。水がなくなれば、誰かが入れなければならない。
母が毎日していたことも、きっと同じだった。
頼まれた洗濯物を、帰ってすぐ取り込んでいれば。
私は畳んだ布を揃え直した。
考え始めると、その先はいつも同じ道へ戻った。玄関、雨、携帯電話、トラックの明かり。
私は湯飲みを持ち、水を飲んだ。冷たさが喉を通る間だけ、目の前の店へ戻れた。
*
客が途切れたあと、おばちゃんは卓を一つずつ拭いた。
私は畳んだ布を渡し、部屋へ戻る前に店を振り返った。
棚の上に、木の箱があった。
正面に丸い目盛りと、二つのつまみがついている。下の方は布で覆われていた。
昨日もそこにあったはずなのに、初めて気づいた。
「あれ、ラジオですか」
おばちゃんは私の目線を追った。
「そうだよ」
「聞けるんですか」
「聞けるよ。時間によって、あまりよく聞こえないこともあるけどね」
おばちゃんは棚へ近づき、つまみに手をかけた。
すぐには声が出なかった。小さな雑音が続き、おばちゃんがもう一つのつまみをゆっくり回すと、遠くから人の声が近づいてきた。
言葉が聞き取れるようになったとき、私は背筋を伸ばした。
放送だった。
今、この時代にいる誰かが、別の場所で話している。その声が、この箱を通って食堂へ届いていた。
私は棚を見つめた。
教科書で読んだ開戦の日にも、人はこんなふうにラジオのそばにいたのだろうか。
「小さい?」
おばちゃんが音を少し大きくした。
「……大丈夫です」
私は答えた。
放送の言葉を一つずつ聞こうとしたが、知らない言い回しがあり、話の途中からでは内容をつかめなかった。それでも、声が途切れずに続くことが気になり、部屋へ戻るのを忘れた。
おばちゃんは台所へ行き、鍋の蓋を取った。
私は壁の暦へ目を向けた。
十一月二十四日。
それから、またラジオを見た。
二週間後、この店にも、あの日の声が届くのかもしれない。
おばちゃんはまだ、その日もいつもと同じように客を迎え、食事を作るのだろう。
私は台所へ向かいかけて立ち止まった。何かを言いたいのに、最初の言葉が決まらなかった。
おばちゃんが鍋をかき混ぜながら、こちらを振り向いた。
「どうしたの?」
私は口を開き、少し間を置いた。
「……明日も、椀を拭いていいですか」
おばちゃんは私の顔を見てから、頷いた。
「疲れなければね」
私ははいと答えた。
ラジオの声を背に、部屋へ戻った。廊下の先には、昨夜眠った布団が畳まれていた。窓際の机に、短い鉛筆が置いてある。
私はその前に座り、両手を膝へ置いた。
知っている日が近づいてくる。
けれど、今日のおばちゃんに伝えられたのは、明日も手伝いたいということだけだった。




