第6話 娘の部屋
退院の日、おばちゃんは風呂敷包みを抱えて迎えに来た。
私は寝台に腰かけ、洗って返してもらった服を膝の上に置いていた。家を出たときに着ていた上着には、肩の辺りに擦れた跡があった。ズボンの膝は破れ、縫い合わせたところだけ布が引きつっていた。
看護婦さんが繕ってくれたのだという。
お礼を言うと、その人は、歩けるようになってよかったね、と私の膝を見た。包帯はもう外れていたが、傷にはまだ薄いかさぶたが残っていた。
先生に最後の診察をしてもらってから、おばちゃんは寝台の端で風呂敷を広げた。
「これ、着てみる?」
中には、折り畳んだ上着と、足首を絞ったズボンが入っていた。
もんぺだった。
私は布へ触れた。何度も洗われたものなのか、指に当たるところが柔らかかった。上着には小さな模様があり、袖口の内側に、丁寧な縫い目が並んでいた。
「少し大きいかもしれないけど、紐で加減できるから」
おばちゃんはそう言って、私の膝の上にあった服へ目を向けた。
「そっちも持って帰ろうね」
誰の服なのか、私は尋ねなかった。
おばちゃんが廊下へ出ている間に着替えた。上着の袖は指の付け根まであり、二度折り返すと手が出た。もんぺの腰紐を結ぶのに少し手間取ったが、足を動かしてみると、思っていたより楽だった。
部屋の隅の小さな鏡には、見慣れない姿の自分が映った。
額の包帯は小さくなっていた。髪は看護婦さんがとかしてくれたものの、寝ていた癖が残っていて、耳の横だけ外へ跳ねている。
顔は自分のままだった。
それなのに、着るものが変わっただけで、鏡の中の自分まで知らない子に見えた。
私は袖を引き、包んでもらった元の服を胸へ抱えた。
*
病院の外へ出ると、光が眩しかった。
立ち止まった私に、おばちゃんが、ゆっくりでいいよ、と声をかけた。先生からは、まだ急に走ったり、長く動き回ったりしないよう言われていた。
おばちゃんは荷物を持ち、私の歩幅に合わせて歩いた。
道の向こうに、瓦屋根の家があった。低い石垣のそばで、女の人が桶を洗っていた。私たちが通ると顔を上げ、おばちゃんへ声をかけた。
「もう退院できたのね」
「うん。しばらく、うちにいることになったよ」
女の人は私を見て、身体を大事にね、と言った。
私は頭を下げた。
歩き出してから、背中に視線が残っているような気がした。振り返らず、おばちゃんの持つ風呂敷を見ながら歩いた。
建物も、道を行く人も、病院の窓から見たものより近かった。
裸足に履物を引っかけて歩く子がいた。頭に荷を載せた女の人が、少し離れたところを進んでいた。店先には木の箱が置かれ、奥で誰かが客と言葉を交わしている。
知らない言葉が、知っている日本語の間に混じって聞こえた。
私はつい、その声のする方へ顔を向けた。
「分からない言い方もあるでしょう」
おばちゃんが言った。
「私も、ゆっくり話すからね。分からなかったら聞いて」
「はい」
返事をしてから、私は道の先を見た。
どこかに、見慣れたものがないか探していた。信号や、コンビニの看板や、電柱に貼られた住所。ひとつでも見つかれば、そこから家へ戻れるような気がした。
けれど、目に入るのは知らない景色だった。
道は舗装のないところで足元が ふらつき、私はかさぶたのある膝を庇って歩いた。おばちゃんが一度立ち止まり、荷物を持ち替えた。
「疲れた?」
「大丈夫です」
「もう少しだよ。あの角を曲がったところ」
私は頷いた。
そのとき、後ろから車の音が聞こえた。
振り向く前に、身体が固まった。エンジンが近づき、道の端へ避けなければと思ったのに、足が止まったまま動かなかった。
おばちゃんの手が、私の腕へ触れた。
「こっちへ寄ろうね」
引かれるまま石垣のそばへ移ると、小さな荷台のある車が通り過ぎた。巻き上がった埃に、おばちゃんが少し顔を背けた。
私は息を吐いた。
指が冷えていた。おばちゃんは車を見送り、それから私の手元を見た。
「怖かったね」
私は頷いた。
事故のことを聞かれると思ったが、おばちゃんは何も尋ねなかった。しばらくその場で待ち、私が歩き始めると、また隣へ並んだ。
*
食堂は、道に面した木の建物だった。
入口の上には看板があり、脇に小さな鉢が幾つか置かれていた。開いた戸の向こうに、卓と長椅子が見えた。昼を少し過ぎていたからか、客は二人だけだった。
おばちゃんが中へ声をかけると、奥から年配の女の人が出てきた。
「お帰り。先生、何て?」
「無理しなければ大丈夫だって。今日はありがとうね」
「いいよ。鍋はまだ温かいから」
その人は私を見て微笑み、理恵ちゃんだね、と言った。
私は驚いて顔を上げた。
「この人に、留守の間だけ店を頼んでたんだよ」
おばちゃんが説明してくれた。
卓に座っていた男の人もこちらを見たので、私は挨拶をした。声が小さく、もう一度言った方がいいのか迷ったが、男の人は軽く頷いて食事へ戻った。
店の中には、煮物の匂いがこもっていた。
台所の方で鍋の蓋が鳴り、水の流れる音がした。壁に掛けた布巾は端から順に揃えられていて、棚には皿や椀が重ねてあった。
「先に、部屋へ行こう」
おばちゃんは私を店の奥へ案内した。
台所の脇を通り、履物を脱いで上がる。短い廊下の先に部屋が二つあり、おばちゃんは奥の戸の前で足を止めた。
風呂敷を床へ置き、戸へ手をかける。
開ける前に、ほんの少し間があった。
「ここだよ」
私はおばちゃんの後ろから中を見た。
畳の部屋だった。
窓際に小さな机があり、その上に木の箱が置かれていた。壁のそばには箪笥が一つあり、棚には本が数冊並んでいる。窓は開いていて、薄い布が風に揺れていた。
布団が、部屋の隅に畳んであった。
誰かが使うための部屋だった。
そう思ってから、ここにいた人はもういないのだと、改めて分かった。
「窓を開けておいたから、少しは涼しいと思う」
おばちゃんは風呂敷を運び入れ、机の横へ置いた。
「着替えは、あとで一緒に見ようね。使えるものは使っていいから」
私は入口に立ったまま、畳の縁を見ていた。
「入っていいんですか」
おばちゃんが振り向いた。
「もちろん。理恵ちゃんに使ってもらう部屋なんだから」
私はゆっくり足を入れた。
病院の床とは違う感触が、足の裏に伝わった。窓から入る光が机の脚へ落ち、空気の中に細かい埃が見えた。
机の端に、鉛筆が一本置いてあった。
長く使ったのか、短くなっていた。尖った先が机に触れないよう、小さな布の上に載せてある。
私はその鉛筆から目を離せなかった。
家の机にも、鉛筆を置いてきた。ノートを開いたまま、パソコンのそばに。
この机に向かっていた女の子も、また使うつもりでそこへ置いたのだろうか。
おばちゃんは私の視線を追い、机へ近づいた。
「気になるものがあったら、片づけるから言ってね」
「いいです」
私は慌てて首を振った。
「このままで……大丈夫です」
おばちゃんは鉛筆へ伸ばしかけた手を戻した。
「そう」
それだけ言って、部屋の隅の布団を確かめた。
私は抱えていた元の服を膝へ置き、畳に座った。食堂の方から、客が椅子を動かす音が聞こえた。誰かがお勘定を頼み、留守番をしていた人が返事をした。
この部屋の向こうでは、今日の仕事が続いていた。
*
昼の残りを食べる間、おばちゃんは向かいに座っていた。
店の客が帰ったあと、卓を一つ空けてくれた。私の前には、ご飯と汁物、小さな皿に盛った煮物が並んだ。
「苦手なもの、ある?」
尋ねられ、私は少し考えた。
「玉ねぎが、大きいと……」
こんなときに言うことではないと思い、途中で声が小さくなった。
おばちゃんは笑わず、そうか、と頷いた。
「細かければ食べられるんだね」
「はい」
「じゃあ、覚えておこう」
私は椀を持った。
湯気に顔を近づけると、空腹だったことが分かった。病院では途中で止まってしまった箸が、その日は少しずつ進んだ。
おばちゃんは食べる様子を見ながら、自分も遅い昼食を取った。
食べ終わって椀を重ねると、私は持ち上げた。
「どこに持っていけばいいですか」
「今日は置いておいていいよ」
「でも、これくらいなら」
おばちゃんは私の手から椀を受け取った。
「先生と約束してきたでしょう。元気になったら、手伝ってもらうから」
私は手を引いた。
何もしないでここにいることが落ち着かなかった。食事も、部屋も、着るものも用意してもらったのに、私には返せるものがなかった。
おばちゃんは台所へ椀を運び、戻ってくると、布巾を手に私の卓を拭いた。
「食べられたね」
その言葉に、私は小さく頷いた。
できたこととして言ってもらえるのが、少し不思議だった。
*
夕方まで、私は部屋で休んだ。
横になると、食堂から声が聞こえた。注文をする声、おばちゃんの返事、食器を置く音。会話の中には分からない言葉も多かったが、人が出入りしていることは分かった。
一度だけ、誰かが私のことを尋ねた。
おばちゃんは、今は寝ているからね、と答えた。それから話題が変わり、足音が遠ざかった。
私は目を閉じたまま、その声を聞いていた。
病院では、扉が開くたび母を待った。ここでは、知らない人が急に部屋へ入ってこないと分かり、少し眠ることができた。
目覚めたとき、部屋は薄暗くなっていた。
起き上がり、窓の外を見ると、隣の家の屋根が夕方の光を受けていた。庭の端に置かれた水の器で、小さな虫が動いている。遠くから子どもを呼ぶ声がした。
私は机の前へ座った。
棚にある本へ手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。使っていいと言われても、勝手に触るのはためらわれた。
代わりに、風呂敷の中から自分の服を取り出した。
上着のポケットを一つずつ確かめる。何も入っていなかった。携帯電話は、やはりここにはなかった。
擦れた肩のところを指で撫でた。
この服を着ていた私は、家の玄関で母に背を向けた。今着ている服は、ここにいた娘のものなのかもしれない。
私は元の服を丁寧に畳み、風呂敷の上へ戻した。
戸の向こうで、おばちゃんの足音が止まった。
「起きてる?」
「はい」
「入っていい?」
私が返事をすると、おばちゃんは水の入った湯飲みを持って入ってきた。机へ置いてから、窓を少し狭く閉めた。
「夜は冷えるからね」
私はその背中へ尋ねた。
「あの、今、何月ですか」
おばちゃんは振り向き、十一月だよ、と答えた。
「もうじき十二月になるね」
私は湯飲みを見た。
昭和十六年の、十一月。
昨夜から考えないようにしていた数字が、日付になって近づいてきた。十二月八日という、ノートに書いた日が浮かんだ。
あと、どのくらいなのだろう。
おばちゃんは私の顔を見ていた。
「日にちが、分からなくなっちゃった?」
「……はい」
「明日、暦を見せるね。店の方に掛けてあるから」
私は頷いた。
知りたいと思って聞いたのに、聞いたあとは、その日が来ることを考えたくなかった。
おばちゃんは部屋を出る前に、戸のところで立ち止まった。
「何かあったら、呼ぶんだよ。すぐ隣にいるから」
「はい」
戸が閉まってから、私は湯飲みを両手で持った。
食堂では、まだ片づけの音が続いていた。おばちゃんがそこにいる。眠ったあとも、この家の中にいる。
水を一口飲み、私は布団を広げた。
枕に頭を置くと、家とは違う匂いがした。それでも、廊下の向こうで聞こえる足音に耳を澄ませているうちに、張りつめていた身体が少しずつ緩んだ。
母に会いたい気持ちは、なくならなかった。
私は胸元まで布団を引き上げ、家で眠るときと同じように横を向いた。目を閉じる前に、小さな声で、おやすみと言った。
誰に向けて言ったのかは、自分でも決められなかった。




