第5話 行くところ
昭和十六年だと聞いたあと、私は誰にもその話をしなかった。
もう一度尋ねれば、違う答えが返ってくるかもしれないと思った。けれど、同じ答えを聞くことが怖かった。窓の外が暗くなり、部屋の電球が点けられても、私は布団の中から廊下の様子を窺っていた。
夕方、腕を貸してくれた女の人は、看護婦さんに何かを頼んでから帰っていった。
帰り際、寝台のそばへ来て、今夜はよく眠るんだよと言った。
私は小さく頷いただけだった。
知らない人に優しくされるほど、母に会いたくなった。ここにいる人たちは、私がどこから来たのかを知らない。私にも、この人たちが誰なのか分からなかった。
夜の食事は半分ほど残した。
看護婦さんは盆を下げる前に、気分が悪いのかと聞いた。私は首を振ったが、お腹がいっぱいなのとも違った。口に運んだものを飲み込むたび、家の食卓に置いてきた皿が浮かんだ。
あのとき、座ったまま食べていればよかった。
何度考えても、思い出の中の私は椅子を引いて立ち上がった。玄関で母に呼ばれても振り向かず、帰るからと言って扉を閉めた。
私は布団を鼻の下まで引き上げた。
廊下の電灯が消されたあとも、しばらく足音が聞こえていた。隣の部屋から咳が続き、どこかで小さな声が応じた。寝返りを打つと、寝台の枠が鳴った。
家では、夜中に目が覚めても、壁の向こうに母がいると分かっていた。
私は耳を澄ませた。ここにも誰かはいる。けれど、その誰かに呼びかける言葉が、まだ見つからなかった。
*
翌朝、先生は紙を挟んだ板を持って来た。
頭痛や吐き気について聞かれ、昨日より軽くなったと答えた。目の動きを確かめられ、傷を見てもらったあと、先生は寝台の横の椅子へ座った。
「眠れたかな」
「少し」
「そうか。食事も、食べられる分でいいから取っておこう」
私は頷いた。
先生は、昨日私が話した住所を読み上げた。聞き慣れた地名がこの部屋で発音されると、不思議なほど遠く感じられた。
「ここで間違いない?」
「はい」
「お父さんやお母さんのほかに、沖縄に親戚はいないかな」
「いません」
先生は紙に目を落とした。
私は、自分の答えがまた何かを難しくしたのだと分かった。先生は困った顔を見せなかったが、次の質問までの間が長かった。
「学校の名前を教えてくれる?」
私は答えた。
何年生か、どんな先生がいるか、友達の名前は何か。聞かれることには答えられた。美羽の名前を口にしたとき、昨日の昼休みのことが浮かんだ。
本を返してくれた手。弁当を覗き込んだ顔。明日見せてと送ってきたメール。
美羽は今、私の席を見ているだろうか。
「先生」
私は膝の上で手を重ねた。
「私の家に、行けませんか」
先生は顔を上げた。
「すぐに、というのは難しいね」
「住所、分かってます」
「うん。聞いたことは書いてあるよ。ただ、家の人を見つけるには、もう少し調べなければならない」
私は唇を噛んだ。
先生が怠けているわけではないと思った。私が知らないところで、誰かに尋ねてくれているのかもしれない。
それでも、紙に住所を書いてあることと、帰れることの間には、どうしても埋まらないものがあった。
「今は、覚えていることを無理に一つにつなげようとしなくていい」
先生はそう言った。
「頭を打ったせいで、前後がはっきりしなくなっているのかもしれない。焦らずに、身体を治そう」
「……記憶が、なくなったってことですか」
「全部ではないよ。自分の名前も、大切な人のことも覚えている。ただ、どうしてここへ来たのか、その辺りが混乱しているんだろう」
私は目を伏せた。
ここへ来た理由が分からないのは、本当だった。
けれど、家のことを思い出せないのではなかった。思い出せるから苦しかった。母の声も、部屋の匂いも、机の上に残したノートも、どれもはっきりしていた。
そのことを説明しようとして、私は口を閉じた。
事故の話をしても、先生は私が倒れていた道のことを話す。携帯電話の番号を言っても、何度も確かめられる。
昭和十六年では、母はまだ生まれていない。
その考えが浮かぶたび、私は慌ててほかのことへ目を向けた。最後まで考えてしまったら、本当に帰れなくなる気がした。
*
昼前、夕方に会った女の人が、また病室へ来た。
手には昨日と同じ籠を持っていた。私が起きているのを見ると、扉のところで顔を和らげた。
「今日は、少し顔色がいいね」
私は枕から頭を上げた。
女の人は看護婦さんと言葉を交わし、籠を台へ置いた。その中から、小さな布の包みを取り出した。
「先生が食べてもいいって言ったら、あとでね。今はお昼を待とう」
包みの中が何なのかは見えなかった。ただ、誰かが私のために何かを持ってきてくれたことが、すぐには理解できなかった。
「あの……」
女の人がこちらを向いた。
「昨日も、来てくれたんですか」
「そうだよ」
「私、どこかで会ったこと、ありますか」
女の人は少し驚いてから、首を振った。
「ないと思うよ。私も、あなたを見たのは一昨日が初めてだから」
「一昨日?」
「あなたが倒れていたところに、人が集まっていたの。ちょうど通りかかってね。病院へ運ぶのを、少し手伝ったんだよ」
私はその顔を見た。
道路に倒れていた自分を、この人は見ていた。
私が覚えている道路とは違うのだろう。それでも、目を覚ます前の私を知っている人に、初めて会えた気がした。
「どんなところでしたか」
女の人は、近くの道の名前を言った。私には分からなかった。
車がいたか、誰かが一緒にいたかと尋ねると、女の人は一つずつ考えてから答えてくれた。倒れるところは見ていない。そばに家族らしい人はいなかった。持ち物も見つからなかったという。
私は白い寝間着の袖を見た。
「私、何を着てましたか」
「薄い上着に、膝の少し下くらいまでのズボンだったね。汚れていたから、ここの人が洗ってくれてるよ」
家を出たときの服だった。
私は袖を握った。自分の身体だけでなく、着ていたものも、ここへ来ている。
女の人は、私の表情を見て、それ以上話すのをやめた。
「何か、思い出した?」
私は首を振った。
思い出したのではなかった。覚えていることを、別の人に確かめられたのだった。
それが安心なのか、もっと怖いことなのか、分からなかった。
*
昼食のあと、私は寝台に座ることを許された。
女の人は椅子を寄せ、食べ終わるまで待っていてくれた。私が盆を脇へ置こうとすると、先に持ち上げて台へ移した。
「理恵ちゃん、だったね」
私は頷いた。
「寺田理恵です」
「そう。理恵ちゃん」
女の人は一度、確かめるように呼んだ。
この部屋で、自分の名前をそんなふうに呼ばれたのは初めてだった。先生に尋ねられて答えるのとは違って、誰かの話の中に自分がいるように聞こえた。
「お仕事は、何をしてるんですか」
黙ったままでいるのが気になり、私は尋ねた。
「食堂をやってるんだよ。大きな店じゃないけどね」
「一人で?」
「普段はね。忙しいときは、近くの人が手を貸してくれることもあるけど」
私は、食堂という言葉から駅前の店を思い浮かべた。テーブルが幾つかあり、入口に献立が貼られているような店なのだろうか。
「毎日、ご飯作るんですね」
言ってから、当たり前のことを聞いたと思った。
けれど、女の人は笑った。
「作るよ。朝から晩まで、何を食べさせようか考えてる」
その笑い方に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
女の人は膝の上で手を重ねた。指の節には細かい傷があり、爪は短く切られていた。
「私にも、あなたくらいの娘がいたのよ」
私は顔を上げた。
女の人は私を見ていたが、すぐに目を台の上の包みへ移した。
「けど、事故で亡くなっちゃってね……」
声が少し低くなった。
私は何も言えなかった。
事故という言葉を聞いて、自分の膝へ目を落とした。包帯が巻かれている。頭にも傷がある。それなのに、今ここで話を聞いている。
その人の娘は、戻らなかった。
何か言わなければと思ったが、かわいそうだと言うのも、すみませんと言うのも違う気がした。私はただ、その人が次に話すのを待った。
「部屋も、まだそのままなの。片づけようと思って、入るんだけどね。窓を開けて、掃除をしたら、それで終わっちゃう」
女の人は、困ったように少し笑った。
私は家の自分の部屋を思った。
制服をかけた椅子。開いたノート。借りた本。
母がそこへ入って、何も動かせずにいるところを想像してしまい、喉が苦しくなった。
女の人は私の顔を見て、身体を少し近づけた。
「大丈夫?」
私は頷いたが、うまく息が吸えなかった。
「お母さんに……」
声にした途端、目の奥が熱くなった。
「会いたい」
女の人は何も言わずに、私のそばにいた。
昨日から、母の名前も住所も何度も口にした。連絡してほしいとも頼んだ。けれど、会いたいとそのまま言ったのは、初めてだった。
「喧嘩したんです」
私は布団の縫い目を見ながら話した。
「私が悪かったのに。頼まれたこと、しなくて……それで、言い返して、家を出て」
涙が膝へ落ちた。




