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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第4話 知らない病室


 目を開ける前に、誰かが水を絞る音を聞いた。


 少し間を置いて、額に冷たいものが触れた。気持ちがよくて、そのまま眠っていたかったが、布が頬を拭っていく感触に、私はゆっくりと目を開いた。


 最初に見えたのは、白い袖だった。


 その向こうに、女の人の顔があった。髪をきちんとまとめ、白い帽子をかぶっている。私が目を開けたことに気づくと、その人は手を止めた。


「分かりますか」


 声は静かだった。


 私は答えようとして、喉の奥が乾いていることに気づいた。唇を動かすと、貼りついていたところが少し痛んだ。


「……水」


「少し待ってくださいね」


 女の人は、持っていた布を洗面器の縁へ置いた。寝台の脇にあった小さな台から湯飲みを取り、私の肩の下へ腕を差し入れる。


 身体を起こされた途端、頭の奥に鈍い痛みが走った。私は目を閉じ、女の人の腕に体重を預けた。


「ゆっくりでいいですよ」


 湯飲みの縁が唇に当たった。少しずつ飲むよう言われ、私は口に入った水を飲み込んだ。ぬるい水だったが、喉を通る感触にようやく息がつけた。


 横になると、枕から乾いた布の匂いがした。


「先生を呼んできますから、起きないでくださいね」


 女の人は湯飲みを戻し、部屋を出ていった。


 私はその足音が遠ざかるのを聞きながら、天井を見た。


 白く塗られていた。けれど、窓に近いところは薄く変色していて、壁との境目には細いひびが入っていた。照明は一つだけで、丸い笠の下に電球が見えた。今は点いておらず、部屋の明るさは窓から入っていた。


 顔を少し横へ向けると、木の窓枠があった。


 開け放した窓の外で、葉が揺れている。遠くから人の声が聞こえ、どこかで鳥が鳴いた。


 病院だろうと思った。


 白い服の女の人は、看護師なのだろう。私は寝台に寝ていて、額には何かが巻かれている。腕を動かすと、肘の辺りも痛んだ。


 それから、トラックの明かりを思い出した。


 クラクションの音。濡れた道路。手から離れた携帯電話。


 私は思わず上半身を起こしかけた。頭が重く揺れ、吐き気がこみ上げてきたので、すぐに枕へ戻った。


 事故に遭った。


 どのくらい眠っていたのだろう。母は来ているだろうか。


 寝台の周りを見たが、鞄も携帯電話もなかった。椅子が一脚、壁際に置かれているだけで、そこにも誰の荷物も載っていない。


 私は布団の上から胸元を見下ろした。


 着ていた服ではなかった。


 薄い、白っぽい寝間着だった。襟の形も、布の手触りも、病院で借りる服としては見慣れないものだった。袖から出ている手首には、患者の名前が書かれた帯も、何もついていなかった。


 布団を少し持ち上げると、膝に包帯が巻かれていた。


 私はもう一度、部屋を見た。


 寝台は金属の枠でできていた。塗装の剥がれたところがあり、足元には薄い布団が畳んで置かれている。壁際の棚には茶色い瓶が並び、洗面器の隣には、使った布を入れるためらしい器があった。


 機械の音がしなかった。


 事故に遭った私のそばには、何かの数字を表示する画面も、点滴を吊るす棒も見当たらない。看護師を呼ぼうとして枕元を探したが、押すものがなかった。


 廊下から、複数の足音が近づいてきた。


 扉が開き、先ほどの女の人と、白衣を着た男の人が入ってきた。男の人は眼鏡をかけていて、手には紙を挟んだ板を持っていた。


「気がついたそうだね」


 私は頷いた。


 男の人は寝台の横に椅子を寄せ、私の顔を見た。


「頭は痛む?」

「少し……」

「気分が悪かったり、吐きそうになったりは」

「起きようとしたら、気持ち悪くなりました」


「まだ無理に起きなくていい。まず、少し話を聞かせてもらおうか」


 私はその人の顔を見た。


 母のことを聞きたかった。けれど、先生らしい人が私の手首へ指を当て、脈を確かめ始めたので、その手が離れるまで待った。


「名前は言えるかな」


「寺田理恵です」


 先生は紙に何かを書いた。


「幾つ?」

「十三歳です」


「家は、どこにある?」


 私は住所を答えた。


 途中で先生の手が止まった。最後まで言うと、先生は隣に立っていた女の人と、短く目を合わせた。


「こちらへは、家族と来ていたのかな」


「こちら?」


「沖縄には、誰と来たの?」


 私は先生を見つめた。


 聞き違えたのだと思った。喉がまだ乾いていたせいか、自分の声がうまく出ない。


「……沖縄?」


「そうだよ」


 先生は私が理解するのを待つように黙った。


 私は窓へ目を向けた。外の葉が揺れていた。そこから見える空は明るく、どこかで人が笑った。


 昨日の夜、私は家を出た。


 駅へ向かう道を歩き、母のメールを見た。あの道は、何度も通っている家の近くの道だった。


 沖縄へ来るはずがなかった。


「ここ、沖縄なんですか」


 先生が頷いた。


 私は布団の上で指を握った。爪が手のひらに触れたが、痛みを感じても、先生の言葉は変わらなかった。


「お母さんは」


「お母さんの名前を教えてくれるかな」


 私は答えた。それから、連絡してほしいと言った。


「電話番号、分かります。携帯の番号」


 先生は少し眉を寄せた。


「電話があるんだね。番号を言ってごらん」


 私は母の番号を口にした。


 先生は最初の数字を書き、途中から私の顔を見ていた。言い終わると、もう一度確かめるように、初めから言ってくれるかな、と頼まれた。


 私は同じ番号を繰り返した。


「私の携帯電話は、どこですか」


 先生の隣で、白い帽子の女の人が首を傾げた。


「持ち物は、何もなかったんですよ」


「でも、持ってました。落としたけど、道路に……」


 そこまで言って、息が詰まった。


 誰かが拾ってくれたのだろうか。壊れたのかもしれない。だからここにないのだと考えようとしたが、沖縄という言葉が邪魔をした。


「私は、トラックに轢かれたんです」


 先生は紙を膝へ置いた。


「覚えていることを、順番に話してもらえる?」


 私は家を出たことを話した。母と喧嘩をして、傘を持たずに歩いたこと。帰ろうとしていたこと。携帯電話で母に返事を打っていたこと。


 先生は途中で遮らなかった。


 けれど、聞き終わったあと、しばらく何も言わなかった。


「あなたは、道端で倒れているところを見つけられて、ここへ運ばれてきたんだ」


「トラックの人が?」


「運んできたのは、近所の人だよ。倒れるところを見た人は、今のところいない」


 私は先生の顔を見た。


 何かが違っていた。


 自分の覚えていることを話すほど、この部屋から離れていくような気がした。先生はちゃんと聞いてくれているのに、話のつながるところへ辿り着けなかった。


「私、いつからここにいるんですか」


「昨日の夕方からだよ」


「昨日……」


 事故に遭ったのは夜だった。


 私は言いかけて、先生の白衣を見た。胸のポケットには細い筆記具が差してあり、その下に、硬そうな襟と濃い色の服が見えていた。


 昨日の夕方。


 沖縄。


 説明してもらった二つのことを、頭の中で繰り返した。


 先生は私の目の動きを確かめ、幾つか質問をした。そのあと、今は身体を休ませることが大事だと言った。


「頭を打ったあとは、覚えていることが混乱する場合もある。無理に思い出そうとしなくていい」


「でも、私は——」


「名前は言えたし、お母さんのことも覚えている。それはちゃんと分かったよ」


 先生の声は穏やかだった。


 私が話したことを否定しているわけではない。けれど、私の言葉を、そのまま本当のこととして聞いているのでもなかった。


「少し眠って、落ち着いてから、また話そう」


 先生は立ち上がり、女の人に何かを伝えた。低い声だったので、全部は聞こえなかった。


 記憶、という言葉だけが耳に残った。


     *


 昼食は、小さな盆に載せて運ばれてきた。


 お粥と、煮た野菜が少しあった。女の人は背中に枕を足してくれて、盆を膝の上へ置いた。


「食べられそうですか」


 私は頷いた。


 匙でお粥をすくうと、湯気が上がった。お腹がすいていたはずなのに、数口食べただけで手が止まった。


 女の人は食べ終わるのを急かさず、窓際で洗面器の水を替えていた。


「お母さんに、連絡してもらえますか」


 もう一度頼むと、その人は私の方を向いた。


「先生にもお話ししましたからね。まず、こちらにお知り合いがいないか、調べてもらっています」


「ここには、知ってる人はいません」


 言ったあと、その言葉が自分に返ってきた。


 私は匙を盆へ置いた。


 知っている人が、いない。


 母も、美羽も、学校の先生もいない。家へ帰る道も分からない。先生に住所を伝えたのに、そこへ帰してもらえるという話にはならなかった。


 女の人は盆を持ち上げ、あとでまた少し食べましょうと言った。


 扉が閉まると、私は布団を胸元まで引き上げた。


 廊下では人が行き来していた。話し声が近づいたり遠ざかったりして、ときどき木の床が鳴った。部屋の中で一人でいると、その音ばかり気になった。


 少しして、外で低いエンジンの音がした。


 私は反射的に身体を固くした。トラックの前面が浮かび、耳の奥でクラクションが鳴った気がした。


 音が遠ざかっても、心臓は速いままだった。


 目を閉じると、母のメールを思い出した。


 迎えに行くから教えて。


 母は迎えに出たのだろうか。


 事故のあった場所で、誰かに私のことを聞いたのかもしれない。病院へ運ばれたと知ったら、きっと来る。怒っていても来ると思った。


 私は扉を見た。


 開くたびに母が入ってくるような気がして、廊下の足音が近づくと、息を止めて待った。


 けれど、夕方になっても、母は来なかった。


     *


 窓から入る光が弱くなった頃、私は寝台の端へ身体を寄せた。


 頭の痛みは、朝より少し軽くなっていた。ゆっくり足を下ろすと、膝の包帯が引きつった。床に足をつけ、しばらく座ってから立ち上がった。


 部屋の隅に、履物が揃えてあった。


 足を入れると少し大きかった。私は寝台の枠に手を添えながら扉まで歩き、そっと開けた。


 廊下の向こうに、白い服の人が見えた。


 さっきの女の人と似た帽子をかぶっていた。すれ違った男の人は、ゆったりした上着とズボンを着ていて、手に布の包みを持っていた。


 私は扉の縁を握った。


 男の人の服装を、どこかで見たことがあった。


 学校の先生が着ていた服でも、祖父が普段着ている服でもなかった。もっと前のものだった。


 廊下の壁には、紙が貼ってあった。文字を読む前に、その向こうから女の人が歩いてきた。


 白い服ではなかった。


 髪を後ろでまとめ、模様の小さな上着を着ていた。下は、足首のところで絞られたズボンのようなものだった。


 その形を見た瞬間、昨日パソコンで見た写真が浮かんだ。


 もんぺ。


 授業の資料にも、同じような服を着た人が写っていた。


 女の人は私に気づき、歩く速さを緩めた。


「あら。起きて大丈夫なの?」


 私は返事ができなかった。


 顔色が悪く見えたのか、その人は持っていた籠を近くの台へ置き、私のそばへ来た。


「ふらつくんじゃない? 無理しちゃいけないよ」


 腕に触れた手は温かかった。私はその手に支えられ、部屋へ戻った。


 女の人は、私が寝台に座るまで横についていた。それから廊下へ顔を出し、看護の人を呼んだ。


 私は俯いたまま、自分の膝を見た。


 知らない寝間着。知らない病室。知らない服を着た人たち。


 昨日まで調べていた写真の中のものが、この建物の中にあった。


「どうしたの。どこか痛む?」


 女の人が、少し身をかがめて聞いた。


 私は顔を上げた。


「今……何年ですか」


 声が震えた。聞き返されるかと思ったが、女の人は私を見て、ゆっくり答えた。


「昭和十六年だよ」


 私はその顔を見つめたまま、何も言えなかった。


 昭和十六年。


 昨日、開戦の時期を調べてノートに書いた年だった。


 換算した西暦も覚えていた。


 千九百四十一年。


 部屋へ戻ってきた白い服の女の人が、起きてはいけませんよと言った。私は促されるまま横になった。二人が何かを話していたが、言葉がうまく頭に入ってこなかった。


 窓の外には、まだ人の暮らす音があった。


 遠くで誰かが呼びかけ、別の誰かが返事をしていた。廊下を歩く足音も、棚に置かれた瓶も、私の額へ触れる布の感触も消えなかった。


 私は布団の中で、自分の指を強く握った。


 教科書で知っていた年に、今、自分がいる。


 そう考えた途端、帰ると言いかけた母のいる家が、どこにあるのか分からなくなった。

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