第3話 帰らなかった夜
翌朝、目覚ましが鳴ったとき、私は一度だけ手を伸ばして音を止めた。
昨夜は自分で起きようと思っていた。それを思い出したのは、母に二度目の声をかけられ、布団から顔を出してからだった。カーテンの隙間にはもう光が入っていて、廊下では母が洗濯物を運んでいた。
「理恵、時間見て。ご飯、食べられなくなるよ」
私は返事をして起き上がった。机の上には、昨夜開いていたノートがそのまま置かれていた。最後の行の「戦争の前」という文字を見ながら、眠る前に考えたことと、今の眠たさが、同じ自分の中にあるのを持て余した。
台所へ行くと、母は私の椀に味噌汁をよそっていた。
「今日はパンにする?」
「ご飯でいい」
「じゃあ、早く座って」
昨夜の残りの味噌汁と、卵焼きと、小さく切ったりんごが並んでいた。私は椅子に座り、まだ少し熱いご飯を口に入れた。母が時計を見るたび、自分も釣られて顔を上げてしまう。
昨日よりうまく本の話をしようと思っていたのに、そんな時間はなかった。
「今日、帰ったら洗濯物取り込んでおいて。お母さん、少し遅くなるから」
「何時?」
「六時過ぎるかもしれない。ご飯は帰ってから作るね」
私は頷き、残りのりんごを急いで食べた。
玄関で靴を履いていると、母が弁当袋を持ってきた。忘れていたことに気づいて手を伸ばすと、母は渡す前に、私の制服の襟を直した。
「髪、後ろが跳ねてる」
「いいよ、もう」
「よくないでしょう」
母の指から逃れるように身体を引き、弁当袋を受け取った。行ってきますと言ったつもりだったが、扉を閉めてから、声が小さすぎたかもしれないと思った。
*
美羽は、私が教室へ入るとすぐに、借りた本を持ってきたか尋ねた。
「持ってきたけど、全部は読めてない」
「昨日、結構調べた?」
「映像も見てたら、遅くなっちゃって」
鞄から本を取り出すと、美羽は表紙を見て、それから慎重に開いた。私が貸出票を挟んでいるページに行き当たり、女学生の写真を眺めた。
「この人たちも学徒隊?」
「その学校の子たちみたい」
「なんか、普通に楽しそうだね」
私も写真を見た。
昨夜、長く眺めていた顔が、明るい教室で見ると少し違って見えた。隣の子に肩を寄せている女の子は、写真を撮られる間だけ、そうしていたのかもしれない。けれど、その短い時間にも、二人の間にあった親しさが残っていた。
「戦争になる前は、学校に通ってたんだよね」
私が言うと、美羽は顔を上げた。
「そりゃ、そうなんだろうけど……あんまり考えたことなかった」
自分も昨日までそうだったと答えようとしたところで、予鈴が鳴った。
美羽は本を閉じて私に返し、一時間目の教科書を取り出した。私も本を鞄へ戻した。数学の授業が始まると、黒板に書かれた式を写し、途中で分からなくなったところに印をつけた。
先生に指されて答えに詰まり、隣で美羽がノートの端を指差してくれた。
昼休みには、弁当の卵焼きを食べながら、週末の話をした。美羽が見たいと言った映画を私は知らず、説明を聞いているうちに、自分も見たくなった。ほかの友達が加わると、話は店の新しい飲み物へ移り、誰かが笑い出して、私も一緒に笑った。
その間、鞄の中の本を忘れていた。
午後の授業でノートを取り出したとき、下に重ねていた平和学習の資料が見えた。私は紙の角を押し込み、先生の説明へ顔を上げた。
気になっていることがあっても、学校では次の授業が始まる。昨日知ったことが頭に残っていても、友達といると笑えた。それが悪いことではないと分かっていたのに、気持ちの置き場所が、まだうまく見つからなかった。
*
家へ帰ると、母はまだ戻っていなかった。
私は居間の椅子に鞄を置き、台所で麦茶を注いだ。冷蔵庫の扉を開けると、朝、母が切っていた野菜が容器に入っていた。夕飯の準備を途中までしていったらしい。
洗濯物を取り込むことは、そのとき覚えていた。
麦茶を飲んだらやろうと思い、食卓へ座った。鞄から本を取り出したのは、続きを一ページだけ読むつもりだったからだった。
気になる言葉が出てきて、部屋のパソコンをつけた。
検索しているうちに、別の証言を紹介するページへ移った。昨日とは違う学校の話だった。ノートに名前を書き、映像を開いた。聞き取れないところで戻していると、外で何かが窓を叩いた。
顔を上げたときには、ガラスに細かい雨粒がついていた。
私は椅子を引いて立ち上がった。
ベランダへ出ると、タオルの端がすでに濡れていた。慌てて洗濯ばさみを外し、腕に抱えて部屋へ入れる。シャツも、風が当たっていた側が冷たくなっていた。どうすればいいか迷い、とりあえず居間の物干しにかけ直した。
最後の一枚を広げていると、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
母は買い物袋を持って入ってきた。居間の洗濯物を見て、一瞬、足を止めた。
「取り込んでなかったの?」
「今、入れた」
「雨が降る前に入れておいてって、朝頼んだでしょう」
私はタオルの折れたところを直しながら、うん、と答えた。
母が近づき、シャツに触れた。
「これ、明日着るのに」
「そんなに濡れてないよ」
「袖、濡れてるじゃない。もう一度乾かさないと」
母は袋を食卓へ置き、濡れたものを確かめ始めた。私は物干しの前に立ったまま、どこを手伝えばいいのか分からずにいた。
「帰ってから何してたの?」
「本読んでた」
「昨日の?」
「それと、調べてた」
母の視線が、開いたままの部屋の扉へ向いた。机の画面には、止めた映像が残っていた。
「調べるのはいいけど、頼んだことは先にして。お母さんだって、帰ってからやることがあるんだから」
その言い方に、私は顔を上げた。
「分かってる」
「分かってたら、忘れないでしょう」
「忘れただけじゃん。わざとじゃないし」
母は持っていたシャツを物干しへ戻した。
その瞬間、謝ればよかったのだと思う。朝から頼まれていて、帰ったときには覚えていた。後回しにしたのは私だった。
けれど、自分でも分かっていることを母に言われると、素直に認めるより先に、言い返したくなった。
「そんなに怒ること?」
「怒ってるんじゃなくて、ちゃんとしてって言ってるの」
母は台所へ行き、買い物袋から肉の包みを取り出した。私はその背中を見ながら、もうこの話を終わりにしてほしいと思った。
母が何も言わずに夕飯を作り始めたことも、なぜか責められているように感じた。
「私だって、遊んでたわけじゃないよ」
「それは聞いたよ」
「学校でやったこと、ちゃんと調べてただけなのに」
母は包みを開く手を止めた。
「それと洗濯物は、別の話でしょう」
私は唇を噛んだ。
そのとおりだった。分かっていた。でも、母にそう言われたくなかった。今日、美羽に話したときは、自分の知りたいことをそのまま聞いてもらえた。家では、続きを話す前に、しなかったことを確かめられている気がした。
「もういい」
私は居間の椅子から鞄を取り、部屋へ持っていった。母が理恵と呼んだが、返事をしなかった。
扉を閉めて机に座ると、画面の中の女性が、途中で止めたままこちらを向いていた。私はすぐに映像を消した。
怒っている自分の顔を見られたような気がした。
しばらく机の前で何もせずにいた。隣の家の玄関が閉まる音がして、外を車が通った。台所では包丁の音が続いていた。
母はもう夕飯を作っている。
私はまだ、同じ言葉を頭の中で繰り返していた。
*
「ご飯できたよ」
声をかけられても、すぐには動かなかった。二度目に呼ばれてから居間へ行くと、母は自分の席に座らず、私の皿を置いていた。
食卓には、朝、冷蔵庫で見た野菜が使われていた。
私は椅子に座ったが、箸に手を伸ばさなかった。母が向かいに座り、ご飯を食べ始めたあとも、皿を見ていた。
「食べないの?」
「今、いらない」
「あとでお腹すくよ」
私は答えなかった。
母は箸を置いた。
「いつまでそうしてるの。失敗したなら、次から気をつければいいでしょう」
「だから、もう分かったって」
「その言い方をやめなさい」
胸の奥が熱くなった。母の声が大きくなったわけではなかったが、私は椅子の上で身体を固くした。
「お母さんだって、ずっと同じこと言ってる」
「あなたが話を聞かないからでしょう」
「聞いてるよ」
さっきから言いたかったことが、どれなのか分からなくなっていた。洗濯物を忘れたことを認めれば済むはずなのに、ほかにも責められているように感じて、私は次の言葉を探してしまった。
「何調べてたかも、ちゃんと知らないくせに」
母が私を見た。
「じゃあ、話してくれたらいいでしょう」
「話したじゃん、昨日」
「昨日は聞いたよ」
「でも、すぐ宿題やれって言った」
母は小さく息を吐いた。
「理恵。お母さんは、調べちゃ駄目だなんて言ってない」
私はその声を聞きながら、聞いてもらいたかったのは昨日だったと思った。そう考えた自分に腹が立った。昨日、母は質問をしてくれていた。うまく話せなかったのは私だった。
それでも、今になって自分が悪かったと言うことはできなかった。
「もう、ほっといてよ」
「そんなふうに言わなくても——」
「ほっといてって言ってるじゃん」
椅子を引いた音が、思っていたより大きく響いた。
母が驚いた顔をした。その顔を見て、私は一瞬だけ動きを止めたが、座り直さず玄関へ向かった。
「どこへ行くの」
「外」
「ご飯も食べずに? 雨、降ってるよ」
玄関の棚から携帯電話を取り、靴に足を入れた。踵を踏んだまま扉を開けると、母が後ろから来た。
「理恵、待ちなさい。話してる途中でしょう」
私は振り向かなかった。
「すぐ帰るから」
そう言って、扉を閉めた。
*
雨は、霧のように細かくなっていた。
傘を持たなかったことには、家を出てすぐ気づいた。けれど取りに戻れば母と顔を合わせることになる。私は袖で頬についた雨粒を拭い、そのまま歩いた。
行きたい場所があったわけではなかった。
いつもの通学路を逆に進み、駅の方へ曲がった。店の前には傘立てが出ていて、買い物を終えた人が袋を持ち直していた。私はその脇を通り、明かりのついた窓に自分の姿が映るのを見ないようにした。
携帯電話が震えた。
母からの着信だった。
私は画面を見て、音を止めた。出なかったことに、すぐ後悔した。けれど、かけ直して何を言えばいいのか分からず、携帯電話をポケットへ入れた。
雨で冷えた腕を擦りながら歩いていると、空腹に気づいた。食卓には自分の分が置かれている。母は今、何をしているのだろうと思った。
皿を片づけずに待っているかもしれない。
そう考えると、さっきの居間が浮かんだ。私が椅子を引いたときの、母の顔も。
角を曲がった先で、私は足を止めた。
もう帰ろうと思った。
遠くまで来たつもりだったが、家からそれほど離れてはいなかった。引き返して、玄関を開ければいい。濡れたからタオルを貸してと言うか、先にごめんと言うか、その順番を考えながら、私は来た道へ向き直った。
ポケットの中で、携帯電話がまた震えた。
今度は取り出した。母からの短いメールが表示されていた。
『どこにいるの。迎えに行くから教えて』
私は親指で返信の画面を開いた。
帰る、と打って、そのあとに、今から、と加えた。送信する前に、歩いていた足を一度止めるべきだった。
道の端で止まったつもりだった。
顔を上げたとき、車の明かりが目に入った。濡れた路面にも同じ光が広がり、どちらが近いのか、一瞬分からなかった。
すぐそばでクラクションが鳴った。
大きなトラックの前面が見えた。私は身体を引こうとしたが、足が思ったように動かなかった。タイヤの音と、何かを叫ぶ声が重なった。
強い衝撃を受けたことだけは分かった。
手から離れた携帯電話を目で追おうとして、景色が傾いた。息を吸おうとしても、うまく胸が動かなかった。道路の冷たさが頬に触れ、誰かが走ってくる足音が聞こえた。
母に、返信していない。
そのことが気になった。帰ると伝えれば、迎えに出なくて済む。今ならまだ家にいるかもしれない。携帯電話を拾わなければと思ったが、自分の手がどこにあるのか分からなかった。
人の声が近くなった。
何を言っているのか聞き取ろうとしているうちに、雨の冷たさも、路面の硬さも遠くなった。目を開けていたはずなのに、さっきまで見えていた光がなくなっていた。
私は母を呼ぼうとした。
声が出たのかどうかは、分からなかった。




