第2話 知らなかった名前
家に着いたとき、台所から玉ねぎを炒める匂いがしていた。
玄関で靴を脱ぎながら、ただいまと声をかける。換気扇の音に混じって母の返事が聞こえたので、私はそのまま廊下を進み、居間の椅子に鞄を置いた。
「図書室、何してたの?」
母はフライパンに目を向けたまま尋ねた。制服の袖を折り返そうとしていた私は、鞄から借りた本を取り出して、食卓の端に置いた。
「今日、平和学習があって。その続き」
「学校の課題?」
「ううん。自分で借りた」
母が振り向き、本の表紙を見た。
「沖縄?」
「修学旅行、沖縄になるかもしれないんだって」
「まだ先の話でしょう。正式に決まったら、学校からお知らせが来ると思うけど」
そう言って母は火を弱め、戸棚から皿を取り出した。私は本を手に取ったが、椅子に座る前に、先に着替えてきなさいと言われた。
いつもなら、分かってると返していたと思う。
その日は、何も言わずに本を持って部屋へ行った。机の上には、朝、探すのが面倒で置いていった数学の問題集があった。母に見つからないうちに片づけようと思い、それから、自分がまだそんなことを気にしているのがおかしくなった。
制服を脱いで椅子の背にかけ、部屋着に着替える。借りてきた本を開くと、図書室で挟んだ貸出票が、学校生活の章から落ちた。
床に拾いにかがんだまま、私はそこに載っていた写真を見た。
女の子たちが、校舎の前に並んでいた。授業で見た写真とは違って、少し顔を傾けている子や、隣の子に肩を寄せている子がいた。撮影する人に何か言われたのだろうか。笑いかけているように見える顔もあった。
私は椅子に座り直し、説明文から読み始めた。
そこに書かれていた学校は、私の通っている学校とは仕組みが違っていた。初めて見る学年の呼び方があり、授業の名前も、すぐには意味が分からないものがある。けれど、友達と過ごした時間についての文章は、難しくなかった。
先生に叱られたこと。勉強が好きだったこと。友達と笑ったこと。
私はページの端を押さえながら、その続きを読んだ。
戦場へ行った女の子たちのことを知りたいと思って借りてきたのに、学校の話が終わるのが嫌だった。次の章へ進めば、この子たちがどこへ向かうのか、少しだけ分かっていたからだった。
「理恵、ご飯できたよ」
廊下から母の声がした。
「今行く」
返事をしてから、もう一段落だけ読んだ。階下で皿を置く音がして、私は貸出票をもう一度挟み、本を閉じた。
*
食卓には、豚肉と野菜を炒めたものと、豆腐の味噌汁が並んでいた。
母は向かいに座り、箸を取る前に、明日の朝は少し早く起きてほしいと言った。
「今日みたいに、食べる時間がないって言われても困るから」
「別に、毎日じゃないじゃん」
「今週、もう二回目よ」
「分かったって」
口にしてから、図書室で思い出した今朝のことが浮かんだ。
もう少し違う返事ができたはずだった。けれど、母は私の返事を聞いて小さく息をつき、味噌汁の椀を持った。そのあとで謝るのは、急に難しくなった。
私は炒め物の中から、苦手な大きさの玉ねぎを避け、肉と一緒に小さなものを口へ運んだ。
「今日の授業、何をやったの?」
しばらくして、母が聞いた。
「ひめゆり学徒隊」
「ああ、沖縄の女学生の」
「知ってる?」
「名前はね。お母さんも学校で習ったと思う」
私は箸を止めた。
「私たちと、あんまり年が変わらないんだって」
「そうね」
「病院の手伝いをしてたって。普通の病院じゃなくて、洞窟みたいなところで」
母は頷きながら聞いていた。私は授業で聞いたことを話そうとしたが、覚えている言葉を並べると、映像を見ていたときの感じが抜けてしまう気がした。
怖かったと言いたいのとも、少し違った。
あの人が話していた頃の年齢と、今の自分の年齢が近かったこと。その人にも学校があり、友達がいたこと。伝えたいのはその辺りだったのに、何から説明すればいいのか分からなかった。
「ひめゆりだけじゃないんだって」
「ほかの学校の子も?」
「うん。ずいせんとか、いろいろあったみたい。今日、初めて知った」
母は、そうなんだ、と言った。
それ以上の言葉が続かず、私は味噌汁に目を落とした。少し冷めた表面に、台所の明かりが映っていた。
「本、ゆっくり読んだらいいよ。でも、宿題も忘れないでね」
私は頷いた。母は明日の天気の話を始め、私は短く答えながら、残りのご飯を食べた。
分かってもらえなかったわけではないと思う。
それでも、自分の中にあるものを食卓に持ってきて、うまく渡せずに持ち帰るような気持ちだった。
*
宿題を終えてから、机の上のパソコンをつけた。
画面が明るくなるまでの間に、鞄から平和学習の資料を取り出す。折れた角を指で伸ばし、余白に書いた名前を見た。
ずいせん。
検索欄にひらがなで入力すると、予測された言葉の中に「ずいせん学徒隊」が出てきた。私はそれを選び、並んだページを上から見ていった。
学校の名前、碑の写真、証言を紹介する文章。漢字で「瑞泉」と書かれた見出しを見つけ、資料の余白に小さく書き足した。
名前を一つ知っただけで、今まで見えなかったページが出てくるのが不思議だった。
授業では、先生が選んだ写真と映像を見た。図書室では、司書の先生が本を選んでくれた。今は、何を開くのか、自分で決めなければならなかった。
似た題名のページが幾つもあり、途中で、さっき読んだ文章へ戻れなくなった。私は新しいノートを一冊取り出し、最初のページに「沖縄戦 学徒隊」と書いた。
その下へ、学校の名前と、気になったページの題名を書き写していく。分からない言葉には線を引いた。
高等女学校。動員。野戦病院。
どれも、見たことはある気がした。けれど、説明してみようとすると、はっきりした言葉が出てこなかった。
調べていくうちに、証言の映像をまとめたページへたどり着いた。
小さな画像の中に、年配の人たちの顔が並んでいた。男性も女性もいて、それぞれの下に名前と題名があった。私は学徒についてのものを探し、一つの映像を開いた。
最初、音が出なかった。
画面の下の印を押し、音量を上げると、女性の声が聞こえた。台所では母が洗い物をしていたので、引き出しからイヤホンを取り出した。
女性は、椅子に座って話していた。
私は何度か映像を止め、画面に表示されている説明と照らし合わせた。聞き慣れない地名が出てくるたびに、どこなのか気になった。けれど、その都度調べていると話の続きが分からなくなり、途中からは、まず最後まで聞くことにした。
話を聞く前、私は、昔のことを覚えている人の映像だと思っていた。
画面の向こうの女性が言葉を選び、言い直し、少し黙るのを見ていると、それだけでは足りない気がした。忘れずに覚えていることと、人に話せることは、同じではないのかもしれなかった。
私はノートへ目を移した。
学校名や地名の間に、友達、と書いた。
それから続きを書こうとして、手を止めた。
同じ学校の生徒が大勢いたとして、その人にとって、誰もが同じ距離の友達だったわけではないはずだった。いつも一緒にいる子も、話しやすい先輩も、少し苦手な相手もいただろう。
その中の誰かがいなくなったとき、どんなふうに感じたのだろう。
映像が終わると、ページの端に別の証言が表示された。私はその題名を読み、一度迷ってから開いた。
次に話し始めた人は、さっきの人とは声も話し方も違っていた。
同じ沖縄戦についての話でも、出てくる学校や場所が違う。私はノートの新しい行に名前を書き、先ほどの話と分けるために、少し間を空けた。
途中で携帯電話が光った。
友達からだった。
『本、なんか分かった?』
昼間、明日教えてと言っていた友達だった。私はイヤホンを片方外し、返信の画面を開いた。
『ひめゆり以外にも、いっぱいあった』
そこまで打ってから、もう一文加えようとした。
女の子たちは、戦争の前は普通に学校へ通っていた。
けれど、普通に、という言葉を見て、指が止まった。私はその時代の学校を知らない。今日知ったばかりのことを、簡単にまとめてしまっていいのか迷った。
結局、最初の一文だけ送った。
少しして、驚いた顔の絵文字と、明日見せて、と返事が来た。私は分かったと送信し、携帯電話を裏返して机へ置いた。
母が部屋の扉を軽く叩いたのは、その少しあとだった。
「まだ勉強してるの?」
「調べてる」
「もう遅いよ。明日、起きられなくなる」
「あとちょっと」
母は机の上を見て、問題集が閉じてあることを確かめた。
「宿題は終わった?」
「終わったって」
自分でも、返事が強くなったのが分かった。
母は何か言いかけたが、やめた。廊下の明かりが扉の隙間から入っていて、私は母の顔を見ないまま、ノートの角を指で押さえていた。
「じゃあ、切りのいいところで寝なさい」
扉が閉じてから、私は画面の時計を見た。
思っていたより時間が過ぎていた。映像の続きを聞きたい気持ちはあったが、母の言うとおり、明日の朝にはまた眠くなるだろうと思った。
私は、次に開くページが分かるように印をつけ、パソコンを閉じた。
机には、学校でもらった資料と、借りた本と、数行だけ書いたノートが残った。
それだけ調べても、分かったことより、分からないことの方が増えていた。どうして動員を断れなかったのか。看護の仕事を、どれくらい教わっていたのか。戦争が始まる前、どんな将来を考えていたのか。
ノートの最後に、私は「戦争の前」と書いた。
そこを、もう少し知りたかった。
部屋の明かりを消すと、廊下を歩く母の足音が聞こえた。水道が短く鳴り、それから家の中が静かになった。
私は布団に入り、明日は母に起こされる前に起きようと思った。
そうすれば、朝食を急いで食べずに済む。借りた本の話も、今日よりうまくできるかもしれない。
けれど、目を閉じると、言いたかった言葉より先に、画面の向こうで話していた人たちの顔が浮かんだ。声を聞いている間は遠い昔だと思えなかったのに、今、自分の部屋で思い返すと、どうしても手の届かない場所にいる人たちだった。
私は眠くなるまで、あの写真の女の子たちが学校から帰る道を想像していた。




