第1話 教科書の向こう側
すでに完結してる作品です。
ところどころ誤字脱字、修正ありますが、時間見つけてアップしていきます。
五時間目の授業が始まる前、教室では修学旅行の話が続いていた。
沖縄になるらしいと誰かが言い出したのは、昼休みの終わり頃だった。まだ正式に決まったわけではないのに、後ろの席では海に入れるのかという話になっていて、隣の席の友達は、机の下で旅行のパンフレットを広げていた。
「見て、この海。ほんとにこんな色なのかな」
差し出された写真には、白い砂浜と、岸から離れるにつれて青さを増していく海が写っていた。私は頬杖をついたまま覗き込み、こんなところなら泳げなくても行ってみたいと思った。
「でも、修学旅行って水着持っていっていいの?」
「知らない。駄目なら足だけ入れる」
その返事がおかしくて笑っていると、前の扉が開いた。担任は脇に抱えていた資料を教卓に置き、黒板の前まで来てから、まだ立っていた生徒たちに席へ戻るよう声をかけた。
パンフレットは教科書の下に隠された。後ろの席の笑い声も、椅子を引く音に紛れて小さくなった。
「今日から何回か、総合の時間に平和学習をします」
先生はそう言いながら、出席番号順に資料を配るよう、最前列の生徒に束を渡した。
前の席から回ってきた紙を一枚取り、残りを後ろへ渡す。表には沖縄の地図があり、その下に幾つかの写真が並んでいた。さっき見たパンフレットと同じ島なのに、こちらには海辺で遊ぶ人も、明るい色のホテルもなかった。
石碑の写真。暗い洞窟の入り口。制服を着て、整列した女の子たち。
私は最後の写真を少し長く見ていた。
「沖縄戦について、小学校で勉強したことを覚えている人はいますか」
何人かが手を挙げた。地上戦という言葉や、住民が大勢亡くなったことが答えとして出て、先生はそれを黒板に書き足していった。
私にも、聞いた覚えはあった。
戦争があったことも、沖縄が戦場になったことも知っている。夏になるとテレビで特集が流れるし、教科書にも載っている。けれど、覚えているのはそういう出来事があったということだけで、いつ、どこで、誰が何をしていたのかと尋ねられたら、ほとんど答えられなかった。
先生がスクリーンを下ろし、窓際の生徒にカーテンを閉めるよう頼んだ。外から入っていた光が遮られると、教室は急に午後らしい眠たさを帯びた。廊下を走る誰かの足音が聞こえ、先生が操作していた機械から、小さな起動音がした。
スクリーンに映ったのは、資料にもあった女の子たちの写真だった。
「ひめゆり学徒隊という名前を聞いたことはありますか」
私は名前だけなら知っていた。どこで覚えたのかは思い出せない。沖縄、戦争、女学生。そのくらいの言葉が、曖昧につながっていた。
先生は、彼女たちが学校に通う生徒であったこと、戦場で負傷兵の世話をするために動員されたことを説明した。
写真の中の女の子たちは、こちらに向かって顔を並べていた。画像が粗く、一人ずつの表情まではよく分からない。それでも、前列の端にいる子の顔が、同じ学年の別のクラスにいる子に少し似ているように見えた。
そう思ってから、私は先生の話を聞き直した。
私たちと、それほど年齢が違わない。
それまでぼんやりしていた言葉が、急に理解できるものになった。同じくらいの年齢の女の子が、学校から病院へ行き、怪我をした兵士の世話をした。家へ帰って宿題をする代わりに、戦場にいた。
続いて流された映像では、年配の女性が静かに話していた。
私はその人の名前を資料の余白に書こうとして、途中で手を止めた。字幕を追いながら書くには、話が先へ進みすぎていた。女性が言葉を探して黙ると、映像の向こうで誰かが小さく相槌を打った。
年を取った人が昔の話をしているのだと、最初は思っていた。
けれど、その人が話しているのは、私と同じくらいの頃の自分だった。
病院と聞いて私が思い浮かべたのは、去年、足を捻ったときに母と行った建物だった。明るい待合室に椅子が並び、受付で名前を呼ばれ、診察室には清潔なベッドがあった。先生の説明と映像から伝わってくる場所は、それとはまるで違っていた。
暗い壕の中にも、病院はあったという。
私は画面を見つめながら、自分に何ができるだろうと考えた。包帯を巻いたこともない。血を見れば、たぶん怖くなる。誰かが痛がっていても、先生や大人を呼ぶことしか思いつかない。
その大人に、ここで手伝うよう言われたら。
隣の席で、友達が膝の上に置いていたパンフレットを鞄へしまった。紙が擦れる音がして、私は一瞬そちらを見た。友達もスクリーンを見ていた。
映像が終わると、先生はカーテンを開けるように言った。窓の外には、さっきと同じ校庭があった。体育の授業をしているクラスが、先生の笛に合わせて走っていた。
明るくなった教室で、私はもう一度、資料の写真を見た。
「先生」
手を挙げると、先生がこちらを向いた。
「こういう仕事をしていた女の子は、ひめゆりの人たちだけですか」
「いいえ。ほかの学校からも、多くの生徒が動員されています」
先生は黒板の端に、幾つかの学徒隊の名前を書いた。その中に、私は初めて見る名前を見つけた。
ずいせん。
漢字の横に添えられた読みを、余白に書き写した。
「学校や配属された部隊によって、経験したことにも違いがあります。今日の授業だけでは全部を扱えませんが、興味を持った人は調べてみてください。図書室にも沖縄戦についての本があります」
先生はそこで授業をまとめ、感想を書くように言った。
私は鉛筆を持ったまま、しばらく空欄を見ていた。かわいそうだったと書けばいいのだろうか。戦争は怖いと思った。それも本当だった。けれど、それだけを書いて提出すると、さっきまで聞いていた話を、いつもの授業の感想にしてしまう気がした。
何を書こうか迷っているうちに、周りでは鉛筆の音が増えていた。
私はようやく、最初の一行を書いた。
同じくらいの年齢の人たちが、どうして戦場へ行かなければならなかったのか、もっと知りたいと思いました。
その先はうまく続かなかった。
*
放課後、友達に一緒に帰ろうと声をかけられたが、図書室に寄ってから帰ると答えた。
「何か借りるの?」
「さっきの授業の本、あるって言ってたから」
「ああ、沖縄の?」
頷くと、友達は少し考えてから、明日教えて、と言った。私は何を教えればいいのか分からないまま、うんと返した。
図書室では、窓の近くの席に数人が座っていた。返却台に本を置く音や、ページをめくる音が、教室よりはっきり聞こえた。
私は検索用の端末に「沖縄戦」と入力した。出てきた本の数が思ったより多くて、どれを選べばいいのか分からなかった。しばらく画面の前に立っていると、司書の先生が声をかけてくれた。
「何か探している?」
「学徒隊のことが分かる本、ありますか」
「今日、授業でやったのね」
案内された棚には、背表紙の色も大きさも違う本が並んでいた。私は紹介された一冊を開き、目次に目を通した。
戦場の話より前に、学校生活についての章があった。
意外だった。
授業で知ったばかりの女の子たちにも、当然、戦場へ行く前の暮らしがあったはずなのに、私はそこを考えていなかった。制服を着た写真を見ても、戦争の中にいる人としてしか見ていなかった。
椅子に座って読み始めると、登校や授業、友達との思い出が書かれていた。戦争の話を調べに来たのに、その部分から目が離れなくなった。
授業中に友達と目が合うこと。学校の決まりを面倒に思うこと。好きな先生がいること。
分かると思った。
昔の言葉や、知らない習慣もあった。それでも、友達と過ごす時間を楽しみにする気持ちは、難しく考えなくても想像できた。
私は今朝のことを思い出した。
母に何度も起こされ、返事をしたのにまた眠ってしまった。ようやく起きてからも、朝食を食べる時間がないと言って、用意されていた皿に文句をつけた。母は何か言い返したが、急いでいた私は最後まで聞かなかった。
そのときは、朝からうるさいと思っていた。
鞄の中で携帯電話が震えた。取り出すと、母からのメールだった。
『今日、帰り何時?』
私は画面を見て、図書室、とだけ打ちかけた。それでは帰る時間の答えになっていないと思い、消してから、もう少ししたら帰ると送った。
すぐに返信は来なかった。
携帯電話を鞄へ戻し、開いたままの本に目を落とした。さっき読んでいた行を見つけるまで、少し時間がかかった。
あの子たちも、家で親に叱られたのだろうか。
学校で嫌なことがあって、夕飯の席で不機嫌になった日もあったのだろうか。明日になれば仲直りできると思い、何も言わずに寝てしまったことは。
私は写真の説明にある名前を、一人ずつ読んだ。
授業の最初には、制服を着た女の子たちが並んでいるだけだった。その一人ずつに名前があり、家があり、友達がいたことを、今になって少しずつ考えられるようになっていた。
閉室を知らせる声がして、私は本を借りる手続きをした。
昇降口を出ると、校庭から部活動の掛け声が聞こえた。自転車置き場では、二人の生徒が笑いながら何かを話していた。私は借りた本が折れないよう鞄の位置を直し、いつもの道へ歩き出した。
家に帰れば、夕飯がある。明日の時間割を確認して、残っている宿題をして、眠くなったら寝る。
今日はそれが、少し違って思えた。
けれど、駅前の店に寄りたい気持ちも、宿題は面倒だという気持ちも、なくなったわけではなかった。私は信号を待ちながら携帯電話を取り出し、友達から届いた修学旅行の話に返事をした。
それから画面を閉じ、鞄の中の本に触れた。
家でもう少し読んでみようと思った。




