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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第10話 私の名前を呼ぶ人



 十一月の最後の日、私は店の入口に立っていた。


 おばちゃんが台所で手を離せないときに客が来たら、声をかける。それが、その日初めて任された仕事だった。椀を拭いたり、布巾を畳んだりするより緊張した。誰かが道を通るたびに顔を上げ、店へ入ってくるのか、そのまま行ってしまうのかを見ていた。


「ずっと立ってなくていいよ。そこの椅子に座って」


 おばちゃんが鍋をかき混ぜながら言った。


 私は入口の近くへ椅子を寄せた。座ると外が少し見えにくくなったが、足は楽になった。


 額の当て布は、昨日、安里さんに替えてもらっていた。傷は乾いてきているという。膝のかさぶたも端から少しずつ剥がれ、曲げたときの引きつる感じが薄くなっていた。


 まだ急いで動くとおばちゃんに止められたが、店の中で過ごす時間は長くなっていた。


 入口の柱にもたれずに座り直したところで、上原さんが道の向こうから来た。


「もう仕事をしてるのか」


 私は立ち上がった。


「お客さんが来たら、知らせるだけです」


「それも仕事だよ」


 上原さんは店へ入り、いつもの卓へ座った。私は台所へ顔を向けた。


「おばちゃん、上原さんが来ました」


「はい。上原さん、少し待っててね」


 返事を聞いてから、私は水を入れた湯飲みを運んだ。こぼさないように両手で持っていたので、卓の前で置くときに、どちらの手を先に離せばいいのか迷った。


 上原さんは手を出さずに待っていてくれた。


「ありがとう」


 私は頭を下げた。


 台所へ戻ると、おばちゃんが私の顔を見た。


「できたね」


「これくらいなら、できます」


 少し強く言いすぎたかもしれないと思ったが、おばちゃんは笑った。


「じゃあ、次も頼もうか」


 私は頷いた。


 家では、自分の使ったコップを台所へ持っていくだけで、母にありがとうと言われた。そのときは、そんなことで礼を言わなくてもいいと思っていた。


 今は、湯飲み一つを運んだことが、店の中にいる理由になった。


     *


 昼の客が減り始めた頃、入口から女の子が顔を出した。


「おばちゃん、いる?」


 私に向けた声ではなかった。


 同じくらいの年に見える子だった。髪を二つに分けてまとめ、肩から鞄を掛けていた。片手には布で包んだものを持っている。


 私は立ち上がった。


「今、呼びます」


 女の子は私を見て、少しだけ目を大きくした。


 台所へ声をかける前に、おばちゃんがこちらを向いた。


「あら、文子。今日はどうしたの」


「母さんが、これ返してきなさいって」


 女の子は包みを持ち上げた。


 おばちゃんが手を拭きながら来て、卓の上で布を開いた。中には器が入っていた。


「急がなくてよかったのに」


「忘れちゃうから、今日行けって」


 文子という子は、そこで私を見た。


「この子?」


 おばちゃんが頷いた。


「理恵ちゃん。今、うちで暮らしてるの」


 私は両手を前で重ねた。


「寺田理恵です」


「比嘉文子」


 文子は、私が頭を下げたのを見て、自分も少し頭を下げた。それからおばちゃんへ顔を向けた。


「聞いてたよ。母さんが、元気になったか見ておいでって」


「そう。ありがとうね。座っていく?」


「ちょっとだけ」


 文子は鞄を椅子の脇へ置いた。


 私は立ったまま、おばちゃんが台所へ戻るのを見た。入口の仕事に戻ればいいのか、文子のそばにいていいのか分からなかった。


 文子が向かいの席を指した。


「座らないの?」


「私、手伝ってるから」


「今、誰も来てないよ」


 入口を見ると、道には人影がなかった。


 私は台所へ目を向けた。おばちゃんが座っておいでと言ったので、文子の向かいへ腰を下ろした。


 同じくらいの子と向かい合うのは、美羽と昼休みに話して以来だった。


 何を話せばいいのか、急に分からなくなった。


     *


 文子は、私の額を見た。


「まだ痛い?」


「今は、そんなに」


「転んだの?」


 私は返事に詰まった。


 おばちゃんが台所から湯飲みを持ってきた。


「道で倒れていたの。先生に診てもらって、今はよくなってるところだよ」


 文子は頷き、私を見た。


「じゃあ、頭のほかも?」


「膝を、少し」


 私はもんぺの上から膝へ手を置いた。


 文子はそれ以上尋ねなかった。湯飲みを両手で持ち、一口飲んでから、棚の方を見た。


「あのラジオ、今日はつけてないんだね」


「お客さんがいるときは、つけることもあるよ」


 おばちゃんが答えた。


 私は壁の暦へ目を向けた。


 今日で十一月が終わる。


 文子はその視線を追ったが、何も言わなかった。おばちゃんが店の奥へ戻ると、卓の上に置いた器へ指を添えた。


「これ、おばちゃんが貸してくれたの。うちで人が集まったとき、足りなくなって」


「家、近いの?」


「うん。ここから少し歩くけど」


 文子は道の方を指し、曲がる角を教えてくれた。私は途中までは分かったが、その先に出てきた場所は知らなかった。


「まだ、道があんまり分からなくて」


「来たばっかりだもんね」


 文子はそう言って、説明をやめた。


 知らないことを、変だと思われなかった。そのことにほっとして、私は鞄へ目を移した。


「学校の鞄?」


「そう」


「汐見の?」


 文子が顔を上げた。


「知ってるの?」


「この前、女学生の子を見て。おばちゃんに聞いた」


「私、そこの一年」


 私は文子の顔を見た。


 学校の名前が、人とつながった。


 道を歩いていた二人を見たときには、遠くから眺めるだけだった。今は、その学校へ通う子が向かいに座っている。


「勉強、難しい?」


「難しいのもあるよ。算術は、間違えるとあとが全部違っちゃうから嫌」


 私は少し笑った。


「分かる」


「最初は合ってるつもりなのに、最後までやってから違うって分かるんだよね」


「途中で計算、間違えてるんだよね」


 文子も笑った。


 私は美羽に黒板の答えを教えてもらったことを思い出した。あのときも、途中の計算を一つ落としていた。


 文子が話を続けた。


「理恵は、算術好き?」


 名前を呼ばれて、私は一瞬、返事を忘れた。


「……あんまり」


「じゃあ、一緒だ」


 文子は湯飲みを置いた。


 理恵。


 おばちゃんたちは、理恵ちゃんと呼ぶ。病院では名字を確かめられることもあった。


 同じくらいの子に、何でもない会話の中で名前を呼ばれた。


 私は膝の上の手を緩めた。


     *


 入口から客が入ってきたので、私は立ち上がった。


 台所へ知らせ、水を運ぶ。さっきより少し急いでしまい、湯飲みの縁から水が一滴こぼれた。私は卓へ置いてから、布巾を取りに戻った。


 文子がその様子を見ていた。


「いつから手伝ってるの?」


「椀を拭くのは、何日か前から。水を運ぶのは今日」


「そうなんだ」


 文子は椅子から立った。


「そろそろ帰らないと。遅いと、何してたのって言われる」


 その言葉に、私は顔を上げた。


 家へ帰る時間を気にする声だった。


「お母さんに?」


「うん。器を返すだけなのに、どこまで行ってたのって」


 文子は鞄を肩へ掛け直し、おばちゃんへ声をかけた。


「ごちそうさま。また来るね」


「お母さんによろしく。気をつけて帰ってね」


 私は入口までついていった。


 文子は敷居のところで振り向いた。


「理恵、いつもここにいる?」


「今は」


「じゃあ、また話そう」


 私は頷いた。


「うん」


 文子は道へ出た。途中で近所の人に挨拶をし、そのまま歩いていった。


 私は角へ消えるまで、その背中を見ていた。


 店へ戻ると、おばちゃんが空いた湯飲みを下げていた。


「文子は、この辺りへ来ると、よく寄っていくんだよ」


「そうなんだ」


「また会えるよ」


 私は文子が座っていた椅子を卓へ寄せた。


 また来ると言われたことが、嬉しかった。


 それだけのことを喜んでいいのか、少し迷った。帰る方法を考えなければならないのに、この店で次に会う人を待っている。


 けれど、文子と話していた間は、自分のいる年を忘れていた。


 算術が苦手だと言われたことも、自分の名前を呼ばれたことも、そのまま嬉しかった。


     *


 夕方、おばちゃんは壁の暦をめくった。


 私は布巾を畳んでいた手を止めた。


 十一月の紙が外され、十二月が現れた。数字が整然と並び、その中に、八があった。


「外したの、いる?」


 おばちゃんが十一月の紙を手に聞いた。


「裏、何か書けるよ」


 私は少し遅れて頷いた。


「もらってもいい?」


「いいよ」


 紙を受け取ると、まだ少し巻かれた癖が残っていた。私は卓の上で広げ、手のひらで押さえた。


 十一月二十四日には、ここに座って暦を見た。


 二十五日には帳面を書き、二十六日には病院へ行った。そのあとも朝は来て、食事をして、椀を拭いていた。


 そうしているうちに、十二月が目の前へ来た。


 おばちゃんは新しい暦の端を直し、台所へ戻った。


 私は八の数字を見た。


 文子も、その朝を迎える。


 さっきまで向かいで笑っていた子も、おばちゃんも、トメさんもゲンさんも。この紙の上の日付を、一日ずつ進んでいく。


 私だけが、その数字に別の意味を見ていた。


     *


 夜、私は部屋で帳面を開いた。


 未来の出来事を書いた紙の後ろに、今日の日付を書いた。


 昭和十六年十一月三十日。


 比嘉文子に会った。汐見高等女学校の一年生。


 算術が苦手。私のことを、理恵と呼んだ。


 そこまで書いて、私は鉛筆を止めた。


 文子が帰り際に言った言葉を、もう一度思い出した。


 また話そう。


 私は次の行へ、その言葉を書いた。


 現代で見た写真には、女学生の名前が添えられていた。知らない名前を一つずつ読んで、その子たちにも暮らしがあったのだと考えた。


 今日会った文子の名前は、写真の下にはなかった。


 私の帳面に、自分で書いた。


 私は前の方の紙を開き、十二月八日の行を見た。鉛筆の文字は、書いた日と変わらずそこにあった。


 その隣へ何かを書き足そうとして、やめた。


 文子に何が起きるのかは知らない。


 この家も、この食堂も、これからどうなるのか分からない。


 私は帳面を閉じ、いつもの風呂敷へ包んだ。


 引き出しを閉める前に、今日もらった暦の紙を机へ置いた。裏を使うつもりで、白い方を上にする。


 おばちゃんが廊下から、もう寝るかと尋ねた。


「うん。もう寝る」


 返事をすると、おやすみ、と声が返ってきた。


 私は布団へ入り、文子の話し方を思い出した。次に来たときには、学校のことをもう少し聞いてみたい。どんな本を読んでいるのか、算術のほかに苦手なものはあるのか。


 そんなことを考えてから、店の壁に掛かった十二月の暦が浮かんだ。


 私は目を閉じた。


 次に文子が来る日が、八日より前であってほしいと思った。

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