第11話 教科書を開く
十二月に入って三日目の午後、おばちゃんは店の奥の棚から、小さな箱を下ろした。
私は客が帰ったあとの卓を拭いていた。布巾を洗いに台所へ戻ると、おばちゃんは箱の中を確かめ、折り畳んだ紙を取り出していた。
「理恵ちゃん、あとで少し時間ある?」
「あるよ」
ほかに行くところも、しなければならないこともなかった。そう答えてから、何をするのか尋ねると、おばちゃんは紙を卓へ置いた。
「学校の先生が、寄ってくださることになったの」
私は濡れた布巾を握ったまま、その顔を見た。
「今日?」
「うん。お話を聞くだけだから、そんなに構えなくていいよ」
おばちゃんは私の手元へ目を向け、先に布巾を干しておいでと言った。
裏へ出ると、少し冷たい風が吹いていた。私は布巾を広げ、紐に掛けた。角を揃えてから、もう一度引っ張ってみる。曲がっているわけではないのに、すぐ店へ戻れなかった。
学校へ行けるのか、聞いてみたいと言ったのは自分だった。
けれど、実際に先生が来るとなると、何を尋ねられるのかが気になった。仲村先生に話した住所や学校の名前を、また初めから言うのだろうか。家族のことを聞かれたら、どこまで答えればいいのだろう。
私は布巾から手を離した。
戸を開けると、おばちゃんが卓の上を片づけていた。
「学校へ通いたくなくなったなら、そう言っていいんだよ」
「そうじゃない」
思っていたより早く返事が出た。
おばちゃんは手を止めた。
「じゃあ、何が心配?」
私は卓の端を見た。
「ちゃんと、答えられるか分からなくて」
おばちゃんは少し考えてから、椅子を引いた。
「分かることだけでいいよ。分からないことは、私からも話すから」
私は頷いた。
それでも、自分が分からないことと、人に話せないことの間を、どう説明すればいいのかは決まらなかった。
*
先生が来たのは、午後の客が途切れた頃だった。
戸口でおばちゃんに声をかけ、帽子を取った。細身の男の人で、脇に鞄を抱えていた。おばちゃんが中へ案内すると、先生は私の前で足を止めた。
「寺田理恵さんですね」
「はい」
「汐見高等女学校の島袋です」
私は頭を下げた。
先生は、私が椅子へ座るのを待ってから向かいへ腰を下ろした。おばちゃんも隣に座り、卓には三つの湯飲みが置かれた。
「傷の具合はどうですか」
「だいぶ、よくなりました」
「それはよかった。今日は、すぐに何かを決めるために来たのではありません。まず、これまでどんな勉強をしてきたか、聞かせてもらえますか」
私はおばちゃんを見た。
おばちゃんは小さく頷いた。
国語や数学、理科、社会。
科目の名前を挙げると、島袋先生はところどころで聞き返した。私は教科書で習っていたことを思い出し、できるだけ中身を説明した。
「数学では、文字を使う式とか……方程式をやっていました」
「なるほど。国語は、本を読むのが好きだと伺いました」
「はい。でも、難しいのは、あんまり」
先生は鞄を開け、薄い本を一冊取り出した。
「少し、見てもらいましょうか」
卓の上に置かれた本を、私は両手で受け取った。
教科書だった。
表紙の文字は読めた。けれど、ページを開くと、すぐに目が止まった。知っている漢字に似ているのに、線が多いものがある。文章の中には、見慣れない仮名遣いが混じっていた。
私は最初の行を、頭の中で一度読んだ。
意味は、少し考えれば分かりそうだった。けれど、いつもの速さでは読めない。
「ここから、声に出して読めますか」
先生が指したところへ目を落とし、私は読み始めた。
数行目で、言葉につかえた。
読み方を迷い、前の部分へ戻る。先生は急かさなかったが、黙っている時間が長くなるほど、顔が熱くなった。
「……すみません。これ、読み方が」
島袋先生はその文字を指で示し、読みを教えてくれた。
聞けば分かる言葉だった。
私はもう一度、そこから読んだ。短い文章を読み終える頃には、口の中が乾いていた。
「ありがとう」
先生が言った。
私は教科書から顔を上げられなかった。
国語は好きだと答えたばかりだった。今まで読めていたものなら、もっと上手に読めると言いたかったが、言い訳に聞こえる気がした。
「字の形や書き方で、慣れないところがあるんですね」
先生の声に、私は小さく頷いた。
「意味は、何となく分かるんですけど」
「では、この文章は、どんなことを言っていたと思いますか」
私は読んだところへもう一度目を通した。
今度は声に出さなくてよかったので、少し落ち着いて考えられた。分かった範囲を話すと、先生は頷き、続きを尋ねた。
答えているうちに、読めなかった文字から、文章の中身へ意識が移った。
全部できなかったわけではない。
そう思えたのは、先生が教科書を閉じたあとだった。
*
算術の問題は、紙に書いて渡された。
私は鉛筆を受け取り、式を見た。数字と記号は、家の問題集で見ていたものに近かった。
最初の問題は解けた。
二つ目で計算を間違え、途中まで書いてから気づいた。消すものを探して卓へ目を向けると、先生が、横へ書き直して構いませんと言った。
私は間違えた部分に線を引き、余白で計算し直した。
文子も、算術が苦手だと言っていた。
そのことを思い出すと、少し肩の力が抜けた。今ここで間違えたからといって、自分だけが何も分からないわけではない。
先生は紙を受け取り、答えと途中の式を見た。
「どう考えたか、書けていますね」
私は鉛筆を卓へ置いた。
そのあと、名前を書くように頼まれた。
寺田理恵。
帳面にも書いた文字を、今度は人に見せる紙へ書いた。先生はそれを確かめ、紙を鞄へしまった。
「勉強については、ほかにも見てみたいことがあります。ただ、今日はこのくらいにしましょう」
私は顔を上げた。
「学校、行けますか」
尋ねてから、おばちゃんの方を見た。まだ決めるためではないと、最初に言われていた。
島袋先生は、すぐには答えなかった。
「今の段階で、通えると約束はできません。あなたの事情について、学校でも相談しなければなりませんから」
私は頷いた。
「それでも、これまで勉強してきたことは分かりました。分からないところを尋ねられるのも、大事なことです」
先生は教科書を私の方へ寄せた。
「これは、しばらくここへ置いておきます。身体を休める合間に、少しずつ読んでみてください」
「借りていいんですか」
「ええ。分からない字があれば、印をつけておいて」
私は表紙へ手を置いた。
学校へ行けるかどうかは、まだ分からない。
それでも、教科書を一冊預かった。
*
島袋先生が帰ったあと、おばちゃんは卓の上の湯飲みを片づけた。
私は教科書を開き、読めなかったところをもう一度見た。さっき教わった読み方を思い出すと、同じ文章が少し違って見えた。
「疲れたでしょう」
おばちゃんが隣へ来た。
「ちょっと」
「今日はよく頑張ったよ」
私は本を閉じた。
「知らない字が、いっぱいあった」
「昔、娘もそこで困ってたね。読むと分かるのに、書くと間違えるって」
おばちゃんは表紙を見ていた。
私はその横顔へ目を向けた。
この部屋にいた娘も、こんな教科書を開いていたのだろうか。机の上の短い鉛筆で、文字を書いたり、計算をしたりしていたのかもしれない。
「教えてもらってもいい?」
尋ねると、おばちゃんはこちらを見た。
「私に分かるところならね」
その返事で、少し安心した。
分からない字があっても、ここでは尋ねていい。
自分の来た場所を説明することと違って、教科書なら、同じ紙を見ながら話せた。
*
夕方、文子が店へ寄った。
入口から私を見つけると、今日は顔がいつもと違うと言った。
「そう?」
「疲れてるみたい」
「学校の先生が来たの」
文子は鞄を持ったまま、私のそばへ来た。
「どの先生?」
「島袋先生」
「ああ」
文子は卓に置いた教科書を見て、すぐに手を伸ばした。
「これ、借りた?」
「少し読んでおいてって」
文子は慣れた手つきでページをめくった。私はその指先を見ていた。自分には探すのに時間がかかった場所を、文子は迷わず開いた。
「ここ、読んだ?」
「うん。途中で分からなくなった」
私はつかえた文字を指した。
文子は読み方を言ったあと、私の顔を見た。
「理恵が通ってたところでは、違う書き方だったの?」
私は指を引いた。
「……少し」
「そうなんだ」
文子はそれだけ言い、前のページへ戻った。
「私も、これ初めに見たとき、間違えたよ」
そう言って別の文字を指した。
私はそこへ顔を近づけた。確かに、よく知っている文字と似ていた。文子が、先生に直されたときの話をすると、私は思わず笑った。
台所から、おばちゃんの声がした。
「文子、長くいると、お母さんが心配するよ」
「分かってる。あと少し」
文子は返事をしてから、私の方へ教科書を向けた。
「読んでみて。分からなくなったら、言うから」
私は一行目へ目を落とした。
先生の前で読んだときほど、緊張しなかった。それでも間違えるのは恥ずかしくて、声が小さくなった。
文子は急かさなかった。
止まると、短く読みを教えてくれる。私はその言葉を使って、続きを読んだ。
読み終えると、文子は頷いた。
「さっきより読めたんじゃない?」
「うん」
私はそのページを見た。
一人で開いたときには、知らないものばかりだった。
今は、文子が間違えた字と、おばちゃんに聞こうと思った字と、自分で読めた文章があった。
*
文子が帰ったあと、私は部屋の机へ教科書を置いた。
棚の本と並べず、手を伸ばせば届くところへ置く。短い鉛筆も、その横へ移した。
帳面を出し、今日の日付と、島袋先生に会ったことを書いた。
学校へ行けるかは、まだ分からない。
教科書を借りた。
文子が一緒に読んでくれた。
そこまで書いてから、最初の方の紙へ戻った。
十二月八日。
あと五日だった。
私は昼間読んだ教科書へ目を向けた。分からないところには、小さく印をつけてある。
読み方が分からなければ、文子に聞けた。
学校へ通えるかどうかは、島袋先生が相談してくれる。
けれど、この日付については、誰へどう尋ねればいいのか分からなかった。
おばちゃんが、廊下で灯りを確かめていた。戸の隙間から影が動き、まだ読んでいるのかと声がした。
「もう少しだけ」
「目を近づけすぎないようにね」
私は返事をした。
帳面を閉じ、元の服と一緒にしまった。代わりに教科書を開き、文子と読んだところを、もう一度初めから読んだ。
知らない文字の前で止まっても、今度は少し待てば、教えてもらった声を思い出せた。




