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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第12話 十二月八日の朝



 島袋先生が置いていった教科書を、私は毎日少しずつ読んだ。


 文子は学校帰りに二度、食堂へ寄ってくれた。初めは私が読み方を尋ねるばかりだったが、そのうち、文子が授業で習ったところを開き、どんな話だったか教えてくれるようになった。自分では分かったつもりでも、説明している途中で首を傾げることがあり、二人で前のページへ戻った。


「ここ、先生は何て言ってたかな」


 文子が呟くと、私は、教えてくれる子にも分からないことがあるのだと知って、少し安心した。


 店の手伝いも増えた。水を運び、客の帰った卓を拭き、どの棚にどの器を戻すのかを覚えた。注文はまだおばちゃんへ任せていたが、上原さんが入ってくると、いつもの席へ湯飲みを置けるようになった。


 そうして過ごす間にも、私は日に一度は暦を見た。


 十二月の数字は、眺めているだけでは動かなかった。けれど、帳面へ日付を書くたび、八日に近づいていた。


 六日の夜には、未来の出来事を書いた紙を読み直した。七日の夜は、引き出しへ手をかけながら開けなかった。


 書いてあることは覚えていた。


 確かめなくても、次の日が何日なのか分かっていた。


     *


 十二月八日は、おばちゃんの起きる音で目が覚めた。


 まだ部屋の中は暗く、窓の向こうも明るくなりきっていなかった。私は布団に座り、廊下の足音を聞いていた。台所で戸棚が開き、何かを置く音がする。


 いつもの朝だった。


 服を着替え、顔を洗いに行くと、おばちゃんは私を見て驚いた。


「今日は早いね。よく眠れなかった?」


「目が覚めたから」


「まだ少し横になっててもいいよ」


 私は首を振った。


 水へ手を入れると、指先が冷えた。顔を洗い、渡された布で頬を押さえる。おばちゃんは鍋へ戻り、私は店の椅子を揃えた。


 何かをしていないと、ラジオばかり見てしまいそうだった。


 棚の上の木の箱は、まだ黙っていた。


 私は卓を拭き、入口に近いところから湯飲みを並べた。四つ置いてから、多すぎると思い、二つを棚へ戻した。自分で決めた小さな用事がなくなるたび、次に何をすればいいのか考えた。


 おばちゃんが朝食を運んできた。


「食べておこう。お客さんが来ると、落ち着いて座れないから」


 私は席へついた。


 ご飯を一口食べても、喉を通るまでに時間がかかった。おばちゃんは自分の椀を持ちながら、私の顔を見た。


「気分が悪い?」


「大丈夫」


「頭は?」


「痛くないよ」


 嘘ではなかった。


 額の傷はほとんど気にならなくなっていた。けれど、胸の辺りに重いものがあり、息をするたびそこへ触れるような気がした。


 おばちゃんは、食べられるだけでいいよと言った。


 私は椀を置き、台所の方を見た。


 言うなら、今なのだと思った。


 今日、戦争が始まる。


 それだけでも伝えれば、おばちゃんはラジオを聞く前に知ることができる。けれど、そのあと何を説明するのか、どこまで話すのかを考えると、言葉が続かなかった。


 おばちゃんが立ち上がった。


「今日は先に少し仕込んでおこうかね」


 私はその背中を見送り、残りのご飯を口へ運んだ。


     *


 朝の支度がひと段落したところで、おばちゃんはラジオをつけた。


 私は卓の端で布巾を畳んでいた。つまみを回す手を見て、布の角を合わせたまま動けなくなった。


 雑音がした。


 おばちゃんがもう一方のつまみを少し動かすと、人の声が聞こえた。私は時計へ目を向け、それからラジオを見た。


 放送が切り替わった。


 臨時ニュースだと告げる声に、おばちゃんの手が止まった。


 私は布巾を卓へ置いた。


 耳に届いたのは、帝国陸海軍が米英軍と戦闘状態に入ったという知らせだった。


 聞いたことのある言い回しだった。


 現代の家で、調べている途中に聞いた古い放送の声。それが今、食堂の棚から聞こえていた。


 私は内容を確かめようとして、一歩近づいた。声は同じ知らせを繰り返した。聞き違いではなかった。


 おばちゃんが小さく息を吸った。


「米英と……」


 それ以上は言わず、ラジオへ顔を向けていた。


 私はその横に立った。


 鍋は火にかかったままだった。湯気が蓋の端から出ている。道の向こうで人が声を上げ、少しして、入口からゲンさんが入ってきた。


「聞いたか」


 おばちゃんが頷いた。


 ゲンさんはいつものように椅子へ座らず、棚の近くまで来た。三人で放送を聞いていると、トメさんも戸口へ現れた。


「そっちもつけてるね」


 誰も挨拶をしなかった。


 私は棚を見つめたまま、両手を握った。


 分かっていた日は、確かに来た。


 そのことが、知らせの内容と一緒に身体へ入ってきた。昭和十六年という暦も、病院で聞いた話も、どこかの間違いではなくなっていく。


 家で開いた画面を閉じるように、ここから離れることはできなかった。


     *


 その朝、食堂へ来る人は、ほとんど同じ話をした。


 知らせを聞いて急いで来た人もいれば、入口で人の集まりに気づき、何があったのか尋ねる人もいた。おばちゃんはラジオを消さず、音を聞きながら食事の支度をした。


 上原さんはいつもの席へ座ったあとも、しばらく箸を取らなかった。


「とうとう、そこまで来たか」


 ゲンさんが短く応じた。


 別の客は強い声で、日本が負けるはずはないと言った。その言葉に頷く人もいた。トメさんは黙って空いた器を重ね、台所へ運んだ。


 私は水を注ぎ足しながら、それぞれの顔を見た。


 皆が同じ知らせを聞いていても、同じ顔をしているわけではなかった。


 声を大きくする人の隣で、湯飲みを持ったまま考え込む人がいる。冗談のようなことを言って笑う人もいたが、その笑い声はいつもより短かった。


 私は誰にも、知っていたとは言わなかった。


 昼に近づくにつれて、ハワイの真珠湾という地名が店の会話にも出てきた。私は器を持つ手を止め、おばちゃんへ顔を向けた。


 おばちゃんも、その言葉を確かめるように聞いていた。


 海の向こうで起きたことが、ラジオを通って、この店の人たちの話になっていく。


 入口の外には、昨日と同じ道があった。石垣のそばを子どもが通り、籠を持った女の人が立ち止まった。鍋の中身がなくなれば、おばちゃんは次の支度を始めた。


 私は、もっと何かが変わると思っていた。


 空の色や、人の歩き方まで違ってしまうように感じていたのに、実際には腹をすかせた客が来て、食事をして帰った。


 そのいつもの動きの中へ、新しい話題が入り込んでいた。


「理恵ちゃん、それ、こちらへ持ってきて」


 呼ばれて、私は皿を運んだ。


 おばちゃんは受け取る前に、私の手を見た。


「力を入れすぎてるよ。落とさないから、大丈夫」


 指を緩めると、皿の縁へ強く当てていたところが痛んだ。


     *


 文子が来たのは、午後になってからだった。


 入口に立つと、まずラジオへ目を向けた。私を見つけて近づいてきたが、教科書の話はしなかった。


「聞いた?」


「うん」


「学校でも、みんなその話だった」


 私は文子の鞄を見た。


 いつもと同じものを持っていた。結んだ髪も、歩いてきて少し赤くなった頬も変わらない。


 文子は椅子へ腰を下ろし、私にも座るよう目で促した。


「先生、何て言ってた?」


 私が尋ねると、文子は学校で聞いたことを話した。先生の言葉を思い出しながら、自分の言葉も間へ挟んだ。友達の中には、喜んでいる子もいたという。


「文子は?」


 聞いてから、私は湯飲みへ目を落とした。


 文子はすぐには答えなかった。


「分からない。急に言われても」


 その返事に、私は顔を上げた。


「でも、戦争って、もっと遠いところの話みたいだったから」


 文子は入口の方を見た。


「帰ったら、母さんもずっとその話かな」


 私は、何と言えばいいのか考えた。


 文子の言う遠いところが、これからこの島へ近づく。


 けれど、私はそれまでの道筋を詳しく知らなかった。何をしたら、この子を安全な場所へ連れていけるのかも分からない。


「理恵?」


 黙っていた私に、文子が声をかけた。


「怖い?」


 私は頷いた。


 文子は私の額を見て、それから少し身を寄せた。


「今日は、早く休んだ方がいいよ。顔、白いから」


「平気」


「平気って顔じゃない」


 文子の言い方に、私はほんの少し笑った。


 文子は湯飲みを私の前へ寄せた。


「飲んで。おばちゃんに怒られるよ、私が何か言って具合悪くなったって」


「そんなこと、言わないよ」


「分かってるけど」


 私は湯飲みを持った。


 温かさが手に移った。文子は私が飲むのを見てから、鞄の口を開けた。


「この前の続き、分からないところあった?」


 私は部屋の方を見た。


「少し」


「じゃあ、そこだけ見よう。今日は長くいられないけど」


 私は教科書を取りに行った。


 朝から初めて、暦ではないものを見るために歩いた。


     *


 夜、店を閉めたあとも、おばちゃんはラジオをつけていた。


 私は部屋で帳面を開いた。


 昭和十六年十二月八日。


 日付を書く手は、朝より落ち着いていた。


 その下へ、今日聞いたことを書いた。


 ラジオで開戦の知らせを聞いた。


 米英と戦闘状態に入ったと言っていた。


 真珠湾の話も出た。


 私は前の紙へ戻り、自分が書いた十二月八日の行と見比べた。


 間違っていなかった。


 それを確かめても、嬉しくはなかった。ほかに書いた日付まで、同じように来るのだと思うと、ページをめくる手が止まった。


 廊下から、おばちゃんが呼んだ。


「少し入っていい?」


 私は帳面を閉じ、風呂敷の内側へ滑らせた。


「うん」


 おばちゃんは戸を開け、部屋の入口へ座った。


「今日は、よく働いてくれたね」


「そんなに、してないよ」


「してたよ。水を運んで、片づけて。助かった」


 私は机の端へ手を置いた。


 おばちゃんは私の顔を見て、少し間を置いた。


「怖かったね、朝の放送」


 私は頷いた。


「知らないところで、こんな知らせを聞かされて。家へ帰りたいと思うよね」


 おばちゃんの言葉を聞いて、私は口を開きかけた。


 知らなかったわけではない。


 それを言えば、次に何を聞かれるだろう。どうして知っていたのか。これから何が起きるのか。


 私の知っていることを話したら、おばちゃんは今夜、眠れるだろうか。


「おばちゃんは……」


 声にすると、考えていた言葉とは違うものが出た。


「怖くない?」


 おばちゃんは膝の上で手を重ねた。


「怖いよ」


 私は顔を上げた。


「よく分からないことが多いからね。でも、明日も店を開けないと。食べに来る人がいるでしょう」


 おばちゃんは、そこで小さく息をついた。


「理恵ちゃんも、お腹はすくから」


 私は頷いた。


 おばちゃんは立ち上がり、寝る前に水を飲んでおいでと言った。台所へ戻る足音を聞いてから、私は風呂敷の中の帳面へ手を伸ばした。


 今日の記録の最後へ、一行書き足した。


 おばちゃんも、怖いと言った。


 私はその文字をしばらく見ていた。


 未来を知らない人が、何も感じずに暮らしているわけではなかった。


 帳面をしまい、台所へ行った。おばちゃんは翌朝使う器を揃えていた。私は水を飲んだあと、乾いた椀を一つ取り、いつもの棚へ戻した。


「もう寝る?」


「うん」


「おやすみ、理恵ちゃん」


 私は戸口で振り向いた。


「おやすみ、おばちゃん」


 店の壁には、十二月の暦が掛かっていた。


 私は今夜、八の数字を見ないまま、部屋へ戻った。

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