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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第13話 窓際の席


 年が明けて間もない朝、私は鏡の前で襟を直していた。


 おばちゃんが繕ってくれた制服は、肩のところがまだ少し大きかった。袖は長さを詰めてもらい、手首がきちんと出るようになっている。髪を結び直すと、鏡の中の自分が、道で見かけた女学生たちに少し近づいた。


 机の上には、教科書と帳面を入れた鞄があった。


 隠している帳面は、箪笥の奥へ残した。


 学校へ持っていくものと、誰にも見せないものを分けると、自分の中まで二つに分かれたような気がした。


 十二月八日から、ひと月近くが過ぎていた。


 食堂では戦況の話が続いていたが、その間にも客は来て、おばちゃんは食事を作った。私の傷が治る頃、島袋先生から学校へ来るようにと話があった。おばちゃんと一緒に出向き、勉強を見てもらい、幾つかの質問に答えた。


 身元の分からない私が通うためには、相談しなければならないことが多かったらしい。おばちゃんは何度か学校へ足を運び、最後に、まずは文子と同じ一年の教室で勉強を始められることになったと教えてくれた。


 その夜、おばちゃんはしまってあった制服を出した。


 誰が着ていたものか、私は尋ねなくても分かった。袖を通す前に迷っていると、おばちゃんは布を広げたまま言った。


「使ってもらえたら、私も助かるよ。しまっておくだけじゃ、直すところにも気づかないから」


 私は礼を言い、腕を通した。


 鏡の前でその袖を見ていると、廊下から足音がした。


「文子が来たよ」


 私は鞄を取った。


     *


 文子は店の入口で待っていた。


 私の制服姿を見ると、足元から襟まで一度確かめ、頷いた。


「ちゃんと女学生だね」


「変じゃない?」


「変じゃないよ。襟、こっちが少し曲がってる」


 文子が指を伸ばしたので、私は顎を上げた。直してもらってから、おばちゃんへ振り向く。


 おばちゃんは前掛けで手を拭いていた。


「途中で具合が悪くなったら、先生に言うんだよ」


「もう大丈夫」


「そう言って、我慢しないこと」


 私は頷いた。


 おばちゃんが鞄の持ち方を見て、紐が捻れているところを直した。その仕草に、家を出る朝の母を思い出した。私は逃げずに、その手が離れるのを待った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 文子と並んで道へ出た。


 朝の道には、同じ方へ歩く生徒がいた。文子は何人かに声をかけ、私を連れていることを短く説明した。相手がこちらを見るたび、私は頭を下げた。


「そんなに一人ずつ挨拶しなくても、あとで教室で会うよ」


 文子が小さく笑った。


「でも、何も言わないのも……」


「じゃあ、笑っとけば」


 そう言われると、かえって顔が固くなった。


 文子は私の歩く速さを見て、少し歩調を落とした。


「初めは見られると思う。でも、みんなすぐ慣れるから」


 私は頷いた。


 学校へ近づくにつれて、生徒の声が増えた。家の軒先で聞く会話より言葉を拾いやすく、誰かが持ち物を忘れたらしい話まで耳に入った。


 校門が見えたとき、私は鞄の紐を握り直した。


     *


 島袋先生に案内されて教室へ入ると、並んだ顔が一斉にこちらを向いた。


 黒板の前に立つ。


 木の机が並び、窓から朝の光が差していた。机の端に手を置いている子、背筋を伸ばしている子、隣と目を合わせてからこちらを見直す子がいた。


 見ている場所は分かるのに、一人ずつの顔を覚える余裕はなかった。


「寺田理恵さんです。今日から一緒に勉強します」


 先生に促され、私は名前を言った。


 よろしくお願いしますと続けると、幾つかの声が返ってきた。


 文子は自分の席から、私を見ていた。目が合うと、小さく頷いた。


 先生が示したのは、窓に近い席だった。


 私は机の間を歩き、鞄を置いた。椅子を引いた音が大きく聞こえ、慌てて手で押さえる。隣の席の子が、その動きを見た。


 髪をきっちり結び、机の上に教科書と筆記具を揃えていた。


「そこ、脚が少し引っかかるの」


 小さな声だった。


 私は椅子の下を見た。床板の継ぎ目に、脚が当たっていた。


「持ち上げた方がいいよ」


「ありがとう」


 椅子を少し浮かせ、座り直した。


 その子はもう黒板へ顔を向けていた。


 私も前を向いた。


     *


 最初の授業から、置いていかれそうになった。


 教科書の文字には少し慣れていたが、先生が読む速さで追うと、途中の言葉を考えている間に先へ進んでしまう。黒板を写してから教科書へ戻ると、どこを読んでいるのか分からなくなった。


 私は隣の子の本を見た。


 その子は気づき、何も言わず、自分のページの一行を指した。


 私は同じところを探した。


 しばらくして、また分からなくなった。


 顔を向ける前に、隣から指が伸びてきた。今度は私の教科書の端を押さえ、読むところを示した。


 私は小さく頭を下げた。


 授業が終わると、文子が来た。


「どうだった?」


「速い」


「慣れるよ。どこ?」


 私が本を開くと、隣の子が先に口を開いた。


「ずっと下を向いてるから、先生がどこを指してるか見てないの」


 言い方がはっきりしていて、私は返事に詰まった。


「字が、まだ分からなくて」


「だから、顔を上げた方が分かるよってこと」


 その子は教科書を閉じた。


 文子が私とその子を見比べた。


「千代、理恵はこの書き方に慣れてないんだって。この前、一緒に読んだときもそうだった」


「聞いた。でも、全部の字を読もうとしてたら追いつかないでしょう」


 千代は私の方を向いた。


「分からないところに印をつけて、あとで聞いたら?」


 私は教科書へ目を落とした。


 間違えずに読まなければと思っていた。先生の声を聞きながら、一文字ずつ確かめていた。


「……そうする」


 答えると、千代は頷いた。


「新垣千代」


 急に名乗られ、私は顔を上げた。


「寺田理恵です」


「それは、さっき聞いた」


 文子が笑った。


 私も少し笑ったが、千代は不思議そうに二人を見ていた。


     *


 休み時間には、何人もの子に話しかけられた。


 どこに住んでいるのかと聞かれ、食堂の裏だと答えると、おばちゃんを知っている子がいた。食べに行ったことがある、母が知っている、と話がつながった。


 前の学校について聞かれたときは、言葉を選ぶのに時間がかかった。


 文子が横から別の話をしたこともあった。千代は尋ねる子たちの後ろで自分の帳面を見ていたが、私が何度も同じことを聞かれていると顔を上げた。


「次の授業、支度しないと」


 その声で、集まっていた子たちは席へ戻った。


 私は鞄を開けた。


 入れたはずの帳面が、すぐに見つからなかった。教科書を一度取り出し、布の包みを横へ寄せる。


 千代は私の机を見た。


「先に全部出すから、探しにくくなるのよ」


「分かってる」


 返事をしてから、強すぎたと思った。


 千代の手が止まった。


 私は鞄の中から帳面を取り出したが、机へ置くときに、教科書の角が床へ落ちた。拾おうとすると、千代が先に取ってくれた。


「はい」


「……ありがとう」


 千代は本を渡し、自分の席へ戻った。


 文子はそのやり取りを見ていたが、何も言わなかった。


 私は帳面を開き、白い紙へ日付を書いた。


     *


 帰りには、文子と千代と三人になった。


 校門を出たところで千代が同じ道へ曲がったので、文子が声をかけた。


「食堂のところまで、一緒でしょう」


「そうだけど」


「じゃあ、一緒に帰ろう」


 千代は少しだけ私を見てから、文子の隣へ並んだ。


 私は半歩遅れて歩いた。二人は授業のことを話し、途中で、先生が読み上げた文章について言い合いになった。


 文子が、あれはこういう意味だと思うと言う。


 千代は、それだと後ろの文と合わないと返した。


 私は二人の話を聞きながら、自分がどちらの意味に取ったのかを思い出した。


「理恵は?」


 文子に聞かれ、私は顔を上げた。


「文子の方だと思ってた」


「ほら」


「二人がそう思ったからって、合ってることにはならないよ」


 千代が言うので、私は笑ってしまった。


 千代はこちらを見た。


「何?」


「ううん。ちゃんと、そう言うんだと思って」


「分からないままなの、嫌じゃない?」


 私は頷いた。


「嫌」


「じゃあ、明日聞こう」


 千代は前へ向き直った。


 少し先で、文子が道端の石を避けた。千代も同じように歩き、私は二人の通ったところへ足を置いた。


 帰る道が、食堂から病院へ行く道とつながった。


 大きな木が見え、角を曲がると店の看板があった。おばちゃんは入口のそばを掃いていて、私たちに気づくと箒を止めた。


「お帰り」


 文子と千代が挨拶をした。


 私は二人と別れ、店の敷居を越えた。


「ただいま」


 おばちゃんは、私の鞄を見てから顔を上げた。


「どうだった?」


 私はすぐには答えられなかった。


 分からない字があった。先生の話についていけなくなった。何度も同じことを聞かれ、千代には少し腹が立った。


 けれど、帰り道で三人で話した。


「……明日も、行く」


 そう答えると、おばちゃんは笑った。


「うん。その前に、今日は座って休もうね」


     *


 夕飯のあと、私は借りた教科書を机へ広げた。


 隠した帳面も取り出したが、まずは今日つけた印を確かめた。分からない言葉は幾つもあった。千代に言われたとおり、授業中はそこで止まらず、あとで戻るために印を残していた。


 私は紙の端へ、明日聞くことを書いた。


 文子と千代が言い合っていた文章も、その中へ入れた。


 それから帳面へ、学校へ行ったことを書いた。


 新垣千代。隣の席。


 はっきり言う。教科書を拾ってくれた。


 どちらも本当のことだった。


 私はその二行を見て、明日は言い方を少し変えようと思った。分かってる、と言ったとき、本当は分かっていなかった。鞄をどう片づければ取り出しやすいのかも、授業中にどこまで読めばいいのかも。


 帳面の前の方には、まだ先の日付が残っていた。


 私は今夜、そこを開かなかった。


 明日、先生に聞きたいことがある。


 文子と千代にも、返したい言葉がある。


 机の上へ鞄を置き、使う順に教科書を入れ直した。最後に帳面をしまい、朝、おばちゃんが起こしに来る前に起きられるよう、布団を敷いた。

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