第14話 三人分の昼ご飯
学校へ通い始めてひと月が過ぎる頃には、先生に名前を呼ばれても、すぐに顔を上げられるようになっていた。
初めのうちは、寺田、と呼ばれるたびに少し遅れた。自分の名前なのに、この教室で聞くと、別の誰かのことのように感じた。今は返事をして立ち上がり、分からなければ、分かりませんと答える。
それができるまでにも、何度か失敗した。
帳面に書いた文章を見せると、千代は誤った字の横へ指を置いた。答えを先に言うこともあれば、教科書のどこを見ればいいかだけ教えることもあった。
「そこ、前にも間違えたよ」
「分かってる。書くと、つい」
「分かってるなら、書く前に見ればいいでしょう」
その言い方に腹が立つ日もあった。
けれど、千代は自分が間違えたところも隠さなかった。先生に帳面を返されると、直された部分を見て眉を寄せ、もう一度計算する。私が答えを見つけたときには、どこでそうなったのかと、同じように尋ねた。
文子は二人の間へ来て、すぐに答えが出ない問題でも、とりあえず一緒に考えようと言った。
三人で教科書を覗き込むことが、少しずつ増えていた。
*
その日の昼、千代は包みを開かなかった。
いつもなら授業が終わると机の上を片づけ、持ってきた食事を出す。私と文子が話している間に先に食べ始め、早くしないと休み時間が終わると言うのも千代だった。
ところが、その日は帳面を開いたまま、鉛筆を動かしていた。
「食べないの?」
文子が尋ねた。
「あとで」
「まだ直してるの?」
「もう少しだから」
私は鞄から包みを取り出した。おばちゃんが用意してくれたご飯とおかずが入っている。朝、少し多いと思って言うと、学校へ行くとお腹がすくでしょうと返された。
包みを広げてから、千代の机を見た。
教科書と帳面と筆記具はある。食べ物らしいものは出ていなかった。
「忘れたの?」
私が聞くと、千代の鉛筆が止まった。
「何を」
「お昼」
文子も千代を見た。
千代は帳面へ目を戻した。
「今日は、いいの」
私は箸を持ったまま、文子と顔を合わせた。
千代が忘れ物をすることは、あまりなかった。朝の支度が早く、授業が変われば必要なものを出し、帰る前には机の中を確かめる。私が物を探していると、どこへしまったか覚えていないのかと呆れる子だった。
「これ、少し食べる?」
私は包みを千代の方へ寄せた。
「多くて、残しそうだから」
千代は顔を上げた。
「朝から、そんなに食べられないと思ってたの?」
私は返事に詰まった。
朝も多いと思った。それは本当だった。けれど、今、千代に分けようとしている理由は、残しそうだからだけではなかった。
千代はそれを分かっていた。
「大丈夫だから。理恵が食べなよ」
包みを押し戻され、私は手を引いた。
親切にしたつもりだったのに、拒まれると恥ずかしくなった。周りの子に聞かれていないか、先に気になった。
「別に、無理に食べてって言ってない」
「だから、食べないって言ってるの」
千代の声も少し硬くなった。
文子が自分の包みを開いた。
「じゃあ、私がもらう。理恵の、それおいしそう」
そう言って私のおかずを一つ見たあと、自分のものを寄せた。
「代わりに、こっちあげる」
私は文子の顔を見た。
文子はそのまま千代へ向いた。
「千代も。私の母さん、また同じおかず入れてる。ちょっと換えて」
「今日は持ってない」
「じゃあ、今度」
文子はそれ以上説明せず、千代の机の端へ、自分の包みを置いた。
千代はしばらくそれを見ていた。
「……お腹すいてないわけじゃないよ」
小さな声だった。
私は箸を置いた。
千代は帳面を閉じ、鞄へしまった。
「朝、弟が熱を出して。家でばたばたしてたから、忘れたの」
「弟、何歳?」
文子が聞いた。
「五つ。いつもは朝からうるさいのに、今日は寝たままで」
千代は言い終えてから、机へ目を落とした。
私は、昼ご飯を忘れたことだけ見ていた。
千代には弟がいて、今朝はその子を心配しながら家を出てきた。帳面を直しているからといって、勉強のことだけ考えているわけではなかった。
「これ、三人で食べよう」
今度は、残しそうだからとは言わなかった。
私は自分の包みを机の真ん中へ置いた。文子も寄せ、千代のために座る場所を少し空けた。
千代は私たちを見てから、席を移した。
「明日は持ってくる」
「うん」
「二人の分も、何か」
「お昼、三つ持ってきたら重いよ」
文子が言うと、千代は眉を寄せた。
「全部じゃないよ」
私は笑った。
千代も、今度は少し口元を緩めた。
*
帰り道、千代はいつもより早く歩いた。
弟のことが気になっているのだと思った。文子が食堂へ寄るかと尋ねても、今日は帰ると答えた。
道が分かれるところで、千代は足を止めた。
「お昼、ありがとう」
私は鞄の紐を持ち直した。
「弟、よくなるといいね」
「うん」
千代は頷き、行きかけてから振り返った。
「朝、ちょっと言い方悪かった」
「私も」
私が答えると、千代は何か言いかけたが、やめた。そのまま片手を上げ、家の方へ歩いていった。
私は背中を見送った。
文子が隣で言った。
「千代、頼むのが苦手なんだよね」
「文子は、前から知ってるの?」
「入学してから。でも、最初からあんな感じ。自分で何とかするって顔してるでしょう」
私は頷いた。
「理恵も、そういうときあるよ」
文子が続けた。
私は顔を向けた。
「私?」
「分からないのに、分かってるって言うとき」
言い返そうとして、口を閉じた。
文子は笑って、食堂の看板へ目を向けた。
「今日は、理恵のおばちゃんにお礼言わないと。お昼、もらったから」
私は文子と並んで店へ入った。
おばちゃんは話を聞き、空になった器を見てから、二人の顔を見た。
「それで、足りた?」
最初に聞かれたのがそれだったので、私は文子と顔を合わせて笑った。
*
二月の半ば、食堂でまた大きな勝利の知らせを聞いた。
学校から帰ると、上原さんが棚のそばに立っていた。ゲンさんもいて、二人ともラジオへ顔を向けている。
私は入口で挨拶をしたが、上原さんは片手を上げただけだった。
放送では、シンガポールのイギリス軍が降伏し、日本軍が攻略したと伝えていた。東南アジアにあるイギリスの重要な拠点を占領した、大きな戦果だという内容だった。
言葉の意味が分からず、おばちゃんの方を見ると、おばちゃんもラジオを聞いていた。
「また勝ったんだな」
上原さんが言った。
ゲンさんは頷き、放送の続きを聞こうと、少し身を近づけた。
私は鞄を置いた。
シンガポールという地名は知っていた。けれど、日本軍がいつそこへ進んだのか、どんな戦いだったのかは覚えていない。
この知らせが間違っているのかどうかも、私には分からなかった。
翌日、学校でもその話が出た。
先生は地図の前へ立ち、マレー半島の先にある場所を示した。生徒たちは机から身を乗り出し、どこかを確かめた。これまでの戦果を挙げ、日本軍の進撃について話す先生の声には、いつもより力があった。
私は地図を見ていた。
遠い場所で、日本軍が勝った。
その言葉だけを聞いていると、家で調べた戦争とは違うものが進んでいるように感じた。十二月八日から、まだ二か月ほどしか経っていない。食堂でも教室でも、聞こえてくるのは日本軍の優勢を伝える話だった。
昼休み、文子が言った。
「こんなに勝ってるなら、早く終わるかな」
千代は弁当の包みを広げながら、そうだといいね、と答えた。
私は二人を見た。
文子は本気で、早く終わることを願っていた。千代もそうだった。勝利の話を喜ぶことと、戦争が長く続いてほしいと思うことは、この二人の中では同じではなかった。
「理恵は、どう思う?」
文子に聞かれた。
私は膝の上で手を握った。
「……終わってほしい」
それだけなら、嘘ではなかった。
千代が頷いた。
「私も」
三人は包みを机へ寄せた。
あの日から、ときどきおかずを少しずつ交換するようになっていた。千代の弟は熱が下がり、家の中を走り回って叱られているという。
文子が、元気になったらなったで大変だねと言い、千代が、うるさいくらいでいいよと返した。
私はその言葉を聞きながら、ご飯を口へ運んだ。
早く終わればいい。
そう願う声を、これから何度聞くのだろうと思った。
*
その月の終わりには、授業中に千代の教科書を覗き込むことが減っていた。
先生が読む場所を見失っても、自分で前後を確かめられるようになった。どうしても分からないときだけ尋ねると、千代は以前と同じように指で示した。
文子は、それを見て、もう一人でも読めるねと言った。
私はまだ間違えるよと答えたが、教科書を開くこと自体は怖くなくなっていた。
ある日の帰り、運動会の話になった。
文子が、走るのは好きかと尋ねたので、私は得意ではないと答えた。千代はすぐに、自分も速くないと言った。
「じゃあ、二人とも私より後ろね」
文子が言うと、千代が顔を向けた。
「まだ走ってないでしょう」
「でも、そうだと思う」
「やってみないと分からないよ」
私は二人の間で笑った。
文子は校庭で見せてあげると言い、千代は、転んでも知らないからねと返した。
私は運動会の日を想像した。
同じ教室の子たちと並び、順番を待ち、誰かの名前を呼ぶ。自分が走る番になれば、文子と千代が見ている。
その中におばちゃんもいたら、どんな顔をするだろう。
家の母は、私が走るところを見つけるのが早かった。写真を撮るときには、いつも少し離れた場所から名前を呼んだ。
思い出して胸が痛んだが、私は二人の話から離れなかった。
「理恵、聞いてる?」
文子が覗き込んだ。
「聞いてるよ」
「じゃあ、転んだら起こしてね」
「勝つって言ってたのに、もう転ぶ話?」
私が返すと、千代が笑った。
文子も笑い、私の腕へ軽く触れた。
そのまま三人で歩いた。
食堂へ帰ったら、今日のことを帳面に書こうと思った。シンガポールの知らせを聞いたことも、昼のおかずを分けたことも、運動会の話も。
同じ一日の中に、どちらもあった。
※シンガポールのイギリス軍降伏は1942年2月15日の史実です。本文の放送内容は、その出来事を現代の言葉で要約しています。




