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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第15話 声のする方へ



 春になり、私たちは二年生になった。


 教室が変わり、窓から見える校庭の角度も変わったが、文子と千代は同じ組だった。席が離れても、休み時間になるとどちらかが来る。三人で昼を食べ、帰り道でその日の話をすることも、いつの間にか当たり前になっていた。


 運動会の支度が始まると、校庭に出る時間が増えた。列を揃え、競技の順番を確かめ、走る練習をする。私は文子が言っていたほど速くないことを知り、千代も、本人が言うほど遅くないことを知った。


「ほら、やってみないと分からなかったでしょう」


 千代に言われ、文子は息を切らしながら、今日は調子が悪かっただけだと答えた。


 私は二人の隣で膝へ手をつき、笑うと余計に苦しくなると文子に文句を言った。


     *


 運動会の朝、おばちゃんは私が出かける前に、履物の紐を確かめた。


「昨日も結べてたよ」


「途中でほどけたら困るでしょう」


 私は片足を引きかけて、そのままにした。


 おばちゃんは結び目を軽く引き、立ち上がった。


「お昼は文子たちと食べるんだね」


「うん。おばちゃんも、来られたら来て」


「トメさんが店を見てくれるって。少し遅くなるかもしれないけど」


 私は頷いた。


 文子と千代は、大きな木のある角で待っていた。文子が私の包みを見るなり、中身は何かと尋ねたので、昼まで内緒と答えた。


「どうせ交換するんだから、今教えても同じでしょう」


「千代のは?」


「私も内緒」


 文子は二人の顔を見て、ずるいと言った。


 並んで歩き始めると、普段より早い時間なのに、同じ方へ向かう生徒がいた。私たちは校庭での集合場所を確かめ、文子が競技の順番を言い間違えるたび、千代が訂正した。


 道の分かれ目へ来たところで、後ろから声がした。


「文子」


 振り向くと、学生帽をかぶった男の子が歩いてきた。


 私たちとは違う制服だった。肩へ掛けた鞄を押さえながら近づき、文子の前で足を緩めた。


「今日は運動会だろ」


「そう。直樹は学校?」


「ほかにどこへ行くんだよ、この格好で」


 文子は気にせず笑った。


 男の子は千代にも挨拶をして、それから私を見た。私は鞄の紐を持ち直した。


「初めてだよね」


 尋ねられ、私は頷いた。


「寺田理恵です」


「森本直樹」


 名乗るとき、直樹は帽子のつばへ少し手をやった。


「理恵、今、おばちゃんの食堂にいるの」


 文子が言うと、直樹は店のある方へ目を向けた。


「ああ、あの店。前に父さんと行ったことある」


「そうなんだ」


「ご飯、おいしいよね」


 私は頷いた。


 自分が作っているわけではないのに、褒められると嬉しかった。


「三人とも走るの?」


 直樹が尋ねた。


「走るよ。私が一番速い」


 文子がすぐに答えた。


「まだ言ってる」


 千代が横から言うと、直樹は文子の顔を見た。


「一番って、誰と比べて?」


「ここにいる三人」


「範囲、狭いな」


 文子が直樹の腕を軽く叩いた。


 私も笑った。直樹がこちらへ顔を向けたので、慌てて口元を押さえる。


「理恵は、速い?」


「普通……だと思う」


「じゃあ、文子には勝てるかも」


「何でそうなるの」


 文子が言い返し、千代まで笑った。


 直樹は道の先を見た。私たちの学校へ向かう道とは、ここで分かれるらしかった。


「そろそろ行く。勝ったかどうか、今度聞くから」


「来て見ればいいのに」


「授業があるんだって」


 直樹は文子へ返し、それから私へ目を向けた。


「怪我しないようにね」


 私は頷いた。


「うん」


 直樹は片手を上げ、別の道へ歩いていった。鞄が背中の横で揺れていた。


 文子に袖を引かれてから、自分がまだその姿を見ていることに気づいた。


「近所の子。小さい頃から、ああいう言い方するんだよ」


「文子も、同じくらい言い返してたけど」


 私が言うと、千代が頷いた。


「いつもああだから、気にしなくていいよ」


 私は三人で歩き出し、ほどけていない紐へ一度目を落とした。


     *


 校庭には、すでに人が集まっていた。


 競技の道具を運ぶ生徒がいて、先生が列へ戻るよう声をかけている。私たちは教室へ荷物を置き、支度をしてから、自分たちの場所へ並んだ。


 体操と先生の話が終わる頃には、日差しが強くなっていた。校庭の端には家族らしい人たちが増え、私は何度かそちらを見た。


 おばちゃんは、まだ見つからなかった。


 文子が肘で私をつついた。


「理恵、次の次だよ」


 私は校庭へ顔を戻した。


 競技が進むにつれて、先生の指示だけでなく、生徒の声も大きくなった。知っている子が走ると、自然に名前を呼んだ。文子は自分の番ではないのに立ち上がり、千代に座るよう言われた。


「見えないんだもん」


「後ろの人も見えないよ」


 私は二人の間から校庭を覗いた。


 いよいよ自分たちの順番になり、列から離れた。走る場所へ向かう途中、急に足が重くなった。練習では平気だったのに、見ている人が増えると、転ぶところまで想像してしまった。


 文子が私の顔を見た。


「大丈夫。転んだら起こすから」


「自分も走るのに?」


「終わってから」


「遅いよ」


 千代が言って、私は笑った。


 笑ったまま前を向くと、合図を待っている先生が見えた。


 地面へ足を置き、身体を少し前へ傾けた。


 合図が鳴った。


 走り出すと、足の重さは消えた。隣の子の腕が視界の端で動き、前を走る文子の髪が揺れていた。私は少しでも近づこうとして、腕を振った。


 誰かが名前を呼んだ。


 声のする方を見たいと思ったが、顔を動かすと遅くなりそうで、そのまま走った。


 文子の肩へ近づいたところで、千代が反対側から出てきた。


 文子がそれに気づき、急に速くなった。


 私も力を入れたが、最後は追いつけなかった。線を越えたあとも数歩走り、ようやく足を止める。


 息が胸の中で引っかかった。


 文子は少し前で腰へ手を当て、千代は私の隣で呼吸を整えていた。


「ほら」


 文子が言った。


 千代は返事をする前に、一度大きく息を吐いた。


「私たち三人の中ではね」


「それ、朝から言ってたでしょう」


 文子は笑い、私の肩へ手を置いた。


 私は答えようとしたが、息が続かず、頷くことしかできなかった。


 そのとき、もう一度名前を呼ばれた。


「理恵ちゃん」


 校庭の端に、おばちゃんがいた。


 私は手を上げた。


 おばちゃんも同じように手を上げ、何か言った。周りの声に紛れて聞き取れなかったが、笑っているのは分かった。


 家で母を探すときと同じように、私は人の並ぶ中からその顔を見つけた。


     *


 昼は、三人で並んで座った。


 文子の家族が近くにいて、千代の弟は姉のそばへ来るなり、走るところを見たと言った。千代が、どうだったと尋ねると、弟は文子の方が速かったと答えた。


「知ってる」


 千代が言うので、文子が得意そうな顔をした。


 おばちゃんは私の包みを開くのを待ち、足りるかと聞いた。


「まだ食べてないよ」


「走ったから、お腹すいたでしょう」


 隣で文子が、おいしそうと声を上げた。


 私は皿代わりの包みを真ん中へ寄せた。千代も自分のものを広げ、弟には先に家族のところへ戻るよう言った。


「少しあげればいいのに」


 文子が言うと、千代は弟の背中を見た。


「さっき、もう食べてたの。今度は私の分まで食べる気だから」


 おばちゃんが笑った。


 三人の食べ物を見比べ、これなら分けやすいねと言って、私たちのそばから少し離れた。トメさんへの土産話にすると言いながら、校庭の方を見ていた。


 私はご飯を食べ、文子へおかずを渡した。千代が代わりに一つ寄せてくれる。


 朝、直樹に何を持っているのか聞かれなかったことを、不意に思い出した。


「どうしたの?」


 文子が私を見た。


「ううん」


「直樹に勝ったって言えるね」


 千代が文子へ言った。


「言うよ。ちゃんと二人に勝ったから」


「理恵、今度聞かれたら、範囲は狭かったって言って」


 私は笑った。


 次に会うときの話が、もうできていた。


     *


 午後の競技が終わる頃には、声が少しかすれていた。


 自分が走るときより、誰かを応援している時間の方が長かった。教室へ戻って荷物を取ると、文子は疲れたと言いながらも、まだ競技の話を続けていた。


 千代は私の袖についた土を払った。


「帰ったら、これ落としてから入った方がいいよ」


「千代も、背中」


 私が示すと、千代は振り向こうとして身体を捻った。文子が笑って、手で払ってくれた。


 校門を出ると、おばちゃんが少し先で待っていた。


 私は二人へ顔を向けた。


「また明日」


 文子と千代も返事をした。


 おばちゃんと歩き出してから、私は今日のことを話した。文子が三人の中では一番だったこと、千代の弟が姉に遠慮しないこと、自分は声がかすれるほど応援していたこと。


 おばちゃんは相槌を打ちながら聞いた。


「走るところ、見えた?」


「見えたよ。よく頑張ってた」


「何て言ってたの? 終わったあと、聞こえなかった」


「転ばなくてよかったね、って」


 私は笑った。


「それだけ?」


「それだけじゃないよ。ほら、今も言ったでしょう」


 私はおばちゃんの隣を歩いた。


 校庭で名前を呼ばれたとき、母の顔が浮かんだ。


 けれど、その声が母ではなかったことを、今日は寂しいだけだとは思わなかった。おばちゃんが店を離れ、私を見に来てくれた。


 私は道の角で、一度足を止めた。


「来てくれて、ありがとう」


 おばちゃんは私を見た。


「うん。また見に行くよ」


 その返事を聞いてから、私は歩き出した。


     *


 夜、帳面には競技の結果より先に、朝のことを書いた。


 森本直樹。


 文子の近所の子。別の中学校。


 食堂へ来たことがある。


 そこまで書いて、何を話したのか思い返した。


 文子をからかい、千代の言葉を聞いて笑い、私には怪我をしないようにと言った。


 私はその言葉も書き足した。


 次の行には、おばちゃんが見に来てくれたことを書いた。走っているときに名前を呼ばれたこと、昼に三人で食事を分けたことも。


 書くことが多く、紙の下まで来た。


 私は続きを別の紙へ書こうとして、前の方の記録へ目が行った。


 十二月八日から、何か月も過ぎている。


 その間に制服を着て、教室へ入り、文子と千代と帰るようになった。今日、また一人の名前を覚えた。


 私は帳面を閉じた。


 身体は疲れていたが、すぐには眠れそうになかった。布団へ入ってからも、走り終えたあとの文子の顔や、校庭の端で手を振るおばちゃんを思い出した。


 その中へ、学生帽のつばに手をやった直樹の姿も混じった。


 今度聞くと言っていた。


 私は暗い部屋で、何と答えようか考えた。


 文子が勝った。


 自分は転ばなかった。


 それだけの返事をする場面を思い浮かべているうちに、いつの間にか眠っていた。

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