第16話 雑巾と寄り道
運動会が終わると、教室ではしばらくその話が続いた。
文子は自分が勝った話を何度もしたが、千代が、三人の中ででしょう、と付け加えるようになると、ほかの競技の話へ移った。私も校庭の端にいたおばちゃんのことを思い出していたが、授業が始まれば、黒板を写すので精いっぱいだった。
日中は少しずつ暑くなり、窓を開けている時間が長くなった。風が強い日は、教科書の端へ筆記具を置かなければページがめくれた。放課後の掃除では、窓際にたまる細かな砂を、何度も箒で集めた。
宮里春子と組んだのは、その頃だった。
春子は同じ教室にいて、顔も名前も知っていた。授業中によく手を挙げ、答えが違っていると言われても、ではここはどうなのかと先生に尋ねる。昼休みには友達と大きな声で笑い、窓際の席まで笑い声が届くことがあった。
けれど、二人で話したことはほとんどなかった。
「理恵、先に机を寄せよう」
春子に言われ、私は鞄を持ち上げた。
文子は別の掃除場所へ行き、千代も廊下へ出ていた。教室に残った私たちは、机を片側へ動かし、床を掃いた。
春子は箒を動かすのが早かった。私は後ろから、集めたものを塵取りへ入れた。教室の半分を終えると、春子が窓の方を示した。
「そっち、先に拭いておいて。私は入口のところを掃くから」
私は頷き、桶の雑巾を取った。
水を絞って窓際へ行き、床へ膝をついた。隅から拭き始めると、雑巾に細かな砂がついた。何度か裏返し、窓の下まで進んだところで、後ろから声がした。
「何してるの?」
振り向くと、春子が箒を持って立っていた。
「拭いてる」
「床じゃなくて、窓のところ」
春子は窓の下の桟を指した。
私は手を止めた。
「そっちって、言ったから」
「まだ全部掃いてないでしょう。先に濡らしたら、砂が貼りつくじゃない」
床を見ると、確かに拭いたところへ細かなものが残っていた。乾いた部分との境目に、雑巾で押した筋ができている。
「じゃあ、先に言ってよ」
口にしてから、言い方が強かったと思った。
春子も顔を上げた。
「言ったよ。窓のところって」
「窓の方を指してたから、床だと思ったの」
「分からなかったら、聞けばいいでしょう」
その言葉に、私は膝へ力を入れた。
分からなければ聞けばいい。
学校へ来てから何度も言われてきたことだった。分かっているつもりのときまで確かめなければならないのかと思うと、腹が立った。
「何でも聞いてたら、終わらないよ」
「間違えてやり直す方が、終わらないよ」
春子は言い返し、床へ箒を当てかけてやめた。
私は雑巾を握ったまま立ち上がった。
近くにいた二人の生徒が、こちらを見た。見られていると分かった途端、引き下がるのも恥ずかしくなった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん」
「怒ってなかったよ。初めは」
春子が言った。
私は返す言葉を探したが、見つからなかった。
*
廊下から千代が戻ってきた。
床と私たちを見て、雑巾の入った桶を少し横へ動かした。
「そこ、乾かしてからもう一度やればいいんじゃない?」
春子は窓際を見た。
「そうするしかないでしょう」
「じゃあ、先に窓。二人で拭けば早いよ」
千代は予備の雑巾を一枚取り、私へ渡した。
私は自分が持っている汚れたものを見た。
「これ、洗ってくる」
桶を持ち上げると、春子が片方の持ち手へ手を伸ばした。
「水、重いから」
私は思わず、その顔を見た。
春子は桶を見ていた。
二人で水を替えに行く間、何も話さなかった。桶が揺れないように歩くと、互いの速さへ合わせなければならなかった。
水を捨て、雑巾を洗い直したあと、私は膝についた土を払った。
「……汚くしちゃって、ごめん」
春子は蛇口の方を見ていたが、少ししてこちらを向いた。
「私も、ちゃんと指せばよかった」
私は頷いた。
それで終わりにして戻ろうとすると、春子が足元の雑巾を拾った。
「でも、雑巾はちゃんと絞った方がいいよ。理恵の、まだ水が多かった」
私は顔を上げた。
春子は私の表情を見て、今度は少し笑った。
「それまで言っちゃ駄目?」
「……駄目じゃない」
私も笑った。
教室へ戻ると、千代が机の脚についた埃を落としていた。文子も自分の場所を終えて来ていて、まだ終わらないのかと窓から顔を出した。
「喧嘩してたから」
千代が答えた。
「もう終わったよ」
私と春子が同時に言ったので、文子は笑った。
*
掃除のあと、春子も一緒に帰ることになった。
普段は別の子と帰っているらしかったが、その日は待たせてしまったので、先に行ってもらったという。
文子は校門を出るなり、何で喧嘩したのか尋ねた。
「雑巾」
春子が答えた。
「雑巾だけじゃないよ」
私が言うと、千代が横から、床と窓、と付け加えた。
「全然分からない」
文子が私たちを見た。
説明しているうちに、自分でもたいしたことではないように思えてきた。さっきは本気で腹を立てていたのに、春子が私の言い方を真似すると、そんなふうには言っていないと言い返しながら笑ってしまった。
「言ったよ。先に言ってよ、って」
「そこは言ったけど」
「じゃあ、同じでしょう」
春子はそう言って鞄を掛け直した。
千代が、明日は最初にどこを拭くか決めなよと言い、私たちは頷いた。
道の分かれ目へ来たとき、向こうから男子が三人歩いてきた。
一人は直樹だった。
文子が先に気づき、名前を呼んだ。
直樹は顔を上げ、その隣を歩いていた子が、私たちの方へ大きく手を振った。
「運動会、誰が勝った?」
直樹に尋ねられ、文子が胸を張った。
「私」
「本当?」
「本当。理恵に聞いて」
顔を向けられ、私は頷いた。
「文子が一番だった」
直樹は笑った。
「そっか。転ばなかった?」
「転ばなかったよ」
「それならよかった」
答えてから、私は少し目を伏せた。
朝、言われたことを覚えていたのは、自分だけではなかった。
「俺たちにも紹介してくれない?」
隣の子が直樹の肩をつついた。
直樹は少し身体を避け、私たちへ向き直った。
「上原健一。同じ学校」
「よろしく」
健一は明るい声で言った。
もう一人は少し離れて立っていた。直樹が名前を言う前に、自分で口を開いた。
「仲村修です」
私たちも順番に名乗った。
春子が最後に名前を言うと、健一が、人数が増えたねと文子へ言った。
「初めから同じ組だよ」
春子が答えた。
「そういう意味じゃなくて、一緒に帰る人が」
「じゃあ、そう言えばいいのに」
私は思わず春子を見た。
春子もこちらを見て、何、と言いかけてから笑った。さっきと似ていたのだと分かったらしい。
健一は訳が分からない顔をしていたが、修が横から言った。
「今のは、お前の言い方が悪い」
「名乗ったばっかりなのに?」
「名乗る前でも同じ」
直樹が笑い、文子もつられた。
道の真ん中に集まりかけていたので、千代が端へ寄ろうと声をかけた。皆で石垣の側へ移ると、健一が急に腹を押さえた。
「何か食べたいな」
「さっきから言ってる」
修が答えた。
文子が私を見た。
「理恵のところ、寄る?」
私は店の方へ目を向けた。
「開いてると思う」
直樹が鞄を持ち直した。
「じゃあ、寄っていい?」
私は頷いた。
いつもの帰り道に、三人分の足音が増えた。
*
おばちゃんは、入口へ現れた人数を見て目を丸くした。
「あら、今日は賑やかだね」
私は隣へ寄り、学校の友達だと伝えた。春子が挨拶をし、直樹たちも名乗る。
健一が何を食べられるか尋ねると、おばちゃんは残っているものを確かめ、量と値段を先に教えた。男子たちは懐の中を見て、短く相談した。
私たちは卓を囲んだ。
食堂で聞く男子同士の話は、学校の休み時間とは少し違った。先生の口癖を真似する健一に、修が似ていないと言い、直樹が、言う場所まで違うと付け加えた。
文子はそれを面白がり、春子は、先生に聞かれたらどうするのと尋ねた。
「聞かれないから、ここで言ってる」
「私たちが話したら?」
千代が言うと、健一は急に真面目な顔になった。
「それは困る」
皆が笑った。
私は湯飲みを運びながら、会話へ耳を向けていた。直樹の前へ置くと、ありがとうと言われた。
次の湯飲みを取りに行こうとしたところで、春子が立ち上がった。
「私も運ぶ」
「座ってていいよ」
「二つずつなら、一回で済むでしょう」
そう言って、春子は台所の方へ来た。
おばちゃんに断って湯飲みを受け取り、私と並んで卓へ戻る。春子は水をこぼさず、器を置く音も小さかった。
「慣れてるんだね」
「家でもやるから」
春子は椅子へ座り、袖を直した。
私はその隣へ腰を下ろした。
直樹が話しかけた。
「毎日、手伝ってるの?」
「学校から帰って、できることだけ」
「それで勉強もするんだ」
「分からないところ、二人に聞くから」
文子と千代へ目を向けると、千代がすぐに言った。
「自分でもやってるでしょう」
私は少し笑った。
おばちゃんが食事を運んできて、卓の上が狭くなった。皆で湯飲みを寄せ、鞄を足元へ動かした。
春子は、男子たちの食べる速さを見て呆れていた。
「もう少し噛んだら?」
「腹が減ってるから」
健一が答え、修が、喋る前に飲み込めと注意した。
私は食堂の奥を見た。
おばちゃんは鍋の蓋を戻しながら、こちらの声を聞いて笑っていた。
*
皆が帰ると、卓には湯飲みと空いた器が残った。
私は椀を重ね、おばちゃんへ運んだ。
「春子ちゃん、よく気がつくね」
「うん」
返事をしてから、私は少し迷い、昼間の喧嘩を話した。
おばちゃんは皿を洗いながら聞いた。
「そう。仲直りできた?」
「できたと思う」
「一緒にここへ来たんでしょう」
私は頷いた。
「でも、まだ雑巾の絞り方が悪いって言われた」
おばちゃんは笑った。
「じゃあ、明日、見てもらおうかね」
「おばちゃんまで」
文句を言うと、おばちゃんは洗った皿を私へ渡した。
私は布で水を拭き取り、棚へ戻した。
今日、春子と喧嘩したときには、もう話したくないと思った。帰り道では笑い、店では一緒に水を運んだ。
帳面へ書こうとすると、どこから始めればいいのか迷いそうだった。
まず、名前を書こうと思った。
宮里春子。
それから、上原健一と仲村修。
直樹の名前の横にも、今日話したことを足す場所が必要だった。
私は最後の椀を棚へ置き、卓へ戻った。春子が運んだ湯飲みの下に、小さな水の輪が残っていた。
布巾で拭くと、すぐに消えた。
明日の掃除では、初めに窓の桟を指して確かめようと思った。春子がまた笑うかもしれない。
そう考えると、私も少し笑った。




