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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第17話 勝ったという知らせ



 六月に入ると、教室の窓を開けていても、風の通らない時間が増えた。


 机に腕を置けば、肌が板に張りつく。教科書をめくる指にも汗がにじんで、私は何度も制服の膝で手を拭いた。窓際の席が羨ましかったのは、冬の間だけだったらしい。


「理恵、そこ、さっきから同じところ読んでる」


 隣から文子に言われ、私は慌てて顔を上げた。


「読んでるよ」

「じゃあ、何が書いてある?」

「……暑い」

「それは書いてない」


 文子が笑いをこらえて肩を揺らしたところで、前の席から千代が振り向いた。


「二人とも、当てられても知らないよ」


 そう言う千代の額にも、細かな汗が浮かんでいた。


 春に一つ上の学年になってから、授業で分からないところは少しずつ減っていた。文字の読み方も、先生の話す速さも、初めの頃ほど怖くはない。それでも、こちらでは誰もが知っている歌や言い回しを、私だけ知らないことがあった。


 そんなとき、文子は不思議そうな顔をするより先に、小声で教えてくれた。千代は帰り道にもう一度確かめてくれる。二人がいなければ、私は今も、教室の隅でうなずくだけだったと思う。


 その日の授業が終わると、宮里春子が私の机にやってきた。


「寺田さん、今日、少し残れる?」


 私は思わず窓の方を見た。


「窓枠なら、今日は拭いたよ」

「そうじゃなくて」


 春子は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。


「まだ覚えてるの、あれ」

「忘れられないと思う」

「私だって、雑巾を見るたび思い出すよ」


 この前の掃除当番以来、春子とは、顔を合わせれば言葉を交わすようになっていた。ただ、呼び方はまだ寺田さんのままで、私も宮里さんと呼んでいた。


 春子が見せたのは、端のほつれた布だった。


「繕うところ、よく見えなくて。ここ、押さえてくれない?」


 私は椅子を寄せ、言われた場所を両手で広げた。春子は針に糸を通すと、迷う様子もなく布をすくっていく。


「上手だね」

「家でやるから」

「私、自分の指まで縫いそう」

「それなら針は持たないで」


 きっぱり言われて、近くで帰り支度をしていた文子まで笑った。


 縫い目は細かく、まっすぐだった。私が見つめていると、春子は少し照れたように顔を伏せた。


「そんなに見られると、やりにくい」

「ごめん。どうやったら同じ幅になるのかなって」

「同じにしようと思ってやるんだよ」

「それが難しいんだけど」


 千代が私の肩越しにのぞき込んだ。


「理恵は、まず一つ縫ってみたら」

「指を?」

「布を」


 四人の笑い声が、帰り支度の物音に混じった。


     *


 食堂へ帰ると、いつもより早い時間から、ラジオの前に人が集まっていた。


 おばちゃんは台所にいたけれど、鍋をかき混ぜる手を止めて、表の方へ顔を向けている。ゲンさんも椅子の背に手を掛けたまま、黙って耳を澄ませていた。


 私は入口で立ち止まった。


 放送から聞こえた地名を、知っていた。


 ミッドウェー。


 鞄を持つ指に、力が入った。


 六月十日。日付とその名前が、頭の中でようやく結びつく。私はこの海戦の詳しい経過を知らない。それでも、日本が大きな損害を受けた戦いだったことは、覚えていた。


 けれど、ラジオが伝えていたのは、私の記憶とは違う知らせだった。


 日本軍はミッドウェー方面で米軍と戦い、敵の航空母艦二隻を沈めるなどの戦果を上げた。日本側にも航空母艦一隻の沈没、一隻の大破という損害が出たが、敵に大きな打撃を与えたという。


 私は、ラジオの布張りの正面を見つめていた。


「また大きな戦だったんだねえ」


 おばちゃんの声に、ようやく顔を向ける。


「……うん」

「船が沈んだっていうのは、こちらの人も亡くなったんだろうね」


 おばちゃんはそれだけ言って、台所へ戻った。


 勝ったという知らせの中にも、亡くなった人はいる。そのことを当たり前のように口にしたおばちゃんの背中を、私はしばらく見ていた。


 私の覚えていることが間違っているのだろうか。


 ここへ来てから、そう思ったことは何度もあった。授業で聞いたことと、あとから自分で調べたこと。その全部を、正確に覚えているわけではない。ミッドウェーについても、地図に書かれた矢印や、沈んだ船の写真がぼんやり浮かぶだけだった。


 それなのに、放送を聞き終えても、安心できなかった。


 店の入口から声がしたのは、私が鞄を置こうとしたときだった。


「まだ食べられますか」


 直樹の後ろに、健一と修が立っていた。


「食べられるよ。今日は三人?」

「三人です。健一が、腹が減って歩けないって」

「そこまで言ってないだろ」


 健一が直樹の肩を押し、修は二人を追い越して席についた。


「歩けてるうちに座れば」


 その言い方が千代に似ていて、私は少し笑った。


 水を運んでいくと、健一がラジオを指さした。


「聞いた? また勝ったって」

「……聞いた」

「すごいよな。あんな遠くまで行って」


 どう返せばいいのか分からず、私は空になった隣の卓へ手を伸ばした。置き去りになっていた茶碗を重ねる。茶碗の底が触れ合う音が、思ったより大きく鳴った。


「でも、こっちの船も沈んだんだろ」


 直樹が言った。


 健一は口を閉じて、それから小さくうなずいた。


「まあ……そうだけど」


「兄さんの友達、海軍に行ってるから」


 直樹は水の入ったコップを、両手で挟んだ。


「どこにいるかは、知らないけど」


 私は重ねた茶碗を抱えたまま、直樹を見た。


 海戦という言葉の向こうに、誰かの知っている人がいる。私にとっては教科書の中の出来事だったものが、この人たちには、手紙を待つ相手のいる場所なのだ。


「手紙、来てるの?」


 尋ねると、直樹は首を横に振った。


「俺の家に来るわけじゃないから。兄さんから、たまに聞くだけ」


 そこでおばちゃんが料理を運んできて、私も台所へ戻った。


 しばらくして表を見ると、健一はもう学校であったことを話していた。先生に注意された話らしく、修に「それはお前が悪い」と言われている。直樹も笑っていたけれど、私はその笑い顔と、さっきコップを持っていた手の両方を覚えていた。


     *


 夜、私は引き出しの奥から日記を出した。


 六月十日、と書き、その下に、聞いた放送の内容を思い出せるだけ書いた。


『ミッドウェーの戦い。日本が大きな戦果を上げたと放送された。こちらの空母も沈んだと言っていた。』


 そこで鉛筆を止めた。


 勝った、とだけ書くのは違う気がした。けれど、何隻沈んだのか、いつ沈んだのか、私には確かなことが書けなかった。


『私は、日本が負けた戦いだったと覚えている。詳しいことは思い出せない。』


 書き終えた文字を、しばらく見つめた。


 この日記には、人に見せられないことばかりが増えていく。それでも今日、春子が針を動かしていたことや、健一たちが食堂に来たことまで、隠してしまうのは惜しかった。


 少し間を空けて、私は続きを書いた。


『宮里さんは縫い物が上手。今度は私も教えてもらう。』


 書いてから、寺田さん、と呼ぶ春子の声を思い出す。


 明日、春子と呼んでみようか。


 そんなことを考えていると、廊下からおばちゃんが声を掛けた。


「理恵、まだ起きてる?」

「うん。もう寝るよ」


 私は日記を閉じ、元の場所へ戻した。


 窓の外では、どこかの家の話し声がまだ続いていた。明日の支度をする人がいて、眠れずにいる人がいて、遠くからの便りを待っている人もいる。


 ラジオで聞いた海の名前を、私はもう一度、心の中で繰り返した。

1942年6月10日の大本営発表は、日本側の空母の損害を「一隻沈没、一隻大破」と伝えましたが、実際には四隻を失っていました。作中の放送は当時の発表内容を現代の言葉で要約しています。

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