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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第18話 約束の行き先



 夏の間に、春子は私を理恵と呼ぶようになった。


 初めてそう呼ばれたのは、縫い物を教わっていたときだった。私が糸を長く取りすぎて、針を引くたびに腕をいっぱいに伸ばしていると、春子が見かねて手を出した。


「理恵、それじゃ絡まるよ。貸して」


 名前を呼ばれたことが嬉しくて顔を上げると、春子は私の手元を見て眉を寄せた。


「ほら、また結び目ができてる」

「……春子、これ、ほどける?」

「ほどけるけど、自分でもやってみて」


 隣で文子が笑った。


「私のも、あとで見て」

「文子は、まず縫い始めて」


 千代だけが黙々と針を動かしていた。出来上がったところを見せてもらうと、私の縫い目よりずっと細かく揃っている。


 私が羨ましそうに見ていたのだろう。千代は布を裏返し、少し曲がったところを指した。


「ここ、やり直したの。初めからできたわけじゃないよ」


 その日から、私は前より少しだけ、針を持つのが嫌ではなくなった。


     *


 夏が過ぎても、しばらくは暑い日が続いた。


 食堂では、おばちゃんが仕入れてきたものを広げてから、献立を決め直すことが増えていた。前なら何も言わずに出せた料理を、客に頼まれても、今日はできないと答える日がある。


 私も、注文を聞く前に台所を確かめるようになった。


「これは、まだある?」

「あと二人分くらいだね」

「じゃあ、先に言っておく」


 そんなやり取りが、いつの間にか普通になっていた。


 足りないものがあるからといって、店がすぐ静かになるわけではなかった。ゲンさんはいつもの席に座り、トメさんは用事のついでに入口から顔を出した。おばちゃんが煮物の味を少し変えると、前の方が好きだったと言う人もいれば、こっちの方がいいと言う人もいた。


 私はその声を聞きながら、卓を拭いた。


 学校の帰りに、直樹たちが立ち寄ることもあった。ただ、三人揃う日は以前ほど多くなかった。


「健一は?」


 ある日、直樹と修だけが来たので尋ねると、修が入口の方を振り返った。


「家の手伝い。今日は先に帰った」

「珍しいね」

「それを本人に言うと、いつもやってるって怒るよ」


 直樹が笑い、私は二人の前に水を置いた。


 卓の端から、直樹の鞄に入った本が少しのぞいていた。食事を待つ間にも取り出して読もうとするので、修が呆れた顔をした。


「今くらい閉じれば」

「ここ、まだ終わってないんだよ」

「歩きながら読むから、今日もぶつかりそうになったんだろ」


 私は本の表紙を見た。


「何の勉強?」

「算術。理恵も、こういうのやる?」


 差し出された頁には、見覚えのある式が並んでいた。言葉遣いは違っても、問題の考え方は分かる。私は鞄を置いて、その横に立った。


「これなら、少し」

「本当? じゃあ、ここ」


 指されたところを読む。途中までは合っていたけれど、一つ前の計算で数字を取り違えていた。


「ここ、これじゃない?」

「あ」


 直樹が鉛筆を止めた。


 修が横からのぞき込み、声を出さずに笑った。


「ずっと難しい顔してたのに」

「うるさいな。気づかなかっただけだよ」


 直樹は消しゴムで数字を消した。私はその手元を見ながら、文子に教わるばかりだった自分が、人に教えられることもあるのだと思った。


「助かった。ありがとう」


 顔を上げて言われ、私は慌てて本から離れた。


「たまたま分かっただけ」

「たまたまでも、分かったんなら助かるよ」


 台所からおばちゃんに呼ばれ、私は返事をして戻った。料理を運ぶときには、直樹の本はもう鞄にしまわれていた。


     *


 秋が深まる頃、授業の合間に、進級した先のことが話題になるようになった。


 文子は、まだ先のことだよ、と言いながらも、成績を返されると誰より早く紙を伏せた。


「見せて」


 千代が手を伸ばすと、文子は両手で押さえた。


「見るほどのものじゃない」

「だから見るの」

「理恵、助けて」


 私は自分の紙を畳んだ。


「次、一緒に勉強しよう」

「今はそれより、千代を止めて」


 結局、文子は観念して紙を見せた。千代は叱るでもなく、間違えたところを指でたどり、私にも見えるように向きを変えた。


「ここ、授業でやったところだよね」

「そのときは分かったんだよ」

「じゃあ、もう一回やれば分かるよ」


 文子が渋々うなずくと、春子が椅子を寄せた。


「私も一緒にやる。家に帰ると、下の子が邪魔するから」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「春子も、弟がいるの?」

「妹。人の鉛筆、勝手に持っていくの」

「返してくれない?」

「返してくれるけど、短くなってる」


 文子が笑い、春子もつられて笑った。


 机を寄せて問題を解いていると、話は何度も別の方へそれた。春子の妹の話から、千代の弟が最近覚えた歌の話になり、文子が歌い出しかけて、千代に止められる。


 私は鉛筆を握ったまま、その顔を順に見た。


「どうしたの?」


 文子に尋ねられ、私は首を振った。


「ううん。こういうの、いいなと思って」

「勉強が?」

「勉強は……それほどでもない」

「私も」


 文子がすぐに答えたので、春子が問題の書かれた紙を真ん中へ押し戻した。


「じゃあ、早く終わらせよう。話は帰りにできるんだから」


     *


 その帰り道、校門の少し先で直樹に会った。


 一人だった。私たちに気づくと、道の端へ寄って待った。


「今日は遅かったんだね」

「勉強してたの」


 文子が胸を張ると、直樹は少し驚いた顔をした。


「文子が?」

「直樹までそういうこと言う」


 春子が笑いながら、文子の腕を引いた。


「私、こっちだから。文子、途中まで一緒に帰ろう」

「うん。じゃあ、明日ね」


 二人が曲がり角で別れ、しばらく先で千代も家の方へ向かった。私は直樹と並んで、食堂へ続く道を歩いた。


 何度も一緒になったことのある道なのに、二人になると、何を話せばいいのか分からなくなった。


「この前の問題、解けた?」


 ようやく尋ねると、直樹はうなずいた。


「解けた。あのあと、同じ間違いしてないか、ほかも見直した」

「よかった」

「理恵は、算術が好きなの?」

「ほかのよりは。読めない字があっても、数字は分かるから」


 言ってから、少し変な答えだったかもしれないと思った。けれど直樹は、なるほど、と素直にうなずいた。


「俺は、船のことを勉強してみたいんだ」


 私は隣を見た。


「船?」

「作る方。どうしたら浮くとか、重いものを積んでも傾かないとか。ちゃんと習えたら、面白そうだろ」


 直樹は話しながら、道端に落ちていた小石を避けた。


「まだ、何になれるか分からないけど」


 私はすぐには答えられなかった。


 船と聞いて、六月の放送を思い出していた。けれど直樹が話しているのは、これから自分が学びたいことだった。沈んだ船ではなく、まだ作られていない船の話だった。


「見てみたい」


 私が言うと、直樹が顔を向けた。


「何を?」

「直樹が作った船」

「そんな先のこと」

「でも、作れたら見たいよ」


 直樹は少し笑って、前を向いた。


「じゃあ、作れたら教える」

「うん」


 食堂の看板が見えてきた。入口では、おばちゃんが布を払っていた。


 私に気づくと手を止め、それから隣の直樹へも顔を向けた。


「お帰り。直樹君も、食べていく?」


 直樹は今日は帰ります、と答え、私に小さく手を上げた。


 私は店の前で立ち止まり、その背中を見送った。角を曲がる前に一度こちらを振り返ったので、慌てて手を振り返した。


     *


 その夜の日記には、勉強した問題と、文子たちのことを書いた。


 最後に、直樹が船を作りたいと言っていたことを付け足した。


 鉛筆を置きかけて、もう一行だけ書く。


『できたら見せてもらう約束をした。』


 読み返すと、ずいぶん遠い先の約束に思えた。


 私はこの先に戦争があることを知っている。けれど、それだけを考えていたら、今日、直樹が話してくれたことまで、聞かなかったことになってしまう。


 日記を閉じる前に、さっきの一行をもう一度見た。


 消さずに残して、私は鉛筆を机へ置いた。

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