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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第19話 言いかけた言葉



 昭和十八年になった。


 食堂の暦を掛け替えるとき、私は外した方を捨てられず、しばらく膝に載せていた。ここへ来た年が終わり、次の年も過ぎた。病院で十一月だと教えられたときには、十二月八日を迎えることさえ怖かったのに、私はもう、その一年先にいる。


「裏、まだ使えるね」


 おばちゃんに言われて暦を返すと、何も書かれていない面が現れた。


「切っておこうか」

「うん。注文を書くのに使えるから」


 私は紙を折り、端を揃えた。年が変わっても、店には拭く卓があり、学校には持っていく教科書があった。朝が来れば、まずその日の支度をしなければならなかった。


 冬の間、私たちは放課後に残って勉強することが増えた。


 文子は算術の問題を見ると、先にため息をつく。春子はそのたびに、ため息をついても答えは出ないと言い、千代は黙って紙の端に途中の計算を書いた。私は読めなかった文字を別の紙へ写して、家でも見直すようになった。


 四人でいると、できないことを隠すのが難しかった。その代わり、一人で分からないまま終わらせることも減っていた。


     *


 二月九日の夜、食堂のラジオから、ガダルカナル島の知らせが流れた。


 日本軍は敵に打撃を与え、作戦の目的を果たしたため、二月上旬に島を離れ、ほかの方面へ移ったという。


 放送では、それを転進と呼んでいた。


 私は台所の入口で、洗った椀を持ったまま聞いていた。ガダルカナルという名前には覚えがあった。食べ物が届かず、多くの兵隊が飢えた場所。調べたときに読んだ文章の、そこだけが頭に残っている。


「また別のところへ行くんだね」


 おばちゃんが棚へ皿を戻しながら言った。


「……うん」


 椀を重ねると、一番上のものが傾いた。慌てて支え直した私に、おばちゃんが、少しずつでいいよ、と声を掛けた。


 私は数を減らして持ち直した。


 放送が終わったあとも、転進という言葉が耳に残った。島を離れたなら、そこにいた人たちは食べられるようになったのだろうか。全員が船に乗れたのだろうか。


 覚えていないことを知りたくても、ここには調べるためのパソコンも、開けば答えの出る画面もなかった。


     *


 春には三年生になった。


 席が変わり、文子は私から少し離れた。授業中に困った顔をすると、前ならすぐに気づいてくれたのに、今は二人分の背中が間にある。私は自分で教科書を読み直すようになり、休み時間になると文子の机へ行った。


「近くにいない方が、理恵、勉強してるね」


 文子に言われ、私はその机に手をついた。


「文子は?」

「私は、前より困ってる」


 千代が後ろから、だから昨日も教えたでしょう、と言った。


 教室には新しい学年の時間割が貼られた。私はそれを帳面へ写した。次の春には四年生になる。その次の春は、昭和二十年だった。


 鉛筆の先が止まったのは、最後の一行を書き終えたあとだった。


 それまでは、日記の中だけにある年だと思おうとしていた。けれど、三年生の教室に座ってみると、自分がそこへ向かっていることを、前よりはっきり感じた。


「理恵、行くよ」


 千代に呼ばれて帳面を閉じた。


 外では春子が待っていた。文子は鞄の留め具を掛け損ねて、中身を落としかけている。私はその本を受け取り、四人で廊下へ出た。


     *


 学年が変わってから、学校で畑へ出る日があった。


 もんぺの裾を直し、列になって歩く。畑へ着いたときはまだ風があったが、作業を始めると、額から汗が落ちた。土を起こす手つきは春子が一番慣れていて、私は何度も同じところを掘り直した。


「力だけ入れても、疲れるよ」


 春子が私の横で腰をかがめ、やって見せてくれた。


 言われた通りにしているつもりでも、うまくいかない。柄を握る指の付け根が擦れ、手を開くとひりひりした。休むたびにそこを見ていたら、文子が自分の手も差し出した。


「私も痛い」

「文子、そこ赤くなってる」

「理恵もじゃない」


 二人で見せ合っていると、千代が、握り方を変えたら、と言った。教わって持ち直しても、痛みは残った。


 その日の帰り、私たちはいつもより口数が少なかった。


 鞄の紐が肩に食い込み、履物の中に土が入っている。足を止めて払いたかったけれど、立ち止まったら、次に歩き出すのが嫌になりそうだった。


「明日の朝、起きられるかな」


 文子が言うと、春子が答えた。


「起きなきゃ、遅刻するよ」

「分かってるけど」


 私は二人の声を聞きながら、道の先を見た。


 まだ、こうして帰れる。家に着けば水があり、座る場所がある。そう考えた途端、今日つらいと思っている自分を責めそうになった。


 けれど、足は痛かった。知っている歴史と比べても、歩くたびに擦れる踵の痛みは消えなかった。


     *


 六月のある日、文子が弁当を包み直しながら言った。


「お父さんが、勝つまで我慢だって」


 私は顔を上げた。


「何を?」

「いろいろ。欲しいものがあっても、今は仕方ないって」


 春子が小さくうなずいた。


「うちも言うよ。妹がね、新しい履物を欲しがってるんだけど」

「千代のところは?」

「弟には、まだよく分からないと思う」


 文子は包みの結び目を引き、少し笑った。


「早く終わるといいね。そうしたら、また運動会も、もっといろいろできるかな」


 私は膝に置いた手を握った。


 文子が思い浮かべているのは、去年走った校庭なのだろう。おばちゃんが見に来て、帰り道で直樹に会った、あの日。


 口を開けば言えそうだった。


 勝って終わるんじゃない。


 これから、沖縄も。


「文子……」


 呼ぶと、三人が私を見た。


 その顔を前にして、続きを言う言葉が見つからなくなった。どこから説明すればいいのだろう。私が、まだ起きていないことを知っていると。別の時代から来たのだと。


 冗談だと思われるだろうか。それとも、学校に来たばかりの頃のように、病院へ連れていかれるのだろうか。


「どうしたの?」


 文子が尋ねた。


「……早く、終わってほしいね」


 言い直すと、文子はうなずいた。


「うん。理恵も、家のこと思い出せるといいね」


 私は頷けなかった。


 文子は今も、私が家を忘れていると思っている。だから、心配してくれる。私はその心配を受け取ったまま、本当のことを隠していた。


     *


 放課後、文子が一人で校門の脇に立っていた。


 千代は先に帰り、春子は先生に呼ばれていた。私が近づくと、文子は鞄を抱え直して歩き始めた。


「待ってたの?」

「うん。今日、理恵、静かだったから」


 私は隣へ並んだ。


 しばらく、二人の履物の音だけがした。文子は急かさず、道端の水たまりを避けたあとで、もう一度私を見た。


「さっき、何か言おうとしてた?」


 胸の中が詰まった。


「……どうして?」

「いつもの理恵と違ったから」


 私は道へ目を落とした。足元にある石を数えるように見て、それから、やっと声を出した。


「怖くなること、ない?」


 文子は少し考えた。


「あるよ」

「戦争のこと?」

「それも。お父さんが難しい顔してるときとか、先生に、もっとしっかりしなさいって言われるときとか」


 文子は鞄を持つ手を替えた。


「みんな分かってるみたいなのに、私だけ分からないこと、あるから」


 私はその横顔を見た。


 文子はいつも、私に教える側だった。分からない言葉を説明し、学校へ連れていき、教室で一人にならないようにしてくれた。その文子も、分からないまま座っていることがあったのだ。


「理恵も、そういうこと?」


 尋ねられて、私は小さくうなずいた。


「でも、何て言えばいいか……分からない」

「じゃあ、今はいいよ」


 文子はあっさり言い、私の歩く速さに合わせた。


「話せるようになったら、聞くから」


 私は返事をしようとして、息を吸った。ありがとうと言うだけなのに、声がうまく出なかった。


 角を曲がると、食堂までの道が見えた。


 文子はそこで別れる前に、明日もここで、といつもの待ち合わせを確かめた。私はうなずき、その背中が遠ざかるまで立っていた。


 明日の朝も、文子に会える。


 今はその約束を守りたかった。私は鞄を肩に掛け直し、食堂へ向かって歩き出した。


補足:1943年2月9日、日本軍のガダルカナル島撤退は「転進」として発表されました。作中の放送は発表の趣旨を現代の言葉で要約しています。翌日の新聞にも「我軍他に転進」と掲載されています。


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