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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第65話 歩ける人



 五月に入ったことを、私は和子に教えられた。


 和子は当番を書いた紙の隅へ日付をつけていた。鉛筆が短くなり、指先で挟むようにして使っている。紙には何度も消した跡があり、春子の名前があったところだけ、薄く毛羽立っていた。


「今日から、清美はここで布を畳む係にするって」


 和子が言った。


「高橋さんが、まだ歩かせないようにって」


 私は頷いた。


 炊飯の欄には別の名前が入っていた。春子と清美がしていた仕事は、二人がいなくても続けなければならなかった。


 紙を見ていると、和子が鉛筆を握り直した。


「名前、消したくなかったんだけど」


 私は顔を上げた。


「そのままだと、次の人が分からなくなるから」


 和子は紙の端を押さえた。湿気を吸った紙が指の下で曲がった。


「分かってる」


 私は言った。


 和子は頷き、紙を元の場所へ置いた。


     *


 何日かして、外から運び込まれる人の服が濡れるようになった。


 担架を下ろすと、布の底から泥水が垂れた。もんぺにも軍服にも茶色い泥がつき、靴を脱がせると、足首の皮膚が白くふやけていた。雨の匂いが一緒に入ってきたが、壕の奥へ運ぶころには、血と膿と、洗えない身体の匂いに紛れた。


 入口から続く通路には、濡れた足跡が重なった。


 泥を掻き寄せても、次の担架が入るとまた広がった。底の擦り減った履物では踏ん張れず、患者さんを支えたまま滑りかけることがあった。


「ここ、石が出てる」


 千代が床を指した。


 私は小さな石を拾い、壁際へ寄せた。患者さんが足を置く場所だけでも空けたかったが、通路の端まで寝ている人がいて、泥を捨てるところも少なかった。


 奥で、夏子が患者さんの背中を拭いていた。


 以前は仕事の間に話していた。教室で歌って先生に注意されたことや、家で飼っていた鶏のことを、夏子が話すと、そばの誰かが笑った。


 今は、布を替えるときに声をかけるだけだった。


 眠る場所へ戻っても、横になった途端に目を閉じてしまう。話す時間があれば眠りたかった。眠っている友達を起こすのも、仕事を頼まなければならないときだけになった。


     *


 照子が戻ってきたのは、雨の強い夜だった。


 私は入口に近い患者さんへ水を飲ませていた。外から名前を呼ぶ声がして振り向くと、玲子が先に入ってきた。


「先生、照子が歩けません」


 島袋先生が立ち上がった。


 その後ろから、兵隊さんに背負われた照子が入ってきた。両腕が肩へ回されていたが、片方の手は力なく揺れていた。


 私は器を置き、通路の荷物を動かした。


 照子のもんぺは膝の下まで泥で濡れ、片足だけ、それより暗い色になっていた。足元から赤い水が落ちていることに気づき、私は高橋さんを呼んだ。


 床へ寝かせると、照子は息を詰めた。


「ごめんなさい」


 最初に出たのは、その言葉だった。


「水、落としました」


 玲子が隣へしゃがんだ。


「途中で砲弾が落ちて。伏せたんですけど、照子の足に……」


「どっちの足」


 高橋さんが尋ねた。


 照子が指そうとして、腕を下ろした。


 血のついた方のもんぺを切ると、ふくらはぎに巻かれた布が見えた。玲子が自分の荷物から出して巻いたのだという。結び目は泥で汚れ、布全体が赤黒く濡れていた。


 ほどく間、照子は玲子の袖を握っていた。


 布の下には、裂けた傷があった。血と泥で縁が見えにくく、傷の間に小さな布の切れ端が挟まっていた。足を少し動かしただけで、照子の指が玲子の袖へ深く食い込んだ。


「動かさないで。今、先生を呼んでるから」


 高橋さんが言った。


 照子は頷こうとして、顔を歪めた。


「足、ありますか」


「あるよ」


 私は思わず答えた。


 照子が私を見た。


「ちゃんと、ある?」


「ある。ここにあるよ」


 私は傷に触れないよう、足先のそばへ手を置いた。


 照子は自分で確かめようと頭を上げたが、高橋さんに肩を支えられ、また横になった。


     *


 軍医が来ると、私たちは布と灯りを持った。


 照子の身体が動かないよう、島袋先生が肩のそばについた。玲子は手を握り続けた。


 傷を確かめる間、照子は何度も息を止めた。堪えようとしているのが分かったが、途中から声が漏れた。泥に汚れた爪が、玲子の手の甲を引っかいた。


「痛い。先生、痛いです」


 私は灯りを持ち直した。


 油の匂いが鼻へ入り、炎のそばに置いた指が熱かった。手を引けば傷が見えなくなるため、持つ場所を少しずつ変えた。


 照子が泣き始めた。


 学校では、転んでも大丈夫と笑う子だった。重い荷物を持つときには、私より先に手を出していた。


 その照子が、先生の袖を掴んで、待ってください、と繰り返していた。


 私は灯りを下げないようにすることしかできなかった。


 処置が終わると、照子は顔を横へ向けたまま動かなくなった。呼びかければ返事はしたが、声が掠れていた。


 高橋さんが濡れた服を替えさせ、足の下へ畳んだ布を入れた。


「しばらく、立たないでね」


 照子は目を閉じたまま頷いた。


     *


 翌日、私は照子のそばでご飯を小さく分けた。


 器を持つ力が戻らず、文子が背中を支えていた。照子は一口飲み込むのに時間がかかり、次を差し出すと首を振った。


「あとにする?」


「少し待って」


 私は器を膝へ戻した。


 照子の顔に汗が浮いていた。壕の中は湿っていたが、額へ触れると、それだけではない熱さがあった。高橋さんへ伝えると、あとで傷を確かめると言われた。


 照子は私の手元を見た。


「これから、どうなるのかな」


「傷?」


「うん。歩けるようになるかな」


 私は足へ掛けられた布を見た。


「先生に、聞こう」


「聞いたけど、今は動かすなって」


 照子が通路へ目を向けた。


 担架を運ぶ人が通り、私たちは壁へ寄った。照子の足元を跨ぐ兵隊さんへ、文子が傷のある方を伝えた。


 その人が行ってから、照子が私の袖へ触れた。


「病院、別のところへ行くこともあるでしょう」


 私は顔を上げた。


「ここへ来る前も、荷物、運んだよね」


「……うん」


「そのときまでに、歩けないと困るよね」


 文子の腕が、照子の背中で止まった。


 私は昨日の清美を思い出した。帰りたいと立ち上がった清美は、歩けない足を引きずっていた。


 そして、前に三人で話したことが浮かんだ。


 移る病院。


 運べない患者さん。


 置いていかれる人。


 照子は私たちの顔を見比べた。


「どうしたの」


「何でもない」


 答えるのが早すぎた。


 照子の指が袖から離れた。私は器を持ち直し、ご飯を小さく分けたが、差し出す前に手を止めた。


「今は、傷を悪くしないようにしよう」


 文子が言った。


「立たなくてもできる仕事、清美もしてるから」


 照子は少し考えてから、頷いた。


「私も、布くらいなら畳める」


     *


 その日のあと、通路を歩く友達の足を見るようになった。


 静子は肩を庇いながらでも歩けた。千代も、美咲も、信子も、自分で立ち上がって仕事へ向かった。


 清美はまだ壁へ手をつかなければ立てなかった。照子は寝たまま、運ばれてくる布を畳んでいた。


 誰かが足を擦りむいたと言うだけで、私は傷を見せてほしくなった。履物の擦れたところが腫れていないか、歩くときに片足を引いていないか、前より気にするようになった。


 夕方、文子と布を運んでいると、照子が私たちを呼んだ。


「明日、少し立ってみてもいいかな」


「まだ駄目だよ」


 私は強い声で言った。


 照子が驚いて手を止めた。


「ごめん。でも、高橋さんに聞いてからにして」


「うん」


 照子は畳みかけの布へ目を戻した。


 私はその横へ布を置いた。何かほかの話をしたかったが、照子の足に目が行き、言葉が出てこなかった。


 通路へ戻ると、文子が私のそばへ寄った。


「分かってる」


 小さく言った。


「理恵が、何を考えたか」


 私は濡れた床を見た。


 入口から担架が入ってきた。二人で道を空けると、運ばれている兵隊さんの足が見えた。片方は布に包まれ、もう片方は担架の端から外れ、運ぶ人の歩みに合わせて揺れていた。


 照子が、私たちの後ろで布を畳んでいた。


 私はその手が止まらないうちに、棚へ向かった。使える布を探し、傷を替えるときのために、乾いているものを上へ載せた。

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