第64話 帰りたい
清美は、配られたご飯に手をつけなかった。
器を膝の横へ置き、春子の荷物を抱いていた。額の布には、傷から滲んだ黄色っぽい染みができていた。腫れた瞼の下で、片方の目だけが入口へ向いている。
「少し食べよう」
文子が隣へ座った。
清美は返事をしなかった。荷物の結び目へ指をかけ、ほどきかけて、また押し込んだ。何度も同じことをしていたため、風呂敷の端が細く捩れていた。
私は水の器を持ってしゃがんだ。
「先に、水でも」
「春子の分は」
私は器を持ったまま止まった。
清美は私を見ず、自分の横のご飯へ目を落とした。
「昨日までは、あったのに」
小さく握られた飯は、器の底に一つだけ載っていた。清美のそばにはもう一人座れるほどの隙間があったが、通路を行く人が足を避けるために使っていた。
文子が何か言おうとして、口を閉じた。
奥で患者さんが水を求めた。別の場所からも学生さんを呼ぶ声が上がり、私は器を清美の手の届くところへ置いて立ち上がった。
「ここに置くね」
清美は頷かなかった。
*
昼か夕方か、分からなくなっていた。
入口へ近づけば外の明るさで判断できたが、奥にいる間は、灯りの芯を直す音や配給の順番で時間を数えるしかなかった。眠れなかった夜のあとも仕事は続き、目を閉じると、春子の声が聞こえた。
痛いと言った口元も、握り返してこなくなった指も、仕事をしている途中で急に浮かんだ。
私は患者さんの下から汚れた布を引いた。
便が布の折り目に入り込み、腿の下で潰れていた。皮膚へ貼りついたところを水で湿らせると、患者さんは身体を強張らせた。背中を支える千代が、もう少しだから、と声をかけた。
替えの布を敷き終え、桶を持って通路へ出たときだった。
入口に近いところで、誰かが名前を呼んでいた。
「渡嘉敷さん、待って」
島袋先生の声だった。
人の肩越しに、清美の頭が見えた。
片手に春子の荷物を持ち、壁へ身体を寄せて立っていた。傷めた足を引きずり、反対の足で少しずつ進んでいる。歩くたびに顔が歪み、壁を探る指が土を削った。
文子が追いつき、腕へ手を伸ばした。
「清美、どこ行くの」
「家」
清美は止まらなかった。
「帰る」
私は桶を壁際へ置いた。千代も後ろから来た。
「その足じゃ、歩けないよ」
文子が言うと、清美は壁を掴んだまま顔を上げた。
「ここにいても、死ぬじゃない」
その声に、近くで器を洗っていた手が止まった。
「春子も、ここまで戻ってきたのに」
清美の息が乱れた。荷物を持つ腕が下がり、結び目が床へ擦れた。
「帰りたい。もう嫌だ。逃げたい」
私は清美のそばへ寄ろうとした。
その前に、入口側にいた兵隊さんが振り向いた。
「何と言った」
初めて見る人だった。頬が痩せ、顎に伸びた髭の間へ土がついていた。肩に掛けていた小銃を片手で押さえ、清美の前へ来た。
島袋先生が間へ入ろうとした。
「負傷した生徒です。友人を亡くしたばかりで――」
「本人に聞いている」
先生の言葉が止まった。
清美は壁へ寄りかかったまま、その人を見た。
「家に、帰りたいんです」
「勝手に持ち場を離れるつもりか」
清美の唇が震えた。
「もう、できません」
兵隊さんの手が小銃を持ち直した。
「皆が命を懸けているときに、お前だけ逃げるのか。非国民が」
声が壕の壁に当たり、奥まで響いた。
私は清美の腕へ触れた。引いて戻そうとしたが、清美は壁を掴んでいて動かなかった。その身体は、服の上からでも分かるほど震えていた。
「春子は、死んだんです」
「黙れ」
「一緒に、ご飯を――」
小銃の先が上がった。
私は清美の顔を見ていたため、最初は何が動いたのか分からなかった。文子が息を呑み、その視線を追って、清美の胸の前にある黒い銃口を見た。
「命令に背くなら、敵前逃亡と同じだ」
清美の口が開いたまま止まった。
私は腕を掴んでいた手に力を入れた。清美を後ろへ引きたかった。けれど、急に動かせば撃たれる気がして、足が床へ張りついた。
すぐ横に文子がいた。千代も、私たちの後ろから動かなかった。
兵隊さんの指が見えた。
春子の手を握っていたときには、もう一度握り返してほしいと、それだけを見ていた。今は、その人の指が動かないことを願っていた。
*
「その学生さんは負傷しています」
入口の方から声がした。
野原さんだった。
運び込まれた荷物を置いたところらしく、肩に紐の跡が残っていた。私たちを見ると、小銃を向けている兵隊さんのそばへ来た。
「私が連れて戻ります」
「逃げると言ったんだぞ」
「頭も足も負傷しています。今、手当てを受けている学生です」
野原さんは清美を見た。
「学生さん、座ろう。足から血が出てる」
清美の足元へ目を落とすと、包帯の端から赤いものが滲んでいた。立っている間に傷が開いたのか、足首の方へ細い筋が伸びていた。
高橋さんが通路の奥から来た。
「渡嘉敷さん、こっちへ」
銃口を見て、一度足を止めた。それから清美の傷を確かめるように膝を折った。
「立たせておけません。寝かせます」
小銃はまだ下がらなかった。
野原さんが、私たちとその人の間へ半歩入った。
「こちらで見ています。外へは出しません」
しばらく、誰も話さなかった。
奥で咳が続いた。痰を吐く音のあと、器が床へ置かれた。私はその小さな音を聞きながら、野原さんの袖越しに銃口を見ていた。
兵隊さんが清美へ顔を近づけた。
「二度と言うな」
清美は答えられなかった。
「返事をしろ」
肩が大きく震えた。
「……はい」
その声を聞いてから、小銃が下がった。
私はようやく息を吸った。吸いすぎた空気で喉が痛くなり、咳が出そうになったが、口を閉じて堪えた。
島袋先生と高橋さんが清美を支えた。文子が荷物を受け取り、私は足元の器を避けた。
清美は一歩戻るたびに、すみません、と言った。
誰に言っているのか分からなかった。先生がもういいからと言っても、同じ言葉が途切れずに出ていた。
*
元の場所へ寝かせると、清美は傷のない方の手で顔を覆った。
高橋さんが足の布を外した。固まりかけた血が布と一緒に剥がれ、清美の膝が跳ねた。
「動かさないでね」
私は腿の下へ畳んだ布を入れた。清美は泣いていたが、声を出さないようにしているのが分かった。指の間から息が漏れ、そのたびに、さっき兵隊さんが立っていた方を見た。
「清美」
文子が荷物を横へ置いた。
清美は顔を覆ったまま尋ねた。
「私、悪いこと言った?」
誰もすぐには答えなかった。
「お母さんに、会いたいだけだったのに」
私は清美の手首へ触れた。
帰りたいと、私も思っていた。
病院の寝台で目を覚ました日から、何度も母を呼びたかった。おばちゃんの家で眠れるようになっても、ここに友達ができても、元の家へ戻りたい気持ちは残っていた。
清美は、それを声にしただけだった。
「悪くないよ」
私は小さく言った。
通路へ顔を向けてから、もう一度清美を見た。
「会いたいよね」
清美の手が顔から離れた。腫れていない方の目から涙が流れ、耳のそばの髪を濡らした。
「春子も、帰りたかったと思う」
私は頷いた。
頷くことしかできなかった。
高橋さんが傷へ新しい布を当てた。清美が歯を食いしばると、文子がその肩を支えた。春子の荷物はすぐそばにあったが、結び目はほどかれないままだった。
*
野原さんが戻ってきたのは、私たちが汚れた布を片づけているときだった。
私は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
野原さんは清美が横になっている方を見た。
「一人にしないでやって」
「はい」
「さっきのようなことは、人のいるところで言わない方がいい」
文子が布を持つ手を止めた。
野原さんは私たちの顔を見たが、何かを言いかけてやめた。それから荷物の置かれた方へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
清美が生きていることがありがたかった。あの人が来なければどうなっていたのか、考えるだけで膝が震えた。
けれど、清美を寝かせた場所は、さっきまでいた場所と同じだった。
入口へ向かうことはできなかった。
*
千代が私を呼び、空になった桶のそばへ連れていった。
文子も来た。三人で壁へ寄ったが、通路を人が通るたび、話すのをやめた。
「昨日の話」
千代は、声をほとんど息にした。
「南へ行くなって言ったら、ああなるの」
私は通路を見た。
先ほどの兵隊さんはいなかった。それでも、ここから見えないだけなのかもしれなかった。
「分からない」
答えると、千代が唇を噛んだ。
「でも、清美は帰りたいって言っただけだよ」
「うん」
「それで、銃を向けられた」
私は頷いた。
首里から南へ下がっていく地図が浮かんだ。摩文仁という文字も、その先にある六月の日付も、覚えていた。
ここに残れば助かると知っているわけではなかった。北へ向かえば無事に通れるのか、今どの道に兵隊がいるのか、どこに砲弾が落ちるのかも分からなかった。
それでも、南へ行く先に何が起きるかは、三人に話してしまっていた。
「私、先生に相談しようと思ってた」
文子が言った。
「病院が移る前に、家へ帰れないかって」
その続きを待ったが、文子は視線を下げた。
私も、おばちゃんのところへ戻れないかと考えていた。清美を連れていくなら誰に頼めばいいのか、歩けない患者さんをどうすればいいのか、考えがそこまで進む前に、黒い銃口が浮かんだ。
「理恵」
千代が私の袖を握った。
「そのときが来ても、一人で何か言わないで」
私は千代を見た。
「お願い。今日、清美が撃たれると思った」
千代の目に涙が溜まっていた。私の袖を掴む指が震え、布を細かく引いた。
私はその手に自分の手を重ねた。
「うん」
未来を話せば、何か変えられると思ったことがあった。
少なくとも、文子と千代が同じことを知ってくれれば、一緒に逃げ道を探せると思っていた。
今は、二人が私の口から出る言葉を怖がっていた。私も、どこまでなら言っていいのか分からなくなっていた。
*
奥から学生さんを呼ぶ声がした。
私は桶を持った。文子は洗った布を取り、千代は清美のそばへ戻った。
患者さんの枕元へしゃがむと、その人は器を指した。
「水を、少し」
背中を支え、口元へ器を寄せた。飲み込む喉の動きを見ながら、こぼさないように傾けた。
入口の方で、靴音がした。
私は手を止めた。水が器の縁から溢れ、患者さんの襟を濡らした。
「学生さん」
「すみません」
慌てて器を戻し、布で拭いた。
靴音は私の後ろを通り、そのまま奥へ進んだ。誰だったのか確かめることができず、私は患者さんの背中を支え続けた。
家に帰りたかった。
母に会いたかった。
その二つを頭の中で繰り返しながら、私は口を開かないようにしていた。




