第63話 南へ行くほど
春子の顔へ布を掛けるとき、私は端を押さえた。
高橋さんが手を止め、私を見た。
「もう少し」
言ってから、何を待っているのか自分でも分からなくなった。清美は傷の手当てを受けていた。先生もそばへ来てくれた。会わせたい人をここで集められるだけ集めても、最後には、この布を掛けなければならなかった。
私は指を離した。
布が額へ載り、鼻のところで少し持ち上がった。その形を見た途端、顔が見えていたときよりも春子が遠くなった。
担架を運ぶ人が来た。
「私も行きます」
立ち上がると、膝がうまく伸びなかった。千代が腕を支え、文子が反対側へ回った。島袋先生は私たちを見て、外の音が落ち着くまで入口で待つこと、離れないことを言った。
私は頷き、春子の後を追った。
*
外へ出たのは、暗くなってからだった。
春子のほかにも運ぶ人がいた。担架が足りず、一度運んだ人たちが戻ってくるのを待っていた。入口から風が入るたび、春子に掛けた布の端が揺れた。ずれるのが嫌で直すと、文子も反対側を押さえた。
誰かが、ここに長く置けないと言った。
理由は分かった。壕には寝かせる場所がなく、処置を待つ人もいた。それでも、春子まで急いで外へ出さなければならないことに、私は頷けなかった。
道を進むと、風の中に腐った匂いがあった。
以前、佳代と運んだ人を思い出した。あのとき私は吐いてしまい、名前も知らないまま壕へ戻った。
今日は、誰を運んでいるのか知っていた。
担架の布が軋む音を聞きながら歩いた。石を踏むたびに身体が揺れ、そのたびに私は、春子が痛がるのではないかと顔の方を見た。
布の下は動かなかった。
*
掘られた窪みのそばで、先生が私たちを止めた。
暗くて底までは見えなかった。足元には踏み固められた土と、掘り返したばかりの土が混じっていた。担架が下ろされ、運んできた人たちが春子の身体を支えた。
私も手伝おうとしたが、先生が腕へ触れた。
「ここにいて」
文子が私の袖を掴んでいた。千代は担架を見たまま、両手を握っていた。
布に包まれた身体が窪みへ移された。
最初の土が落ちたとき、私は一歩前へ出た。千代が腕を掴み、私はその場へ戻った。白いところが少しずつ見えなくなった。誰かが足元を確かめ、もう一度土を寄せた。
目を閉じられなかった。
閉じている間に終わってしまったら、春子がどこへ行ったのか分からなくなる気がした。
先生が手を合わせた。私たちも真似をしたが、指が揃わなかった。爪の間には、まだ春子の血が残っていた。
*
戻る道で砲声がした。
前を歩く人が伏せ、私たちも地面へ身体を寄せた。頬へ草が当たり、文子の息がすぐ隣で聞こえた。
私は後ろを見た。
春子を置いてきた場所は、暗くて見えなかった。さっきまでそこにいたのに、伏せた高さからは道の形も違って見えた。
もう一度来られるだろうか。
次の音が響くと、私は頭を抱えた。春子を心配するより先に、自分の身体が小さくなった。
立ち上がったあと、千代が私の袖についた土を払った。私も文子の背中へ手を当てた。三人で互いの身体を確かめ、それから壕へ戻った。
*
春子の荷物は、壁際に残っていた。
清美が包みを膝へ載せていた。額の布には血が滲み、伸ばした足の片方にも包帯が巻かれていた。
「これ、どこに置けばいいかな」
誰もすぐには答えられなかった。
「私の隣、空いてるから」
清美は自分の荷物の横へ置いた。紐の端がほどけかけていたので結び直し、二度、結び目を引いた。
先生がそばへ座り、春子の家族について尋ねた。
私はそこから少し離れた。文子と千代もついてきた。寝る場所へ戻っても横になれず、三人で壁際へ膝を寄せた。
文子が私の手を見た。
「洗おう」
私は首を振りかけ、途中で止めた。
文子が布を湿らせ、指を一本ずつ拭いた。乾いた血が細かく剥がれ、布へ移った。
「春子のこと、分からなかったんだよね」
千代が尋ねた。
私は頷いた。
「誰が、いつっていうのは、知らない。でも、ご飯を運ぶときに死んだ子がいたのは読んでた」
文子の手が止まった。
「知ってたのに、今日は送り出した」
春子が入口へ歩いていく姿を思い出した。あとで針を貸すつもりで、私は患者さんの方へ向き直った。
「止めなかった」
「私たちだって、外は危ないって分かってたよ」
千代の声も震えていた。
「でも、行かないと、ご飯が来ない」
私は返事ができなかった。
春子を当番から外しても、誰かが代わりに出なければならなかった。私が行けばよかったと思った。けれど、倒れていた場所へ自分を置いて考えると、怖くて息が詰まった。
*
「これから、もっと悪くなるんでしょう」
文子が言った。
「前に言ってた、南へ移るっていうの」
私は頷いた。
春子の顔が浮かんでいるのに、その向こうから、現代で見た地図が戻ってきた。
首里。南部への撤退。摩文仁。
画面の中では、矢印が島の下へ伸びていた。私はそれを見て、日本軍が後退したのだと覚えた。矢印の先には海があり、その狭い場所へ兵隊も住民も追い込まれた。
「首里から、軍が南へ下がる。たしか、五月の終わりごろ」
声を落とした。
「病院も?」
「移ったって読んだ。私たちも、そうなるかもしれない」
文子は通路を見た。担架が入ってきて、近くに寝ていた人が身体をずらした。
「南へ行ったら、安全なの?」
私は首を振った。
「米軍も迫ってくる。空からも、海からも撃たれて、もっと南まで」
「どこまで」
千代に尋ねられ、私は唇を湿らせた。
「摩文仁」
口に出すと、その地名が急に近づいた。
現代の写真には、整えられた道と、石に刻まれた名前があった。明るい空の下に海が広がり、人が歩いていた。
その場所へ辿り着くまでに、何があったのか。
私は読んだはずだった。けれど今は、春子一人が亡くなっただけで、その先を考えられなかった。
*
「歩けない人は、どうするの」
文子が尋ねた。
私は奥の枝道を見た。
村田さんの寝床は、ここから見えなかった。けれど曲がり角も、壁際の木箱も覚えていた。そこへ行けば、学生さんと呼んでくれる。
「全員は、連れていけなかったって」
「残すの?」
千代の声に、私は頷いた。
まだ話していないことがあった。言えば、二人も器を持つたびに考えるようになるかもしれなかった。それでも、知らないままその日を迎えさせたくなかった。
「残る人に、青酸カリを渡した話がある。ミルクに混ぜて飲ませた、という証言も読んだ」
文子の手から布が滑った。
「誰が、飲ませるの」
「学徒にさせた話もあった」
千代が通路へ目を向けた。
軍靴の足音が近づき、三人とも黙った。兵隊さんは私たちを見て、そのまま通り過ぎた。足音が遠ざかっても、すぐには続きを話せなかった。
「私たちにも、言われるの?」
「分からない。ここで同じことが起こるかは、分からない」
私は急いで答えた。
それでも、ミルクを入れた器を持つ自分の手が浮かんでいた。これまで何度も患者さんの身体を起こし、器を口元へ運んだ。その同じ手で、今度は死なせるものを渡す。
中身を知っていても、命令されたら持っていくのだろうか。
私に、できるだろうか。
胃の奥が縮んだ。できない。絶対に嫌だと思った。それなのに、軍医の前で拒む自分を想像すると、何と言えばいいか分からなくなった。
「私は飲ませたくない」
文子が言った。
「患者さんに、そんなもの」
「私も」
答えた声は弱かった。
千代が両手を組んだ。
「断ったら、別の子にやらせるのかな」
誰も答えなかった。
私が器を持たなければ、それで患者さんが助かるのか。置いていかれることまで止められるのか。私たちは、その先を一つも知らなかった。
*
「もう一つ、覚えてることがある」
私は二人を見た。
「六月十八日。ひめゆりの人たちに、解散命令が出る」
「解散?」
文子が聞き返した。
「看護の仕事が終わるってこと?」
「うん。でも、戦争が終わるんじゃない」
解散と聞けば、学校で集まりが終わったときを思う。荷物を持ち、友達と道を歩き、それぞれの家へ帰る。
その帰る道が、なかった。
「米軍に囲まれているところで、自分たちで逃げなきゃいけなくなる。安全な場所へ連れていってもらえるわけじゃない」
千代は私を見つめていた。
「ひめゆりの動員された生徒と先生で、亡くなったのは百三十六人。そのうち百十七人が、解散命令のあとに亡くなるか、行方が分からなくなったって」
数字を、覚えていた。
記録を読んだときには、解散後の犠牲が多かったという意味で頭へ入れた。今は百十七という数を口にするだけで、春子の顔が浮かんだ。
返事を待つ時間が、一人ずつにあったのだろうか。
その人の荷物を、隣へ置いた友達がいたのだろうか。
「仕事が終われば、帰れると思ってた」
文子が呟いた。
私は何も言えなかった。
*
「壕に残っていた人たちも、攻撃された」
私は続けた。
「ひめゆりの塔があるところに、第三外科の壕があって……解散命令の翌朝、米軍の攻撃でたくさん亡くなった。ガス弾、黄リン弾って書いてあった」
文子の目が入口へ向いた。
「ここみたいなところに?」
「うん」
外へ出れば砲弾が飛んでくる。中へ入れば助かると思っていたのに、入口から攻撃されれば逃げる場所がなくなる。
私は天井を見た。
岩と土に囲まれ、出口は限られていた。患者さんの寝床を跨がなければ、入口へさえ辿り着けなかった。
「降伏しろって、呼ばれることもあるんでしょう」
千代が尋ねた。
「そういう話は読んだ」
「じゃあ、出れば……」
千代はそこで口を閉じた。
「出て、助かった人もいる。でも、呼ばれたら出られるって、それだけじゃなかった」
文子が私の方を向いた。
「捕まったらひどいことをされるって、ずっと教えられていた人もいた。日本兵に知られるのが怖くて、投降することを言えなかった人の話もあった」
同じ軍服を着た人たちの顔が浮かんだ。
怪我をした私たちを支えてくれる人もいた。けれど、仕事が遅ければ怒鳴る人も、砲声のする外へ行くよう命じる人もいた。
誰の前なら、もう働けないと言えるのか。
どの人に、米軍のところへ行きたいと話せるのか。
私には分からなかった。
「動けない人もいる」
文子が言った。
私は頷いた。
春子を入口まで運ぶだけでも、何度も足を止めた。担架を持ち、傷を押さえ、道を空けてもらわなければならなかった。投降したいと思っても、自分では立ち上がれない人がいた。
「調べてたとき、どうして逃げなかったんだろうって思ったことがある」
声が小さくなった。
「どうして、出ていかなかったんだろうって」
二人は黙っていた。
私は入口へ続く通路を見た。外の様子も知らず、水も食べ物もなく、友達と患者さんを残して歩き出す。その決断を、私は今日もできなかった。
*
「じゃあ、南へ行かない方がいい」
千代が言った。
「別の方へ行けば」
「私も、そう思ってる。でも、どう行けばいいか分からない。どの道が通れるのか、どこに兵隊がいるのか」
荷物を運んだ日の分かれ道を思い出した。昨日通れた場所が、今日は使えなくなると野原さんは言っていた。
未来の記録には、生き残った人の名前があった。
けれど、その人が助かるまでに選んだ道を、私は覚えていなかった。いつ壕を出て、どちらへ走ればいいのか。目の前の兵隊さんに何と言えばいいのか。
知っているのは、これから犠牲が増えることだった。
「村田さん、まだ歩けない」
私が言うと、文子が目を伏せた。
千代は枝道の方を見た。
「今から、誰が歩けるか確かめよう。動くって決まってからじゃ、間に合わないかもしれない」
私は頷いた。
何かを始めなければ、残す人を決められるところまで、ただ待つことになってしまう。
文子が落ちた布を拾った。
「南へ行く話が出たら、教えて。分かることだけでいいから、黙ってないで」
「一人で決めて、いなくならないでね」
千代も言った。
私は二人の顔を見た。
「うん」
通路の奥から、水を求める声がした。三人とも顔を上げ、少し待ってから立ち上がった。
千代が先に歩き、文子が私の隣へ並んだ。
途中で春子の荷物が見えた。清美の包みの隣に置かれ、誰も開けていなかった。
次に移るとき、あれを誰が持つのだろう。
そう考えてから、移動する日の列には、もう春子がいないのだと分かった。
私は文子の袖へ触れた。文子が振り向き、私の手を取った。前を歩いていた千代も足を止めた。
何も言わず、三人で少しの間そうしていた。
もう一度呼ぶ声がして、私たちは手を離した。




