第62話 返事
春子の息は、続いていた。
胸元が持ち上がるたびに、私は握っている手へ力を込めた。呼吸が浅いから、見逃してしまうのだと思った。目を離さずにいれば、その次も確かめられるはずだった。
軍医が傷の上の布を見ていた。高橋さんが何かを伝え、また布を当て直した。その手元へ灯りが寄せられると、春子の頬にも光が当たった。
「春子、聞こえる?」
瞼は動かなかった。
私は顔を近づけた。唇の端に残っていた砂が気になり、空いている手で払おうとしたが、指には血がついていた。触れる直前で止め、高橋さんを見た。
「顔、拭いてもいいですか」
高橋さんはそばの布を取り、私へ渡した。
「口の周りだけ、そっとね」
布のきれいなところを探し、唇の端へ当てた。砂は少し取れたが、乾いた血は落ちなかった。
春子の唇が動いた。
私は布を離した。
「何? 春子」
耳を近づけると、息が頬へ触れた。言葉は聞こえなかった。それでも何か言おうとしているように見え、私は待った。
「清美もいるよ。文子も」
文子がそばへ膝をついた。
「春子、私。聞こえる?」
春子の目が少し開いた。視線は私たちの顔の間を通り、奥へ向いていた。
文子が身を屈めた。
「こっちだよ」
私は握った手を持ち上げかけた。指が私の掌からずれ、その軽さに驚いて、両手で包み直した。
*
清美が先生に支えられて近づいてきた。
額の布には血が滲んでいた。片足を引き寄せて座ると、痛みに口を歪めたが、そのまま春子の顔を覗いた。
「春子、鍋、あとで取りに行くから」
私は清美を見た。
「今はいいって。ちゃんと片づけるから」
清美は春子の方だけを見ていた。
春子の目が、わずかに動いた。
「ほら、聞こえてる」
清美が言った。
私も頷いた。清美の声が分かったのだと思いたかった。
軍医がもう一度、春子の手首を取った。私はその手を渡し、代わりに肩のそばへ指を添えた。
朝、春子が私の袖を引いた場所に、自分の腕があった。
ここを掴んでくれたらいいと思った。指が動くところまで腕を近づけ、春子の顔を見ていた。
軍医が高橋さんへ何かを言った。
高橋さんの手が止まった。
私はすぐにそちらを見た。
「どうしたんですか」
返事より先に、春子の胸元が動いた。私は顔を戻した。
「まだ、息してます」
高橋さんが私の横へ来た。
「うん」
その返事が小さかったので、私はもう一度言った。
「今、動いたんです」
高橋さんは春子の顔へ近づき、しばらく見ていた。軍医もそばに残っていた。
私は次の呼吸を待った。
奥で誰かが咳をしていた。入口の方から声がし、器の触れ合う音が聞こえた。いつもと同じ音が続いているのに、春子の胸元だけが動かなかった。
長く待ちすぎた気がした。
「春子」
肩に触れた。
「春子、息して」
高橋さんの手が、私の腕へ添えられた。
私はその手を避け、春子の顔へ近づいた。さっきは頬へ息が触れた。同じ場所まで寄れば、また分かると思った。
何も感じなかった。
「先生」
私は軍医を見た。
「もう一回、見てください」
軍医は春子の胸元と顔を確かめ、手首へ指を置いた。私はその指を見ていた。何か見つけたように動くのを待った。
やがて軍医は、春子の腕を静かに下ろした。
「亡くなった」
私は春子へ顔を戻した。
聞いた言葉を、目の前の顔へ結びつけられなかった。
「でも、さっき」
声が途切れた。
「さっき、話してたんです」
軍医は黙っていた。
高橋さんが私の肩を支えた。
「寺田さん」
「私の名前、呼んだんです」
私は春子の手を握った。まだ柔らかく、指も曲がった。これまで運んだ人たちと同じように、布を掛けてしまっていい身体には思えなかった。
「春子、ねえ」
手を引いた。
腕が少し動き、担架の上へ戻った。春子自身は動かなかった。
*
清美が、春子の名前を呼び始めた。
初めはいつもの呼び方だった。返事を待ち、少し強く呼び、それでも目が開かないと、声を上げた。
「春子、起きてよ」
島袋先生が清美の背中へ手を当てた。
清美はその手を振り払おうとし、怪我をした腕が痛んだのか、身体を折った。それでも顔を上げ、春子を呼んだ。
「私、ここにいるって言ったじゃん」
文子が口元を押さえた。
私には、清美の言葉が聞こえていた。先生が何か言っているのも分かった。けれど返事をすることも、そちらを見ることもできなかった。
春子の手を持っていた。
血で濡れたところが乾き始め、私の指と貼りついていた。握り直すと皮膚が引かれ、その小さな痛みだけがはっきりした。
高橋さんが春子の上着を整えた。切られた布を寄せ、露出していたところへ別の布を掛けた。
私はその手を目で追った。
もう傷を見ないのか。
もう血を止めなくていいのか。
尋ねようとしたが、口を開くと息ばかりが出た。
*
千代が来た。
文子のそばへしゃがみ、担架の上を見た。目が春子の顔から足元へ動き、それから私の手元で止まった。
「理恵」
私は顔を上げた。
千代は何か言おうとして、唇を閉じた。もう一度春子を見たあと、私の背中へ手を当てた。
その手に触れられた途端、私は息を吸えなくなった。
喉が締まり、肩ばかりが上がった。胸を押さえても治まらず、春子の手を離したくないまま、身体が前へ折れた。
「理恵、こっち向いて」
千代が私を支えた。
私は首を振った。
清美がまだ呼んでいた。文子の泣く声も聞こえた。私も春子を呼びたいのに、声が出なかった。
ようやく吸えた息が、喉で震えた。
「朝……」
千代の袖を掴んだ。
「朝、話したのに」
千代は頷いた。
「針、貸してって」
そこで声が崩れた。
私は春子の手を握ったまま泣いた。顔を伏せても春子の腕が目に入り、上を向くと顔が見えた。どちらを向いても、返事をしてくれない春子がいた。
*
通路へ新しい担架が運び込まれた。
先頭の兵隊さんが立ち止まり、空いている場所を探した。看護婦さんが奥へ声をかけ、寝床を詰めるよう言った。
高橋さんが私たちのそばへ戻った。
「宮里さんを、壁際へ移すね」
私は顔を上げた。
春子の担架は、処置をする場所に置かれていた。その横へ、また別の怪我をした人が運ばれてきていた。
分かっていた。
それでも、高橋さんが担架へ手をかけると、私は春子の手を握ったままついていこうとした。
「寺田さん、一度、手を離して」
私は首を振った。
高橋さんは急がず、私の指へ手を添えた。
「移したら、またそばにいられるから」
千代も頷いた。
「一緒に行こう」
私は春子の指から、自分の指を外した。乾きかけた血で貼りついていて、ゆっくり離さなければならなかった。
手を離すと、春子の腕は担架の上に残った。
私が持っていなくても、その姿勢のままだった。
*
壁際へ移されてから、私はまた春子のそばへ座った。
足元の毛布は、文子が掛けたものだった。端がずれていたので直した。春子の頬についた土を、高橋さんにもらった布で拭いた。
耳のそばまで続いていた汚れが、少しずつ取れた。
拭き終わると、見慣れた顔に近づいた。そのことが苦しくて、私は布を膝へ置いた。
美咲が水を持ってきた。
「理恵、手」
私の指を見て言った。
血が爪の縁まで入り込み、手首にも乾いた筋ができていた。水を使わなければ落ちないのに、私は掌を開いたまま動けなかった。
「あとで」
美咲は器をそばへ置いた。
清美は先生に傷を見てもらうため、少し離れた場所へ連れていかれた。春子の顔が見える向きに座らせてもらい、そこからずっとこちらを見ていた。
文子と千代は私の隣にいた。
誰かが通るたび、私たちは膝を引いた。奥から学生さんと呼ばれ、美咲が顔を上げた。少し迷ってから立ち上がり、また戻ると言って通路へ出た。
私は春子の手に触れた。
さっきより冷えていた。
毛布をもう少し上まで掛けようとして、その手が止まった。温めれば目を開けるわけではないと、分かってしまった。
朝の約束を思い出した。
私の荷物には針があった。糸も、少し残っていた。頼まれたことはまだできるのに、春子はもう、縫い終わるのを待っていてくれなかった。




