第61話 こぼれた米
春子は、私の横を通るときに袖を引いた。
「今日、戻ったら針貸して」
私は患者さんの枕元へ器を置こうとしていた。振り向くと、春子は腰に結んだ紐のあたりを指していた。もんぺの縫い目が少し開き、下に着たものが見えていた。
「引っかけたの?」
「昨日、薪を持ったとき。広がる前に縫っとこうと思って」
「私の荷物にあるよ」
「じゃあ、あとで」
春子は言って、清美の待つ入口へ向かった。
私は器を置き、患者さんの背中へ手を入れた。起こしてほしいと言われていた。湿った上着の下に指を差し込むと、その人は痛みに顔をしかめた。
どこを支えれば楽なのか尋ねているうちに、春子たちの足音は聞こえなくなった。
*
その日の砲声は、朝から途切れがちに続いていた。
遠くで鳴り、しばらく静かになる。忘れかけたころ、また低い音が壕の底から響いた。音の大きさだけでは、近いのか遠いのか分からない。
天井から細かな土が落ちるたび、患者さんの顔へ布をかけた。美咲と洗った布を絞っていたとき、棚の上で器が鳴った。
甲高い音がして、器が少し跳ねた。
二人とも手を止めた。次の瞬間、足元が突き上げられた。桶の水が波打ち、冷たい水が私の手首へかかった。壁の土がぱらぱらと落ち、通路の奥で短い悲鳴が上がった。
私は桶の縁を掴んだまま、息を止めていた。
音が消えたあとも、耳の奥では高い音が鳴り続けていた。
「入口の方、見てくる」
美咲が立ち上がった。
そのとき、入口から兵隊さんが駆け込んできた。肩で息をし、顔に土をつけていた。
「担架を出せ。炊飯場でやられた」
私は桶から手を抜いた。
「学生は」
「負傷してる。早くしろ」
「春子は? 清美は?」
兵隊さんはもう担架の方へ顔を向けていた。私はその袖へ手を伸ばしかけた。誰が、どこを怪我したのか。歩けるのか。名前を言ってほしかった。
高橋さんが私の肩に触れた。
「寺田さん、入口の担架を。具志堅さんと持ってきて」
信子と二人で担架を下ろした。畳まれた布を広げようとしたが、指が留め具に引っかかり、動かし方が分からなくなった。
「理恵、こっち」
信子が留め具を外した。
私は差し出された持ち手を握った。掌が濡れていて、木が滑った。高橋さんが布と器具を入れた包みを持ち、私たちは兵隊さんの後を追った。
*
壕を出た途端、焦げた匂いが喉へ入った。
斜面の向こうに土煙が残り、細かな砂が風に流れていた。道を曲がる手前で兵隊さんが手を上げた。
「伏せろ」
私たちは岩の陰へ身を寄せた。
遠くで、また砲声がした。音が近づいてくるように感じ、私は担架の持ち手を握り直した。指先の感覚が薄くなり、息が胸の上で止まった。
「まだ出ない」
高橋さんに肩を押し戻された。
春子たちは、この先にいる。ここで待っている間にも血が出ているかもしれない。私は岩の向こうを覗こうとして、もう一度肩を押さえられた。
兵隊さんが先を確かめ、手で合図した。
低い姿勢で進むと、炊飯場の石が崩れていた。
鍋は横倒しになり、煤のついた底をこちらへ向けていた。土の上にはご飯が広がっていた。白い米粒の間から、まだ細い湯気が立っている。折れた薪の隙間にも米が入り込み、その上へ土が落ちていた。
清美が地面に座っていた。
額から血が流れ、片目が塞がっていた。私は担架を持ったまま足を速めた。
「清美! 春子は?」
清美は私を見た。口が動いたが、すぐには声にならなかった。胸に抱えていた腕を少し伸ばし、鍋の向こうを指した。
「春子……」
その先に、見覚えのあるもんぺが見えた。
春子が横向きに倒れていた。
腰の下の土が赤黒く濡れている。その色を見た途端、私は担架の持ち手を離しかけた。信子に呼ばれ、二人で下ろしたが、地面へ着くのを待ちきれずに手を放した。
「春子!」
膝をついた。石が当たった痛みも分からなかった。春子の顔へ手を伸ばし、頬についた土を指で払った。
「春子、起きて。ねえ、春子!」
目が閉じていた。
朝、私の袖を引いた顔だった。煤のついた袖も、縫い目の開いたもんぺも、そのままだった。それなのに呼んでも返事がなく、顔を覗き込むほど、唇の白さが見えた。
肩を掴んで起こそうとした私の手を、高橋さんが止めた。
「動かさないで。傷を見せて」
「返事しないんです、春子が」
自分の声が大きくなっていた。高橋さんの腕へ縋りそうになり、私は春子の顔へ戻った。
「春子、聞こえる? 私だよ。理恵だよ」
唇の間に砂が入っていた。そこが小さく動き、息が漏れた。
「息してる……高橋さん、息してます」
「うん。顔のそばにいて。具志堅さん、布を出して」
私は何度も頷いた。まだ生きている。目を開ければ、私のことが分かるはずだった。
高橋さんが上着を動かした途端、傷の下から血が流れた。
脇腹に深い傷があった。裂けた縁に土と布の切れ端が貼りつき、奥の濡れた赤いところが見えた。布を押し当てると、血が染み抜け、高橋さんの指の間へ広がった。
「血が、止まらない」
私は布へ手を伸ばした。何かで塞がなければと思ったが、どこへ触れていいか分からなかった。
「寺田さん、こっちを見て。宮里さんに声をかけて」
高橋さんに言われ、私は春子の顔へ戻った。
春子の身体が強張り、瞼が震えた。
「痛いね。今、壕へ運ぶから」
高橋さんの声に、春子は息を吸おうとした。喉の奥から擦れた音が漏れた。
「春子、迎えに来たよ。病院に戻ろう」
その目が薄く開いた。
私は顔を近づけた。視線がゆっくり動き、私のところで止まった。
「そう、私。分かる?」
春子の唇が動いた。私は続きを聞こうとしたが、声になる前に顔が歪んだ。
*
担架へ移すため、高橋さんが指示を出した。
「頭を支えて。傷を押さえたまま、せーの」
春子の身体が持ち上がった。
その瞬間、春子が声を上げた。短い声が喉で途切れ、指が宙を探った。
私はその手を取った。
血で滑った。春子は掴み直そうとしたが、担架を持つため、私はその手を戻さなければならなかった。
「離すけど、すぐそばにいるから。運ぶだけだからね」
指を外すのが怖かった。春子はまだ私の袖を掴もうとしていた。私はその腕を担架の上へ置き、持ち手へ回った。
私と兵隊さんで担架を持った。高橋さんは傷へ布を当てたまま横につき、信子は清美のそばへ残った。
清美が立とうとしたが、片足へ体重をかけた途端に崩れた。
「すぐ迎えを寄越す。ここで待っていて」
高橋さんが言った。
信子が清美の肩を抱き、頷いた。
私は担架を持ち上げた。春子の身体が布の中央へ沈み、持ち手が腕を下へ引いた。
「歩くよ」
前を持つ兵隊さんが言った。
道には石があった。跨ぐと持ち手が上下し、避けると担架が傾いた。後ろで春子が呻くたび、私は振り返ろうとして足を乱した。
「前を見て。転んだら、この子も落ちる」
私は顔を戻した。
腕が震えていた。持ち手が掌へ食い込み、汗と血で滑る。落とすまいと指を締め、前を歩く兵隊さんの足へ歩調を合わせた。
高橋さんの手から血が落ちた。道に小さな黒い点が残り、私たちはその上を通った。
「春子、もう少しだから」
後ろへ声をかけた。
返事はなかった。私は歩きながら、同じ言葉をもう一度言った。
*
入口で文子が春子の名前を呼んだ。
担架の上の顔を見た文子が、こちらへ駆け寄ろうとした。島袋先生が肩を支え、先に通路を空けるよう言った。
「そこ、空けて!」
文子の声に、寝ていた人が足を引き、器が動かされた。
私は担架を下ろすところまで、持ち手を離せなかった。
「寺田さん、もういい」
高橋さんに言われても、指が曲がったまま戻らなかった。ようやく手を離すと、すぐに春子の顔へ近づいた。
「春子、着いたよ」
目は閉じていた。私は高橋さんを振り返った。
「さっき、目、開けたんです。私の方を見て……」
「うん。先生が来るから、少し空けてね」
軍医が春子の顔と傷を確かめた。押さえていた布の端を持ち上げると、溜まっていた血が担架へ流れた。
「いつやられた」
「炊飯場です。連絡が来て、すぐに運びました」
短い指示が続き、看護婦さんが器具を運んだ。
「寺田さん、布を持ってきて」
私は棚へ走りかけ、通路の人を避けた。いつも使っている場所なのに布が見つからず、汚れたものへ手を伸ばして引っ込めた。
美咲が畳んだ布を私の腕へ載せた。
「これ。私も行く」
戻ると、春子の上着が切り開かれていた。腰紐も緩められ、もんぺの上端が下げられていた。
今朝、縫いたいと言っていたところが見えた。
開いた縫い目の下まで血が染み込み、布の色が変わっていた。
*
軍医の手が動くと、春子の肩が強張った。
私は顔のそばへ膝をついた。目が薄く開いたので、名前を呼んだ。
「ここにいるよ」
春子の視線が一度外れ、それから戻った。
「……いたい」
はっきり聞こえた。
私は高橋さんを振り返った。
「春子が、痛いって」
「聞こえてるよ。寺田さんは、声をかけていて」
高橋さんの手は止まらなかった。
春子の指が担架の縁を探っていた。私はその手を取り、両手で包んだ。指に巻いていた小さな布にも血がついていた。
「清美も、あとから来るから」
傷の方で布が動かされ、春子が私の手を強く握った。息と一緒に声が漏れた。私は手を離さず、顔だけを見ていた。
「理恵……」
「うん。いるよ」
呼ばれるたびに返事をした。何をしてほしいのか言えなくても、返事だけは聞いてもらいたかった。
*
清美が戻ってきたのは、処置が続いている間だった。
信子と兵隊さんに支えられ、額に布を当てていた。島袋先生が壁際へ座らせようとすると、清美は春子の方へ身体を向けた。
「春子、私も戻ったよ」
春子の瞼が動いた。
「清美、ここにいる」
私は握っていた手へ少し力を入れた。
春子の口元が動いたが、返事は聞こえなかった。
美咲が新しい布を渡していた。持ってきた布の山は減り、使い終えたものが足元に溜まっていた。どれも赤く濡れ、重なったところから血が床へ滲んでいた。
春子の口の周りが白っぽくなっていた。握っていた手も、外で触れたときより冷たく感じた。
文子が毛布を持ってきた。高橋さんへ尋ねてから足元に掛け、春子の顔を見つめたまま、そこへ残った。
軍医が春子の手首へ指を当てた。
「先生、助かりますよね」
私はその顔を見た。
「さっき、話したんです。私の名前も呼んで……」
軍医は看護婦さんへ指示を出し、もう一度春子の顔へ近づいた。
答えを待っていたが、誰も大丈夫とは言わなかった。
私は春子の口元へ目を戻した。息をするたびに少し開き、胸元も浅く持ち上がっていた。まだ生きている。ここへ運べた。先生にも診てもらっている。
入口から別の負傷者を運び込む声が聞こえた。
高橋さんが振り返り、もう一人の看護婦さんを呼んだ。文子が通路を空けるため壁へ寄った。
私は春子のそばに残った。
軍医が手首を下ろすと、またその手を取った。今度は握り返してこなかった。
「春子、針、出しておくから」
声にすると、喉が詰まった。
「縫おう。私も手伝うから」
朝、あとでと言ったときには、夜になればできることだった。荷物から針を出し、糸を通して、二人で布を寄せれば済むはずだった。
私は春子の指へ自分の指を添えた。
胸元が浅く持ち上がり、下がった。
「春子」
次の息を待ちながら呼んだ。もう一度、私の名前を呼んでほしかった。




