第60話 空いた場所
四月の終わりが近づくころ、私たちの寝る場所は、また狭くなった。
奥へ運び込まれた患者さんのために、荷物を寄せるよう言われた。壁際に並べていた包みを積み直し、横になる場所を入口に近い通路へ移した。これまで三人で使っていた幅に四人が入ることになり、足を伸ばすと、向かいに寝ている子の膝へ触れた。
それでも、眠れるときには眠った。誰かが通るたびに起き上がっていたのが、やがて足だけ引き、身体を壁へ押しつけるようになった。
美咲が私の肩を揺すったときも、私はすぐには目を開けられなかった。
「理恵、当番」
返事をしたつもりだったが、声にならなかった。もう一度揺すられ、ようやく身体を起こすと、喉の奥から酸っぱいものが上がってきた。飲み込み、壁に手をついて立った。
美咲が私の顔を見ていた。
「歩ける?」
「うん」
上着の前を直しながら、私は自分の返事が千代と同じになっていることに気づいた。
*
通路の奥で、夏子が患者さんの胸元を拭いていた。
襟を緩め、布を差し入れる手つきは、学校で歌いながら髪を結んでいたときとは違っていた。指が止まると、患者さんの顔を見て、痛みがないか確かめている。
私は隣へしゃがみ、汚れた布を受け取った。
寝かされていたのは、痩せた兵隊さんだった。頬に薄い髭が伸び、顎の下には汗と垢が溜まっていた。脇へ布を入れると、皮膚の擦れたところが赤く湿っていた。
「少し、腕を上げますね」
夏子が声をかけた。
その人は頷き、自分でも動かそうとしたが、肘が少し浮いただけだった。私が下から支えると、夏子は湿った布をゆっくり通した。
「学生さん」
兵隊さんが言った。
「昨日、歌ってたのは、あんたか」
夏子の手が止まった。
「歌っていません」
「そうか」
その人は目を閉じた。
「聞こえた気がしたんだがな」
夏子は私を見た。何も言わずに布を折り返し、まだ拭いていないところを探した。
近くで佳代が器を片づけていた。いつもなら夏子の言葉へすぐに返事をする佳代も、そのときは黙っていた。
私は支えていた腕を静かに下ろした。兵隊さんの指が、毛布の縁を探り、見つけると弱く握った。
*
春子は、あの日以来、外へ出る前に清美の足を確かめるようになった。
清美はもういいよと言いながらも、履物を履く前に少しだけ踵を見せた。傷の周りには新しい皮ができ始めていたが、真ん中はまだ赤かった。
「今日は、きつく結ばないで」
「分かってる」
春子が立ち上がると、清美は今度はその手を見た。
「そっちも」
春子は掌を開いた。割れていたところには小さな布が巻かれていた。高橋さんに見てもらい、前より指を曲げやすくなったという。
私は二人のそばで、空の器を重ねていた。
「今日、私も運ぶのに入る」
言うと、春子が顔を上げた。
「外?」
「うん。静子と交代」
静子は肩を痛めていた。荷物を持ち上げるときに顔をしかめ、高橋さんから、今日は重いものを持たないよう言われていた。
春子は少し考え、それから私の履物を指した。
「紐、結び直して。ほどけかけてる」
私は器を置き、足元へ屈んだ。
*
外の炊飯場は、斜面の陰にあった。
地面へ置いた石の間に薪が入り、その上に鍋が載っていた。煙は低く流れ、風が変わると私たちの顔へまともにかかった。目が痛くなって擦ろうとしたところで、春子に手を止められた。
「その手、煤ついてる」
私は袖の内側で目元を押さえた。
清美が火を見ている間、私と春子は水を運んだ。道は短かったが、足元には折れた枝や石があり、桶を揺らさずに歩くには、何度も歩幅を変えなければならなかった。
鍋へ水を入れ終えると、春子は桶の底まで確かめた。
「もう一回、行ける?」
私は頷いた。
空の桶を持って歩き出したとき、斜面の向こうで砲声がした。私たちは足を止め、しばらく待った。続く音が遠かったので、春子が先へ進んだ。
「近かったら、桶は置いてね」
「うん」
「水が入ってても」
私は春子の背中を見た。
いつもなら、その言葉に安心できたと思う。けれど、今朝も患者さんに渡す水が足りず、器の底に残った一口を分けていた。置いて逃げていいと言われても、実際にその場になれば、私は持とうとしてしまうかもしれなかった。
*
ご飯が炊けるまで、私たちは岩の陰へ座った。
清美は火のそばへ残り、ときどき蓋の隙間を見ていた。春子は手についた煤を払ってから、膝の上へ掌を置いた。
外にいると、壕の中とは違う匂いがした。焦げた木と土、炊けていく米の匂い。その向こうに、風向きによっては腐ったものの匂いが混じった。
春子が鼻を押さえかけ、手を下ろした。
「ここで炊くのも、いつまでかな」
「変わるの?」
「分からない。さっき兵隊さんが、こっちの道も危なくなってきたって」
私は斜面の上を見た。木の間から空が少し見えていたが、道の向こう側は分からなかった。
「もう少し近いところで炊けないのかな」
「煙が出るからね」
春子は鍋の方を見た。
「中では、この火、使えないし」
私は膝を抱え直した。おばちゃんの店では、火をつければ鍋を置けた。水を汲むことも、ご飯を炊くことも、食べ終えた器を洗うことも、一つの家の中でできた。
そのことが、今はひどく遠かった。
「帰ったら、店をやりたいって言ってたよね」
私が尋ねると、春子は顔を向けた。
「覚えてたの」
「覚えてるよ」
春子は少し笑い、煤の残った指で膝を撫でた。
「ご飯だけは、足りなくしたくない」
清美が鍋の向こうから顔を上げた。
「それなら、私も食べに行く」
「手伝いに来てよ」
「働くの?」
「今だって、一緒に炊いてるでしょ」
清美は笑い、また火の方へ屈んだ。
私は二人の声を聞きながら、鍋から漏れる湯気を見ていた。
*
壕へ戻る途中、私たちは道を空けるよう言われた。
前から担架が来ていた。私と春子は鍋を持ったまま岩陰へ寄り、清美が蓋を押さえた。
一つ目の担架が通った。乗せられた人の顔には布が掛けられていたが、胸元までで、身体は全部隠れていなかった。上着の下から出た腕が担架の端に当たり、運ばれるたびに小さく揺れた。
二つ目には、顔の見える人が乗っていた。
目を開け、空を見ていた。唇が動いていたが、声は聞こえなかった。腹に巻かれた布は暗い赤に染まり、持ち手を握っている人の服にも血がついていた。
すれ違う間、私は鍋を持ち直した。
患者さんを運ぶ人たちも、私たちも、狭い道を通るために互いの身体を避けた。担架が岩へ当たらないよう、その人たちは向きを変え、私たちは鍋を傾けないように腰を引いた。
誰も立ち止まれなかった。
*
戻ると、村田さんの寝床が空いていた。
私は鍋を渡し、すぐに奥へ入った。畳んだ布も、枕元に置いていた器もなくなっていた。代わりに、別の兵隊さんが運ばれてきて、そこへ寝かされた。
足が止まった。
高橋さんが毛布を広げていたので、私はそばへ近づいた。
「あの、村田さんは」
「別の場所へ移したの。こっちは処置が必要な人を入れるから」
「どこですか」
「奥の枝道を入ったところ。今は運ばれてきた方を手伝って」
私は頷き、新しい患者さんの足元へ回った。
履物を外そうとすると、紐が血と泥で固まっていた。指で解けず、高橋さんに切ってもらった。足首の布を動かすと、その人が呻き、私は手を止めた。
「支えるだけでいい。動かさないで」
言われたとおりに両手を添えた。
目の前の仕事が終わるまで、村田さんのところへは行けなかった。
*
奥の枝道は、それまで私が入ったことのない場所だった。
身体を横にしなければ通れないところを抜けると、床に人が並んでいた。灯りが少なく、入口側から顔を確かめていった。
村田さんを見つけ、私はそばへしゃがんだ。
「学生さん」
先に呼ばれた。
私は頷いたが、すぐには声が出なかった。ここへ移ったと聞く前に、空いた寝床を見て考えたことを、口にできなかった。
「外へ行ってたのか」
「ご飯を運んでました」
「そうか」
村田さんは私の袖を見た。煤がついていた。
「炊くのも大変だな」
私は頷き、枕元の器を確かめた。配給はまだ届いていなかった。
「持ってきます」
「慌てんでいい」
立ち上がろうとした私に、村田さんが言った。
「ここにいるから」
私はもう一度、その顔を見た。
頬は痩せ、唇は乾いていた。それでも、私の方を向いて目を開けていた。
「はい」
今度は声にできた。
通路へ戻ると、春子がご飯を分けていた。私は器を差し出し、村田さんの分だと伝えた。
春子は頷き、鍋の中から小さく寄せた。私はそれを受け取り、さっき通ってきた枝道へ戻った。
途中の曲がり角で、一度足を止めて後ろを見た。岩の形と、壁際に置かれた空の木箱を覚えた。
次に寝床が変わっても、探しに来られるように。




