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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第59話 帰ってこない当番



 別の壕へ荷物を届けてから、何日か経った。


 腕の痛みは引いたが、外で伏せたときに擦った膝は、もんぺの布が触れるたびにひりついた。着替えようとすると、傷から滲んだものが乾いて布に貼りついていた。少しずつ剥がしている私を見て、千代が水で湿らせるよう教えてくれた。


 千代はもう当番に戻っていた。それでも、立ち上がるときには一度、壁へ手をついた。


「また、お腹?」


「違う。急に立つと、くらっとするだけ」


 言ってから千代は私の顔を見て、分かった、と付け足した。


「ひどくなったら言う」


 私が何も言わないうちに返事をしたので、少し笑った。千代も口元を緩めたが、そのまましゃがみ、私のもんぺの膝を見た。


「そっちも、黙ってないでよ」


     *


 春子たちの炊飯の仕事は、壕の中でご飯を分けるだけではなかった。


 外へ出て火を使い、炊いたものを運んでくる。水や薪を用意し、鍋を洗い、食べる人数を確かめる。その間にも患者さんが増え、分け終えるころには足りなくなることがあった。


 清美の踵は、まだ治っていなかった。包んだ布を替えるとき、春子が片足を支え、眉を寄せて傷を見ていた。


「今日は私が多く持つから」


「それ、昨日も言った」


「昨日より足が痛そうだから言ってるの」


 清美は言い返さず、履物の紐を緩めた。


 私は患者さんの枕元に敷く布を抱えたまま、二人のそばへ立った。


「私、運ぶのだけなら代われるよ」


 春子は顔を上げた。


「当番、あるでしょ」


「終わったら」


「じゃあ、戻ってきたとき、入口で受け取って。中へ運ぶの、手伝ってくれると助かる」


 それならできると思い、私は頷いた。


 春子は立ち上がり、袖をまくった。手首の骨が以前より目立っていた。爪の横の傷には細いかさぶたができていたが、指を曲げると割れて、赤い線が見えた。


「戻ったら、そこも見てもらおう」


 私が手を指すと、春子は袖を少し下ろした。


「うん。戻ったらね」


     *


 その日の配給は遅れていた。


 初めは、火がつきにくいのかもしれないと思った。外で砲声が続いていたから、途中で伏せているのかもしれなかった。


 村田さんの身体を拭き、汚れた布を集め、別の患者さんの器を下げた。その仕事が終わっても、入口へ鍋は運ばれてこなかった。


「飯はまだか」


 通路の向こうで兵隊さんが尋ねた。


 誰かが、まだです、と答えた。しばらくして同じ声がもう一度聞こえ、今度は返事をする人がいなかった。


 私は高橋さんに、春子たちを迎えに行ってもいいか尋ねた。


「外へ?」


「入口までです。運ぶのを手伝う約束をしていて」


 高橋さんは奥の寝床を見てから頷いた。


「そこまでなら。出ていくときは、必ず言ってね」


 入口へ近づくにつれ、外の音がはっきりした。砲声の間に、土か石が落ちる細かな音が混じっていた。


 私は岩の陰へ寄り、外を見た。


 道には誰もいなかった。


     *


 清美が戻ってきたとき、最初に見えたのは鍋だった。


 蓋が斜めになり、その縁を清美が片手で押さえていた。もう一人、敏子が反対側の持ち手を握っていた。二人とも腰を曲げ、足元を見ながら入口へ向かっていた。


 私は駆け寄り、清美の側の持ち手へ手を伸ばした。


「代わる」


 清美は返事をせず、指を離した。


 重みが腕へ落ちた。敏子と歩幅を合わせて壕へ入ると、清美は入口の壁へ背中をつけ、そのまま座り込んだ。


「春子は?」


 尋ねた途端、清美が顔を上げた。


 唇の周りに土がついていた。いつもなら袖で拭くはずなのに、そのままだった。


「向こうにいる」


「あとから来る?」


 清美は頷きかけて、首を止めた。


「信子たちと……片づけてる」


 敏子が鍋を下ろし、蓋を直した。中のご飯は片側へ寄っていた。表面に細かな土が落ち、蓋の内側にも泥がついていた。


「途中で伏せたから」


 敏子が言った。


 私は清美の顔を見た。


「何かあったの?」


「砲弾が、近くに」


 清美はそこまで言い、息を吸った。喉の奥で引っかかるような音がした。


「春子は怪我してない。私、先にこれを持っていけって言われて」


 怪我していない。


 私はその言葉を確かめるように、もう一度清美を見た。清美は頷いたが、膝の上の手は震えていた。


     *


 鍋を奥へ運ぶと、待っていた人たちが集まってきた。


 和子が人数を確かめ、私と敏子でご飯を分けた。土のついたところを匙で避けると、残せる量がますます少なくなった。


「そんなに取ったら、なくなる」


 敏子が小さく言った。


 私は匙を止めた。


 鍋の中には、細かな黒い粒がまだ見えた。取り除こうとしても米に混じり、どこまでが汚れた部分なのか分からなかった。


 和子が清美を呼ぼうとして入口の方を見たが、すぐに自分で布を広げた。


「まず、分けよう」


 私は匙を鍋へ戻した。


 器を差し出した兵隊さんが、盛られた量を見た。


「これだけか」


「人数が増えていて……」


「増えたからって、これじゃ力が出んだろう」


 私は器を持ったまま俯いた。自分が炊いたわけでも、量を決めたわけでもないのに、説明できないことが悪いように思えた。


 その人は器を取り、通路へ戻った。


 敏子が、次の布を私の前へ置いた。


「理恵、こっち」


 呼ばれて匙を動かした。手を止めれば、待っている人がさらに遅くなる。私は同じくらいの大きさになるよう、ご飯を寄せた。


     *


 春子が戻ってきたのは、鍋の底が見え始めたころだった。


 入口の方で声がして、私は顔を上げた。信子が先に入り、その後ろに春子がいた。


 春子の袖は、肘まで濡れていた。


 水ではなかった。赤いところと、乾いて茶色くなりかけたところがあり、袖口から指先まで筋になっていた。


 私は匙を置き、近づいた。


「春子」


「私の血じゃない」


 先にそう言われた。


 春子は手を身体から少し離していた。何にも触れないようにしているのだと分かった。


「誰か、怪我したの?」


「兵隊さん」


 信子が答えた。


「近くにいた人が……春子が押さえてた」


 春子は通路の端へ歩き、高橋さんに短く何かを伝えた。高橋さんはすぐに外へ向かい、別の看護婦さんを呼んだ。


 私は春子の後ろへついていった。


「手、洗おう」


「先に、ご飯」


「もう分けてる。敏子と和子がいるから」


 春子はそこで立ち止まった。


 私の顔を見て、それから自分の両手へ目を落とした。指の間に血が溜まり、握ると皮膚の皺から赤いものが滲んだ。


「布、足りなかった」


 小さな声だった。


「押さえても、下から出てきて」


 私は何も言えなかった。


「ご飯、持っていかなきゃいけないから、清美たちを先に行かせたんだけど」


 春子の喉が動いた。


「私も、行けばよかったのかな」


 私は首を振りかけたが、春子が尋ねているのは、怪我をした人を助けるべきだったかということだけではない気がした。そこに残っていた時間、次の砲弾が落ちるかもしれない場所で、血を押さえ続けていた時間のことを考えていた。


 私は春子の手首に触れないよう、袖の乾いたところをそっと持った。


「今、座ろう」


     *


 少しの水で手を洗うと、春子の傷にも血が入り込んでいた。


 布で拭くたびに顔が強張った。指の間を開こうとすると、乾きかけた血が皮膚を引いた。


 春子は自分で洗うと言ったが、途中から手を膝の上へ置いたまま、私に任せた。


「鍋、落とさなくてよかった」


 春子が言った。


 私は顔を上げた。


「清美、足が痛いのに持ってったから。あれ、なくなったら、みんな食べられない」


「届いたよ」


「土、入った?」


「少し」


 春子は目を閉じた。


「蓋、ちゃんと押さえてって言ったんだけど」


「清美、押さえてた。入口でも、ずっと」


 春子は返事をしなかった。閉じた瞼の下から涙が一筋落ち、頬の汚れを濡らした。


 私は手の甲に残った血を拭いた。こびりついたところは無理に擦らず、湿った布をしばらく当てた。


 清美が残しておいたご飯を持ってきた。


「春子の分」


 小さな塊だった。清美は春子の前へしゃがみ、布ごと差し出した。


 春子が受け取ろうとしたので、私はまだ拭いていない指を見た。


「もう少しだけ待って」


 春子は手を止めた。


 清美は布を持ったまま待っていた。春子の目からまた涙が落ちたが、二人とも、そのことには何も言わなかった。


     *


 手を拭き終えると、春子はご飯を小さく割って食べた。


 しばらく口を動かし、それから急に顔を背けた。私は器を引き寄せたが、春子は吐かなかった。膝へ額を近づけ、何度か息をしてから身体を起こした。


「食べないとね」


 誰にともなく言った。


 清美が隣へ座り、春子の持つ布の端を押さえた。手が震えても、ご飯が落ちないようにしていた。


 私は二人の前で、汚れた水の入った器を持っていた。水面には赤茶色の筋が浮き、細かな血の塊が底へ沈んでいた。


 今日、春子は帰ってきた。


 入口を見ながら待っていた時間の長さを思い出すと、戻った姿を見たあとも、胸の奥がうまく緩まなかった。


 春子が最後の一口を飲み込むまで、私はそこを離れなかった。

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