第58話 戻る道
荷物を運ぶのは、私と静子、信子、照子の四人だった。
入口で待っていた兵隊さんは、私たちの履物を順に見てから、荷物の持ち手を確かめた。右の頬に擦り傷があり、乾いた血の上へ薄く埃がついていた。
「野原だ。向こうまで案内する」
私は顔を上げた。
「途中で離れるな。止まれと言ったら止まれ。伏せろと言ったら、荷物を置いて伏せるんだ」
高橋さんが、私と静子の持つ包みへ手を添えた。
「中に瓶があるから、下ろすときは静かにね。でも、危ないときは自分の身体を先に守って」
布の中で、硬いもの同士が小さく触れた。静子と持ち上げると、重みが腕から肩へかかった。信子たちは畳んだ布と器具を分けて持ち、野原さんの後ろへ並んだ。
壕を出る前、私は一度振り返った。
入口の内側に、文子が立っていた。誰かに頼まれて運んでいたらしい器を胸に抱え、こちらを見ていた。
「行ってくる」
声を落として言うと、文子は頷いた。
「待ってる」
外へ出てからも、その声が耳に残っていた。
*
畑の端を歩いた。
野原さんは道の真ん中を避け、低い石垣に沿って進んだ。私と静子は前後になって荷物を持ち、足を置く場所を確かめながらついていった。
畑には掘り返された土と、折れた茎が残っていた。土の色が違うところには深い穴があり、縁に引っかかった布切れが風で動いている。少し離れた家は屋根の半分が落ち、垂れ下がった木材の間から空が見えた。
その家の前に、人が伏せていた。
初めは休んでいるのかと思った。けれど、近づくと、顔の周りに集まっていた蠅が一斉に飛び立った。
上着の背中が黒く濡れていた。片足だけ履物がなく、土に触れた足の裏は白っぽかった。すぐそばに竹籠が倒れ、中の芋が幾つか転がっている。
私は息を止め、足元へ目を戻した。
荷物の向こうで静子の歩幅が小さくなった。
「石、あるよ」
静子が教えた。
私は頷き、出っ張った石を跨いだ。握った持ち手が汗で滑り、指を深く入れ直した。
誰も、伏せていた人のことを話さなかった。
通り過ぎたあとに、あの芋を拾えば食べられるのだろうかと考えてしまった。考えた自分が怖くなり、私は前を向いた。けれど、壕で鍋の底をさらっていた清美の手が浮かび、食べ物の方へ向いた気持ちを消せなかった。
*
砲声が続き始めたのは、石垣が途切れる手前だった。
野原さんが振り返り、手を低く動かした。
「ここで待つ」
荷物を下ろすと、腕が急に軽くなった。膝をつき、掌を土へ置いたところで、遠くの地面から黒い土煙が上がった。
照子が息を呑んだ。
次の音は、それより近かった。
「伏せろ」
私は身体を倒した。土が頬へ触れ、乾いた草の切れ端が唇に入った。肩を丸めたまま目を閉じると、頭の上を何かが飛ぶ音がして、少し遅れて地面が震えた。
背中へ細かな土が落ちた。
顔を上げそうになった私の肩へ、静子の手が載った。
「まだ」
その手も震えていた。
私たちは石垣の残った部分へ身を寄せ、砲声の間を待った。耳の奥に低い響きが残り、近くで誰かが言った言葉が聞き取れなかった。
照子が信子の袖を握っていた。信子は片手で荷物を押さえ、もう片方の手を照子の手へ重ねていた。
私は呼吸を小さくしようとした。息をする音で見つかるような気がしたが、どこから誰に見られているのかも分からなかった。
野原さんが石垣の向こうを確かめ、戻ってきた。
「先の窪みまで行く。立ち止まるな」
静子と目を合わせて荷物を持った。今度は膝が伸びきらず、最初の一歩で身体が前へ傾いた。静子が支えてくれたが、すぐに野原さんが低い声を出した。
「急げ」
私は腕へ力を入れた。
包みの中の瓶が触れ合う音を聞きながら、静子の足だけを追った。
*
届け先の壕は、低い斜面の下に口を開けていた。
入口には土を詰めた袋が積まれ、片側に担架が立てかけられていた。人が出てきたので脇へ寄ると、その人は両手で器を持っていた。中に溜まった黄色い液が、歩くたびに縁まで揺れた。
身体を小さくして中へ入った。
私たちの壕と同じ匂いがした。血と汗、排泄物、それに傷から出る重く甘い匂いが混じっていた。奥へ進むにつれ、空気が皮膚に貼りつくように湿った。
「そこへ置いて」
白い上着を着た女の人が、空いた木箱を指した。袖口は茶色く汚れ、片方の頬に煤のような黒い筋があった。
荷物を下ろして紐を解くと、その人は瓶を一本ずつ確かめた。
「これだけ?」
野原さんが頷いた。
「今、出せる分だそうです」
女の人は唇を結び、布を畳み直した。
壁際にいた兵隊さんが、運んできた包みを目で追っていた。膝から先が包帯で太くなり、その下に敷いた布へ赤茶色の染みが広がっていた。染みの縁は乾いて硬くなっていたが、中心にはまだ湿った光があった。
「学生さん、水は持ってないか」
私は腰の水筒へ手を当てた。
少し残っていた。飲ませてもいいのか尋ねようとしたとき、信子が先に女の人へ声をかけた。
「あの方、お水をほしいって」
女の人は患者さんを見て、枕元の器を確かめた。
「そこへ少しだけ入れてあげて」
私は水筒を傾けた。器へ落ちた水を、その人は両手で持とうとしたが、片方の手がうまく動かなかった。照子が横から支え、口元まで運んだ。
一口飲むと、喉が動いた。
「ありがとう」
器を下ろしたあとも、照子はその人の背中を支えていた。
野原さんが帰るぞと言うまで、私たちはそこに立っていた。
*
帰りは、荷物が減ったぶん歩きやすかった。
それなのに、私は行きよりも疲れていた。何も持っていない腕が重く、足を上げるたびに膝の裏が突っ張った。
道が分かれるところで、野原さんは斜面へ続く細い道を選んだ。もう一方には崩れた塀があり、その先は木に隠れて見えなかった。
「そっちは通れないんですか」
私が尋ねると、野原さんは一度そちらを見た。
「昼間は避ける。先が開けてるからな」
「夜なら……」
言いかけた私を、野原さんが振り返った。
「夜でも、通れるとは限らん。昨日通れた場所が、今日は使えなくなる」
私は道の先を見た。
ここから一人で歩き出したとして、どこまで行けるのだろう。木の向こうに何があるのかも知らない。水筒はほとんど空になり、食べ物は持っていなかった。
それでも、壕へ戻らずに済む道があるのではないかと、私は探していた。
静子が私の横へ並んだ。
「足、痛い?」
私は首を振った。
「帰れないかなって、考えた」
静子は前を歩く野原さんを見てから、小さく頷いた。
「私も」
その返事に顔を上げた。
「家に?」
「うん。でも、うちに家族がいるか分からない。避難するって言ってたから」
静子は言いながら、石を避けた。
「一人で探しに行くのも怖いし」
私は水筒を握った。未来を知っていても、おばちゃんのいる場所へ続く道は見つからなかった。
後ろで照子がつまずき、信子が腕を取った。二人が追いつくまで、私たちも歩幅を緩めた。
*
元の壕が見えたとき、私はほっとしてしまった。
あの中に戻れば、また汚れた布を洗い、患者さんの身体を拭き、眠れない夜を過ごす。戻りたくないと考えながら歩いていたのに、入口を見つけた途端、そこまで辿り着けば座れると思った。
静子も息を吐いた。
野原さんが先に中へ入り、届け終えたことを報告した。私は入口の岩へ手をつき、履物についた土を落とした。
「理恵」
暗がりから文子が出てきた。
私の顔を見て、それから肩についた土を見た。
「怪我した?」
「してない」
「ほんと?」
私は頷いた。
文子の手が袖へ触れた。何か言おうとしていたが、私が岩から手を離すと、代わりに腕を支えてくれた。
中へ入る途中、文子は今日の当番を教えてくれた。千代は奥にいて、美咲は高橋さんと一緒、春子たちは炊飯の仕事に出ているという。
私はその話を聞きながら、壁際へ腰を下ろした。
帰り道で、別の道へ曲がることを考えた。けれど、こちらへ戻れば文子がいて、千代や美咲がどこにいるか聞くことができた。
「少し、座ってて」
文子が言った。
「次に呼ばれたら、私が先に行くから」
私は頷き、土で汚れた手を膝の上へ置いた。
水筒を外すと、底に残った水が小さく鳴った。飲もうか迷っている間に、奥からまた、学生さん、と呼ぶ声が聞こえた。




