第57話 鍋の底
四月も半ばを過ぎていると、島袋先生から聞いた。
学校を出てから何日経ったのか、私は途中で数えられなくなっていた。眠って起きても外が暗いことがあり、食事を受け取る前に次の仕事へ呼ばれることもあった。一日が終わったと思ったあとに、まだ同じ日の夜だと教えられた。
先生は私たちの顔を順に見て、身体の具合を尋ねた。咳の続く子と、腹を下している子が手を上げた。私は手を上げなかったが、先生に頬を見られた。
「寺田さん、食べられている?」
「はい」
答えてから、今朝何を食べたのか思い出そうとした。
小さく握ったご飯を、通路の端で食べた。口へ入れている途中で呼ばれ、残りを布に包んだ。そのあと、どこへ置いたのだったか。
先生が何か言いかけたとき、入口の方から担架が運び込まれた。私たちは壁へ寄り、先生も言葉を止めて道を空けた。
*
春子の手元に並ぶ握り飯は、以前より小さかった。
初めは、握る人が変わったのかと思った。けれど、次に受け取ったときも、その次も、掌に載せると指の付け根まで届かなかった。形が崩れないように丸く固めてあり、表面には潰れた米粒が貼りついていた。
「今日、これだけ?」
後ろにいた洋子が尋ねた。
春子は顔を上げずに頷いた。
「まだ受け取ってない人がいるから」
清美が鍋を傾け、底に残ったご飯を匙で集めていた。金属を擦る音が続き、最後には、薄くこびりついたものまで剥がし始めた。
私は自分の分を受け取ったあとも、その手を見ていた。
清美は小さな欠片を一つに寄せ、春子へ渡した。春子が掌でまとめようとしたが、乾いた部分が混じっていて、縁から崩れた。
「私、それでいいよ」
洋子が言った。
春子は首を振り、さっきまで自分の前に置いていた握り飯を渡した。
「こっち持っていって」
「でも」
「もう分けたから」
洋子が離れたあと、春子は鍋の底から集めたものを口へ入れた。噛むたびに頬が動いたが、なかなか飲み込まなかった。
私は受け取ったご飯を半分に割ろうとした。
「いいって」
春子が、すぐに言った。
「理恵、これから患者さんのところでしょ」
「春子も仕事あるじゃん」
「あるよ。だから食べてる」
春子は掌に残った米粒を指で拾った。爪の横には、洗っても落ちきらない黒い汚れが入り込んでいた。
私は割りかけたご飯を持ったまま、清美を見た。清美は空になった鍋へ蓋を載せ、次に使う桶を引き寄せていた。
*
村田さんに食事を運ぶと、目を開けて待っていた。
起き上がるのを手伝い、背中へ畳んだ布を入れる。肩を支えたとき、上着の下に骨の形が分かった。初めてここで会ったときよりも、首が細く見えた。
「学生さん、先に食べたか」
「あとで食べます」
「冷めるぞ」
冷めても量は変わらないと思ったが、口には出さなかった。
ご飯を少しずつほぐして匙に載せた。村田さんはゆっくり口を動かし、ときどき目を閉じた。飲み込むのを待ってから次を差し出すと、器の中身はすぐに少なくなった。
私のお腹が鳴った。
壕の中では、いつも誰かが呻き、咳をし、器を動かしていた。それでも、近くにいた村田さんには聞こえたらしかった。
「残りは食べな」
「村田さんの分です」
「もういい」
器を押し戻そうとする手を、私は避けた。
「もう一口だけ」
村田さんは私を見て、それから口を開けた。
最後のご飯を食べてもらい、器の内側に残った粒を集めていると、通路を運ばれていた兵隊さんが、担架の上から声を出した。
「そこも、いっぱいか」
担架を持っていた人が、奥へ声をかけた。すぐには返事がなく、入口から別の担架が来た。
「前、空けろ」
怒鳴り声に押されるように、通路の人たちが動いた。
私は村田さんの寝床へ身体を寄せた。担架の端から垂れていた布が腕に触れ、袖に赤黒い筋がついた。布の向こうに見えた顔には細かな土が貼りつき、片方の眉が血で固まっていた。
「前の壕、使えなくなったんだ」
運んでいた人が、誰かに説明していた。
「こっちで受けろって言われてな」
担架が奥へ消えても、私は通路を見ていた。
患者さんが増えた理由を、これまで私は、怪我をする人が増えたからだとしか考えていなかった。寝かせておく場所そのものがなくなれば、そこにいた人たちも運ばれてくる。
ここが使えなくなったら、私たちはどこへ行くのだろう。
*
自分の食事を口へ入れたのは、それからずっとあとだった。
ご飯は布の中で冷え、表面が少し硬くなっていた。小さく齧って何度も噛むと、唾が足りず、喉の手前に貼りついた。水を一口飲んで流し込み、次の一口をできるだけ小さく取った。
隣で文子が、指についた米粒を食べていた。
「理恵、何考えてる?」
私は壕の奥を見た。こちらへ顔を向けている人がいないことを確かめ、声を落とした。
「ここを出ることになるのかなって」
「移るってこと?」
「うん」
文子は食べる手を止めた。
「前に言ってたこと?」
私は頷いた。
五月。南部への撤退。
おばちゃんに預けた日記の文字を思い出した。書いたときには、もっと先のことだった。まだ学校へ通い、店を手伝い、夜になれば自分の布団で眠っていた。
今は四月の半ばを過ぎている。
「いつかは、そうなると思う。でも、ここの人たちがいつ動くのかは分からない」
「村田さんたちも?」
私はすぐに答えられなかった。
文子は膝の上の布を握った。
「歩けない人、たくさんいるよ」
「分かってる」
返事が思っていたより強くなり、私は文子を見た。文子は責める顔をしていなかった。ただ、私と同じように奥を見ていた。
「ごめん」
「ううん」
残っていたご飯を見ても、もう食べたい気持ちが湧かなかった。それでも、文子が食べ終えるまでに、私も飲み込んだ。
*
寝る場所へ戻る途中、悦子が荷物の紐を結び直していた。
布の端が擦り切れ、中に入れたものが出そうになっていた。私が押さえると、悦子は紐を一度解き、違うところへ回した。
「ありがとう」
「何入ってるの?」
「着替え。もう、きれいじゃないけど」
悦子は笑おうとして、途中で口元を戻した。
「帰れたら、一度でいいから全部洗いたい」
私は紐の下へ布の端を押し込んだ。
「帰りたいね」
言うと、悦子の手が止まった。
近くを軍靴の足音が通った。二人とも黙り、荷物へ顔を向けた。足音が遠ざかってから、悦子が紐を引いた。
「私、家までの道も、今は分からない」
家は海の向こうにあった。学校へ来たときの道を逆に進めば帰れるわけではない。
私はおばちゃんのことを考えた。今どこで眠っているのか、食べ物はあるのか。ここを抜け出しても、会える場所を私は知らなかった。
「理恵は?」
悦子に尋ねられ、私は首を振った。
「おばちゃんが、どこにいるか分からない」
悦子は結び終えた荷物を膝へ載せた。私はその横へ座り、しばらく一緒にいた。
*
翌日、高橋さんに呼ばれたのは、汚れた布を運んでいる途中だった。
「寺田さん、これが済んだら入口へ来て。別の壕へ持っていくものがあるから」
私は足を止めた。
「別の壕ですか」
「薬と器具。向こうへ届けるの」
高橋さんは棚から布包みを取り出し、口の紐を確かめた。
「静子さんたちと一緒に。外へ出る前に説明するから、勝手に先へ行かないでね」
「はい」
私は抱えていた布を運び終え、入口へ向かった。
静子が壁際に立ち、運ぶ荷物を足元へ並べていた。私を見ると、持ち手のある包みを一つ指した。
「これ、二人で持とう」
屈んで持ち手へ指を入れた。立ち上がろうとしたとき、空腹で膝に力が入りにくかった。静子が先に少し持ち上げ、私が足を踏ん張るのを待った。
「いける?」
「うん」
入口の向こうで砲声が響いた。
高橋さんの説明を待ちながら、私は持ち手を握り直した。外へ出る仕事は何度もしていた。それでも今日は、まだ見たことのない壕まで歩かなければならなかった。




