第56話 名前を呼ぶ声
眠りかけるたびに、灯りの下で見た傷口が浮かんだ。
目を閉じていても、その輪郭だけが暗闇の中に残っていた。血で濡れた布、傷の縁にこびりついていた黄色いもの、押さえつけられた腕。私の手にはもう灯りがなかったのに、肘を曲げると、あのときと同じ痛みが走った。
隣で文子が寝返りを打った。肩が触れ、私は少し場所を空けようとしたが、反対側には美咲が横になっていた。膝を寄せて身体を細くすると、腰の下の石が骨に当たった。
壕の奥から、誰かが水を求めていた。
呼ぶ声はしばらく続き、やがて咳に変わった。別のところでは、息を吸うたびに喉が鳴っている。眠っている間にも仕事を見落としてしまう気がして、私は目を開けた。
「理恵」
文子が、小さく呼んだ。
「起きてる?」
「うん」
「私も」
それから何も話さずにいた。文子の足先が私の足に触れていた。その温かさを確かめながら、私は遠くの咳が収まるまで待った。
*
次の当番で通路へ出ると、昨日の処置を受けた兵隊さんが、壁際に寝かされていた。
顔を見つけた途端、足が止まった。
毛布の下から出ている手には、まだ泥が残っていた。爪の間は黒く、指の付け根には細い擦り傷が幾つもあった。昨日、千尋が押さえていたのは、この腕だった。
胸が動いている。
私はしばらく、その動きだけを見ていた。
「寺田さん、そこの器、持ってきて」
高橋さんに呼ばれ、棚のそばへ戻った。器を運ぶと、高橋さんは兵隊さんの枕元に膝をつき、顔へ近づいて声をかけた。
返事はなかったが、瞼が少し動いた。
唇は乾いて割れていた。口の端に茶色い血の筋があり、高橋さんが湿らせた布を当てると、その人は顔をわずかに背けた。
「痛いね。少し拭くから」
私は器を持ったまま立っていた。昨日、その人は何度も、やめてくれと言っていた。今日は唇を拭かれることさえ痛いのだと思うと、何をしても傷つけるような気がした。
高橋さんが布を絞り直す間に、兵隊さんの目が開いた。
視線が私の方へ動いた。
「……学生さん」
かすれた声だった。
私は慌てて顔を近づけた。
「はい」
その人は何か言いかけ、息を吐いた。私は続きの言葉を待ったが、唇がわずかに動いただけで、声にはならなかった。
高橋さんが私を見上げた。
「今は休ませてあげて。器はそこへ」
器を置いてからも、私はすぐには離れられなかった。その人の目が閉じ、また胸がゆっくり持ち上がるのを見ていた。
*
千尋に会ったのは、汚れた布を集める場所だった。
袖をまくり、桶の中へ両手を入れていた。水面には薄い赤茶色の膜が浮き、布を動かすたびに、底から黒い濁りが上がった。血を吸って固くなった箇所を揉むと、乾いた部分が崩れて、指の間に細かな塊が残る。
「代わるよ」
私が隣へしゃがむと、千尋は首を振った。
「これ、もう少しだから」
けれど、同じ布を何度も揉んでいた。手の甲は赤く、指の関節には白くふやけた皮が寄っていた。
「昨日の兵隊さん、目、開けてた」
千尋の手が止まった。
「さっき、学生さんって呼ばれた」
「……そう」
千尋は桶へ目を戻した。水の中で握っていた布を、ゆっくり開いた。
「あの人、私のこと見てたんだよね」
私は返事ができなかった。
「離してって、こっち見て言ったから」
通路で誰かが私たちを呼んだ。千尋は顔を上げかけ、それから、もう一度布を水へ沈めた。
「私、手、離そうかと思った」
「うん」
「でも、離したら、もっと危ないって言われて」
千尋の指が布を探っていた。血の塊がなくなったところまで、まだ擦っている。
私は桶の中へ手を入れ、その布の反対側を持った。
「ここは、もう落ちてる」
千尋は私の手を見た。しばらくして、握っていた指を緩めた。
二人で布を絞った。水が手首を伝い、袖の内側へ入った。冷たいはずなのに、荒れた皮膚には熱く感じられた。
呼ぶ声がもう一度聞こえた。
千尋は布を重ね、立ち上がった。私もその後を追った。
*
昼の配給を受け取るころには、壕の入口に近い通路まで寝床が増えていた。
これまで器を置いていた場所にも人が横たわり、運んできた桶をどこへ下ろせばいいのか分からなかった。足を置こうとするたび、毛布の端から手や足が出ているのに気づいた。踏まないように跨ぐと、今度は別の人の枕元へ近づきすぎた。
「気をつけて」
和子が私の桶を支えた。
壁際へ寄せてから、和子は胸元に挟んでいた紙を出した。折り目のところが擦れ、鉛筆の文字が薄くなっていた。
「清美、見なかった?」
「まだ」
「春子と一緒の当番だと思うんだけど」
和子は通路の先を見た。学校にいたころ、欠席者を確かめるときにも、同じように紙を指で押さえていた。あのときは、空いた席を見れば誰がいないか分かった。ここでは場所も当番も変わり、同じ壕にいるのに、一日顔を見ない子がいた。
私たちは入口の方へ回った。
外から戻ってきた二人を見つけたのは、岩の陰だった。清美が腰を下ろし、春子がその前へしゃがんでいた。
「どうしたの」
春子は振り向き、声を落とした。
「足、擦れたって」
清美は履物を片方脱いでいた。踵の皮が剥け、赤く湿ったところに土がついている。足袋にも小さな血の染みが広がっていた。
「大したことないよ」
清美はすぐに履こうとしたが、春子が足袋を取った。
「さっきも、そう言ってたでしょ」
「歩けるから」
「歩けるうちに見てもらうの」
春子の言い方が強く、清美は口を閉じた。
私は千代が腹痛を隠していたときのことを思い出した。ここでは、まだ立てることが、仕事へ戻る理由になってしまう。傷があると分かっていても、戻らずに済むとは限らなかった。
「高橋さんに聞いてくる」
私が言うと、清美は困ったように笑った。
「こんなので呼んだら、悪いよ」
「聞くだけ。今すぐじゃなくても」
和子が清美の横へ座り、桶を足元へ置いた。
「私、ここにいるから」
春子は取った足袋を膝に載せたまま、清美の踵を見ていた。
*
高橋さんが来られたのは、配給を運び終えたあとだった。
清美の傷を見て、土を落とすように言った。少しの水と布を受け取り、私は清美の足を支えた。擦れたところへ布が触れると、足の指がぎゅっと曲がった。
「ごめん」
「ううん。続けて」
清美は春子の袖を握っていた。
春子は何も言わず、その手を握り返した。自分の指にも傷があるのに、清美が力を入れるたび、ほどけないように支えていた。
手当てが済むと、四人で残しておいた配給を食べた。私の分は布の上で少し潰れ、底に細かな土がついていた。指で払っても取れないところを見つめていると、春子が言った。
「上から食べな。そこ、最後にすれば」
私は頷き、崩れた端を口へ入れた。
清美は食べながら、足袋の血の染みを見ていた。
「もう少し、楽な履物があればね」
「何でもいいなら、私が作ってあげる」
春子が言った。
「春子が?」
「何、その顔」
「左右、違いそう」
清美の口元が緩んだ。春子は言い返しかけて、自分も少し笑った。
和子が二人の名前を確かめ、紙へ小さな印をつけた。
「何の印?」
私が尋ねると、和子は鉛筆を止めた。
「今日、顔を見た人」
紙には名前が並んでいた。印のあるところと、まだないところがあった。
「みんな当番が違うから。あとで聞かれても、分からなくなるでしょう」
和子はそう説明し、紙を折った。
私は清美の踵を見た。包んだ布の端から、もう小さな赤い点が滲んでいた。
*
その夜、美咲が私たちの寝る場所へ戻ってきたとき、私は顔を上げて名前を呼んだ。
「美咲」
美咲は少し驚き、私を見た。
「何?」
「こっち、空けてある」
身体をずらすと、美咲は壁に手をついて腰を下ろした。袖には濡れた跡があり、近づくと汗と汚れた布の匂いがした。私の服も同じ匂いだった。
文子が遅れて戻り、千代は通路の向こうからこちらへ手を上げた。春子はまだ次の当番に入っていたが、清美と一緒だと和子が教えてくれた。
私は、その一つ一つを覚えようとした。
美咲が靴を脱ぎ、文子が膝を抱えて座り、千代が壁を避けながら歩いてくる。いつもなら気に留めなかった動きまで、目で追った。
「理恵、寝ないの?」
文子に聞かれ、私は横になった。
奥から、また人を呼ぶ声が聞こえていた。誰かが返事をし、狭い通路を急いでいった。
美咲が私の隣へ身体を横たえた。肩が触れたまま、しばらく離れなかった。
「おやすみ」
私が言うと、美咲は目を閉じたまま返事をした。文子も小さく、おやすみと言った。
私は二人の声を聞いてから、ようやく目を閉じた。




