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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第55話 灯りを持つ腕



 千代が自分で食事を取りに行けるようになった頃、私は佳代と一緒に、使い終わった包帯を分けていた。


 洗って使うものと、こちらへ置くもの。高橋さんが初めに示した通り、桶を二つ並べていたが、どちらにも血と膿を吸った布が溜まっていた。乾いた血で固くなったところを持つと、折れ目が指へ当たった。湿った布は端だけを摘まんでも重く、引き上げると下のものまでついてきた。


 佳代は黙って手を動かしていた。


 遺体を運んだ日から、外へ行く仕事に呼ばれると、彼女は先に何を運ぶのか尋ねるようになった。答えを聞けば返事をし、行かなければならないときには行った。


 私も、同じだった。


 桶の底に残った包帯を持ち上げると、黄白色の濁った液が糸を引いた。私は息を浅くし、決められた方へ移した。


「寺田さん」


 呼ばれて顔を上げると、高橋さんが立っていた。


「灯りを持ってください」


 私は佳代へ残りを頼み、手を洗いに行った。


     *


 連れていかれた場所には、軍医と衛生兵がいた。


 患者は横になり、上着の胸元を開けていた。額から汗が流れ、耳の下へ落ちている。脚に巻かれた包帯の周りには濃い染みが広がり、毛布を外すと、傷の匂いが急に強くなった。


 私は灯りを受け取り、軍医の手元を照らすよう言われた。


 近くへ寄ると、患者がこちらを見た。


 目が合い、私は頭を下げた。その人は返事をせず、軍医へ顔を戻した。


「麻酔は」


 掠れた声だった。


 軍医は衛生兵へ何か尋ねた。返事は低く、私には聞き取れなかった。


「今、ここで使えるものはない」


 その言葉だけは、はっきり聞こえた。


 患者の手が、身体の下に敷いた布を掴んだ。


「このまま、やるんですか」


 私は灯りを持つ腕へ力を入れた。


 軍医は傷の方を見ていた。すぐに手をつける必要があることを短く話し、高橋さんへ器具を求めた。患者は何か言いかけたが、軍医が別の指示を出し、声が重なった。


 私はその人の口元を見た。


 下唇が震えていた。


     *


 千尋と幸子が呼ばれた。


 大城千尋は衛生兵の指示で患者の肩の近くへつき、幸子は身体の脇へ回った。二人とも、どこへ手を置くのかを確かめてから膝をついた。


「動かないように支えて」


 言われると、千尋は頷いた。


 患者は二人の顔を見た。さっきまで布を掴んでいた手が、今度は千尋の袖へ伸びた。


「待ってくれ」


 千尋が軍医を見た。


 軍医は手元へ目を落としていた。


「灯り、こちら」


 私は腕を動かした。炎の向こうに、傷の縁が見えた。皮膚は赤く腫れ、裂けたところには、暗い赤と黄色い濁りが混じっていた。


 高橋さんが患者へ声をかけた。


 返事を聞く前に、男の身体が跳ねた。


 私は灯りを引きそうになった。腕を近づけ直すと、患者の声がすぐ目の前で上がった。


 大きな声だった。


 言葉にはならず、喉を絞って吐き出すような叫びだった。千尋の肩が揺れ、幸子が体重をかけて身体を支えた。衛生兵も手を添え、動かさないよう声を出していた。


 私は灯りだけを持っていた。


 患者の苦しむ顔を見ても、器具が動くところを見ても、目を逸らしたくなった。けれど、目を閉じれば、自分の腕がどこを照らしているか分からなくなる。


「動かすな」


 声がした。


 誰へ向けたものか分からず、私は両肘を身体へ寄せた。


     *


 患者は何度も身体をよじった。


 千尋の袖を掴んだ手が離れず、布が引かれて襟元までずれた。幸子は唇を結び、患者が息を吸うたびに手の位置を直していた。


 傷へ当てられた布が、すぐに赤くなった。


 取り替えるために持ち上げられると、血が皮膚を伝い、下の布へ落ちた。私はその動きを見てしまい、喉の奥に酸っぱいものが上がった。


 吐いてはいけない。


 灯りを下ろしてはいけない。


 私は唾を飲み、手首をもう片方の手で支えた。腕の内側が痛くなり、指先が痺れていた。


 患者の叫びが、途中で掠れた。


 それでも痛みがなくなったわけではなかった。息を吸い直すたびに口が開き、身体が引かれた。目尻から涙が流れ、耳の方へ溜まった。


 私は、やめてください、と言いたかった。


 けれど、やめたらこの人が助かるのか、続ければ助かるのか、私には分からなかった。


 知っているのは、痛がっている人を、私たちが動けないようにしていることだった。


     *


 終わったとき、私はすぐには分からなかった。


 高橋さんが器具を受け取り、軍医が手を離して、初めて灯りを持つ位置を変えた。


「もう、下ろしていい」


 言われたのに、肘がうまく曲がらなかった。


 灯りを渡すと、両腕が身体の脇へ落ちた。手のひらを握ろうとしても力が入らず、私は指を一本ずつ動かした。


 患者の胸は、速く上下していた。


 高橋さんが顔の汗を拭き、呼びかけた。目は閉じられていたが、声をかけると眉がわずかに動いた。


 千尋は、まだ袖を掴まれていた。


 引き抜こうとして途中で止まり、その人の手を見ていた。高橋さんがそっと指をほどくと、千尋は自分の手を膝へ戻した。


「ごめんなさい」


 千尋が言った。


 患者へ向けた声だった。


 その人が聞いたのかどうか、私には分からなかった。


     *


 片づけが終わってから、私たちは通路の脇へ座った。


 千尋は袖を見ていた。患者の指がかかっていたところが引き伸ばされ、縫い目から糸が出ていた。


 幸子は掌を膝へ置き、呼吸を整えていた。


「私、押さえた」


 千尋が呟いた。


 私は顔を向けた。


「離してって、言ってたのに」


 幸子が目を閉じた。


 私は何も言えなかった。治療のためだったと答えれば、千尋の手に残っているものが消えるわけではなかった。


 灯りを持っていた自分も、その場にいた。


「痛かったね」


 ようやく言うと、千尋は頷いた。


 誰の痛みなのか、確かめなかった。


 私たちは座ったまま、通路を人が過ぎるたびに膝を引いた。


     *


 文子は私の顔を見ると、荷物のそばを空けてくれた。


 私は座り、腕を膝へ載せた。文子が何があったのか尋ねたので、麻酔がなく、そのまま処置をしたことを話した。


 文子の目が、私の手へ落ちた。


「理恵も、支えたの?」


「灯りを持った」


 私は掌を開いた。


「それだけなのに、ずっと、逃げたかった」


 文子は黙って聞いていた。


 近くで佳代が布を畳んでいた。私たちの声に手を止めたが、顔は上げなかった。


 私は文子へ身体を寄せた。


「私、ここへ来る前、こういうことがあったって、読んだの」


 声を落とした。


「麻酔がない手術も、女学生が患者を押さえたことも。知ってたのに……」


 続けようとして、息が詰まった。


 文子が私の背中へ手を当てた。


「そこにいたことまでは、なかったでしょう」


 私は頷いた。


 読んだときは、頁を閉じられた。映像なら、音を止めることもできた。


 ここでは、目を閉じても声が聞こえた。終わるまで、腕を下ろせなかった。


 私は両手を重ねた。


 今も、指の間に灯りの柄があるようだった。


     *


 夜、横になってからも、千尋の声が聞こえた。


 隣にいた和子へ、小さく、眠れない、と言っていた。和子が何か答え、布を寄せる音がした。


 私は目を開けた。


 暗い中に、昼間の患者の顔が浮かんだ。口が開き、涙が耳の方へ流れていく。身体を押さえる友達の手と、そこを照らしていた自分の灯り。


 通路の奥で、誰かが呻いた。


 私は上体を起こしかけ、文子に袖を掴まれた。


「今は、休んでいいよ」


 私はまた横になった。


 文子は袖を離し、代わりに私の手へ触れた。握ろうとすると腕が痛んだので、私は掌を重ねるだけにした。


 それでも、彼女の指の温かさは分かった。


 私はその感触を確かめながら、奥で続く声を聞いていた。

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