第54話 呼ばれる前に
村田さんに食事を運ぶと、椀を持つ前に、隣の患者の方を見た。
「先に、あっちへ行ってやってくれ」
私は顔を向けた。
若い兵隊が、毛布の上で右手を動かしていた。左腕は包帯で吊られ、身体の脇へ寄せられている。右手を伸ばしても、足元に置かれた器へ届かないようだった。
「食事、こちらへ寄せますね」
膝をついて声をかけると、その人は手を止めた。
「ああ」
椀を近づける途中で、包帯の端が目に入った。白かったはずの布は黄褐色に汚れ、脇の下に近いところには、濃い染みが広がっていた。
その辺りから、傷んだ肉に似た匂いがした。
私は椀を持ち直し、右手で取りやすいところへ置いた。兵隊が箸を握るのを見てから、村田さんのところへ戻った。
「ありがとう」
村田さんは言った。
「あいつも、呼べばいいんだが」
私は隣の人を見た。
箸を動かすたびに肩が引かれ、そのたびに口元が固くなっていた。誰かを呼ぶ前に、自分でどうにかしようとしていたのだろうか。
私も、手を洗いたいときや、水を飲みたいとき、声を出す前に周りを見るようになっていた。
*
数日経つと、仕事を頼まれる前に分かることが、少しずつ増えた。
患者が毛布を引こうとしていれば、その端へ手を伸ばす。看護婦が布を外す前には、汚れたものを受ける桶を寄せる。通路で担架を運ぶ声がしたら、自分の荷物と脚が出ていないか確かめる。
慣れてきたのだと、初めは思った。
けれど、夜、身体を揺すられたときにも、目を開く前に謝ってしまった。
「ごめんなさい」
「理恵、私」
千代だった。
私は起き上がり、顔を見た。千代は空の桶を持ち、私の膝のそばへしゃがんでいた。
「水の当番、代わってもらえる?」
「今?」
「うん。静子と行くことになってるんだけど」
千代はそこで言葉を切った。顔に汗が浮いていた。暑いからだけではないと分かったのは、腹へ当てた手が、そのまま動かなかったからだった。
「お腹?」
千代は頷いた。
「さっきから。すぐ戻れると思ったんだけど」
「先生には?」
「言った。代わってくれる人を探してって」
私は布から脚を抜いた。
「行くよ」
そう答えてから、外へ出るのだと改めて思った。
水桶を持って伏せた日が頭へ浮かび、履物の紐を結ぶ手が止まった。千代はその手を見ていた。
「無理なら、ほかの子に頼む」
「ううん。行く」
私は紐を引いた。
千代が少し身体を曲げ、口を閉じた。今、彼女が外へ出ても、重い桶を支えきれないかもしれなかった。
「高橋さんにも、言ってね」
「うん」
私は立ち上がり、静子を探した。
*
入口で会った静子は、千代の具合を聞くと、何も言わずに桶の片側を私へ向けた。
「途中で、下ろそうね。無理に持ち続けないで」
「うん」
外は薄暗かった。
壕の入口を離れると、背中の方で人の声が小さくなった。私は道の先よりも、足元の石と、身体を低くできそうな場所を見ていた。
静子も、黙って歩いていた。
空の桶が、歩幅の違いで揺れた。私は彼女に合わせて少し足を速めた。
「理恵、そんなに急がなくていい」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
静子は足を緩めた。
遠くで砲撃の音がした。
二人とも止まった。私は桶を下ろしかけたが、静子が周りを見てから、もう少し先の低いところを指した。
「まず、あそこまで」
私は頷いた。
音がしたからといって、どこへ落ちるか分かるわけではなかった。前と同じ場所に伏せれば助かるとも限らなかった。
それでも、脚を動かすためには、次に行く場所が必要だった。
*
水を入れた桶は、帰り道で何度も掌へ食い込んだ。
静子は、曲がり角の手前で下ろそう、と声をかけた。私たちは桶を置き、指を開いた。
腕が軽くなった途端、手首の奥がじんじんした。私は掌を膝へ擦りつけ、持ち手の跡を見た。
「千代、前も我慢してたんだよ」
静子が言った。
「お腹、痛いの?」
「たぶん。急いで戻りたいって言ってたから」
私は静子を見た。
千代は、自分のことをあまり話さなかった。私が水をこぼしたときには、私もこぼしたよと言い、食事が喉を通らなかったときには、自分も同じだったと教えてくれた。
その千代が、我慢していた。
「聞けばよかった」
私が言うと、静子は首を振った。
「言わないと、分からないよ」
彼女は桶の持ち手へ触れた。
「だから、理恵も言って。持てなくなったら」
私は頷き、もう一度、持ち手を握った。
*
戻ると、千代は布の上に横になっていた。
文子がそばへ座り、桶を近くに置いていた。千代の額には細かな汗が残り、襟元が湿っていた。
「帰ってきた?」
私の姿を見ると、千代は起き上がろうとした。
「寝てていい」
私はしゃがんだ。
「水、持ってきたよ」
「ありがとう。あとで、理恵の当番——」
「今、決めなくていいよ」
言うと、千代は口を閉じた。
文子が、先生は休んでいいって言ってた、と付け加えた。千代はそれでも通路の方を見ていたが、腹が痛んだのか、肩を丸めた。
私は布の端を直した。湿った地面へはみ出していたところを折り、千代の膝へ毛布を寄せた。
「お腹、冷えないように」
千代は目を閉じた。
「うん」
文子と目が合った。
何の病気なのか、私たちには分からなかった。疲れかもしれないし、食べたもののせいかもしれない。ほかにも腹を下している人がいると聞いたが、同じものだと決めることもできなかった。
ただ、今は起こさずにいたかった。
*
その日の食事は、千代の分を取っておいた。
すぐに食べられないと言われ、文子が椀に布を掛けた。私は自分の食事を持ち、隣へ座った。
春子が来たのは、皆が食べ始めてからだった。
顔の片側に煤がつき、袖は汗で濃くなっていた。腰を下ろす前に、清美へ器の場所を伝えている。
「春子の分、ここ」
文子が椀を示した。
「ありがとう」
春子は受け取り、ひと口食べた。
私はその手を見た。指の付け根には、以前より深い擦れがあった。乾いた血が細く固まり、箸を動かすたびに皮膚が引かれていた。
「手、見てもらった?」
「あとで」
「昨日も言ってた」
春子は私を見た。
少しだけ、いつもの顔になった。
「理恵、おばちゃんみたい」
文子が笑いかけたが、春子はすぐに椀へ目を戻した。
私も箸を持った。
おばちゃんだったら、どう言うだろう。仕事が終わるまで待たず、手を出してと言ったかもしれなかった。
「食べ終わったら、一緒に行こう」
私が言うと、春子は、小さい傷だよ、と答えた。
「それでも」
春子はしばらく黙っていたが、最後に頷いた。
*
千代は食事を半分ほど残した。
文子が片づけようとすると、千代は、もったいない、と椀へ手を伸ばした。けれど、持ち上げる前にまた腹を押さえた。
「取っておくから」
文子が言った。
千代は横になり直した。
私は彼女のそばへ座っていた。休める時間は短かったが、次に誰かが来るまで、ここにいようと思った。
しばらくして、千代が顔をこちらへ向けた。
「外、怖かった?」
私はすぐには答えられなかった。
「うん」
千代の眉が寄った。
「ごめん」
「代わったのは、私が行くって言ったから」
私はそう答えた。
「でも、怖かった。静子が一緒にいてくれて、助かった」
千代は私を見ていた。
私は膝の上へ掌を出した。持ち手の跡は薄くなっていたが、触れるとまだ痛んだ。
「今度は、二人とも痛いって言おう」
千代は小さく頷いた。
通路から名前を呼ぶ声がした。
私は顔を上げた。別の子の名前だった。
隣で千代も身体を起こしかけたので、私は肩へ手を置いた。
「千代じゃないよ」
彼女はゆっくり横になった。
その目が閉じるまで、私は手を離さなかった。




