第53話 運ぶ手
宮城佳代と一緒に布を運んでいたとき、高橋さんに呼び止められた。
佳代は夏子とよく並んで座っていた子だった。学校では、歌の続きを間違えた夏子に、そうじゃないよ、と教えていた。今は袖を肘までまくり、腕に抱えた布が通路の壁へ触れないよう、身体を斜めにして歩いていた。
「その布を置いたら、手を貸してください」
高橋さんはそう言い、通路の先へ向かった。
私は佳代と顔を見合わせた。何をするのかは聞けなかった。布を棚へ置き、手に残った埃を払ってからあとを追った。
高橋さんが立っていたのは、昨日、食器を運んだ場所だった。
そこにいた兵隊の顔には、布が掛けられていた。
足元に軍医がしゃがみ、立ち上がるところだった。高橋さんへ何か短く伝え、別の患者の方へ歩いていった。
私は布の下の顔を見た。
顔そのものは見えなかった。鼻の辺りだけが持ち上がり、口のあるところへ緩く布が落ちていた。
「亡くなりました」
高橋さんが言った。
私は昨日、その人に椀を渡した。名前は聞いていなかったが、箸を取ろうとして指が震え、私が持っていた椀の縁へ爪が当たったことを覚えていた。
その手が今は、身体の脇に置かれていた。
「外へ運びます。担架へ移すのを手伝ってください」
佳代が小さく返事をした。
私も頷いたが、口を開けなかった。
*
運ぶための担架が持ってこられた。
兵隊がひとり手伝いに来て、高橋さんと、身体のどこを支えるか話した。佳代は脚の方へ、私は肩の近くへ回るよう言われた。
私は膝をつき、軍服の下へ手を入れようとした。
死んだ人に触れたことがなかった。
手前に置かれた腕を避けようとすると、その指へ自分の指が当たった。昨日は椀を取ろうとしていた手だった。私は反射的に手を引いた。
「肩の下を支えて」
高橋さんが言った。
私はもう一度手を伸ばした。
軍服は汗と血を吸って湿っていた。肩を支えると、布の薄いところから身体の硬さが伝わった。顔を覆った布がずれ、頬の一部が見えた。黄色みのある皮膚に、乾いた血が赤茶色の筋を作っていた。
私はそこを見ないよう、手元へ目を落とした。
「いち、に」
合図に合わせて持ち上げた。
身体は私の腕へ、思っていたより重く落ちてきた。支えるために力を入れると、肩の位置が変わり、頭が横へ傾いた。高橋さんが首の下へ手を入れた。
脚の方で、佳代が息を詰めた。
「そのまま。もう少し」
私たちは担架へ身体を移した。
下ろし終わって手を抜くと、指の間に湿った感じが残っていた。私は両手を膝の上へ置きかけ、汚れた軍服に触れたことを思い出して止めた。
高橋さんが顔の布を直した。
兵隊は足元へ回り、担架の持ち手を確かめた。
「運ぶぞ」
私は佳代ともう一方の持ち手へついた。ひとりでは持ち上げられないので、同じ側を二人で支えた。
*
通路を進むと、何人かがこちらを見た。
横になっていた患者が頭を少し上げ、布を掛けられた顔へ目を向けた。すぐに顔を戻した人もいた。
私は持ち手から目を離せなかった。
歩くたびに重さが変わった。佳代と足が合わず、片側が低くなると、向こうの兵隊が止まるよう声を出した。
「揃えろ。落とすな」
「はい」
佳代が答えた。私も返事をし、持ち直した。
人を運ぶ練習では、横になった静子が毛布の端を掴んでくれた。揺れると自分で身体を直し、下ろしたあとには、落とさないでね、と笑った。
今、私たちが傾けても、この人は何もできなかった。
入口の近くで担架の端が柱へ当たり、私は足を止めた。兵隊が先を外へ出し、私たちは頭を屈めて続いた。
外の光が、覆われた顔と軍服を照らした。
壕の中では分からなかった血の跡が、腿の辺りに広がっていた。乾いた部分は黒ずみ、湿ったところは泥と混じって重い色になっていた。
私は目を戻し、足元を確かめた。
*
入口から離れたところに、遺体を置く場所があった。
土の窪みに沿って、何人もの身体が並んでいた。毛布に包まれた人も、軍服のままの人もいた。布の下から靴が出ているところには、蠅が止まり、近づくと低い羽音を立てて飛んだ。
先に、匂いが入ってきた。
壕の中の汗や糞尿とは違う、甘く重い臭気だった。腐ったものを熱のこもった場所へ置いたような匂いが、息を吸うと喉の奥まで残った。
私は唾を飲んだ。
ここまで運んできた人からだけではなかった。いつ置かれたのか分からない身体が、すぐ近くにあった。
毛布の端から出た手は膨らみ、指が太く見えた。袖口の近くを小さな蠅が歩き、別の一匹が頬の辺りへ潜った。顔を覆う布のない人は、口が少し開いていた。
私は佳代の方を見た。
佳代は口元を固く結び、担架の持ち手を握っていた。目だけが私へ向き、すぐに下へ戻った。
「下ろすぞ」
兵隊の声に、私たちは腰を曲げた。
持ち手が地面へつくまでのわずかな間、腕が震えた。下ろしてからも、指がすぐには開かなかった。
兵隊は高橋さんから預かった紙を確かめ、近くにいた別の兵隊へ渡した。
私たちは、その場で待っていた。
ここへ置いたあと、どうなるのかを聞きたかった。土を掛けるのか、誰かが名前を残すのか。けれど、遠くで爆発音がすると、兵隊は顔を上げた。
「戻るぞ」
空になった担架を指した。
私は並んだ身体へ、もう一度目を向けた。今運んできた人の顔の布が、風で少し動いていた。
*
帰り道、佳代が立ち止まった。
担架を下ろすと、道の端へ屈んだ。肩が何度も上下し、口から食べたものがこぼれた。
私は背中へ手を置いた。
佳代は吐き終えても起き上がれず、膝へ手をついたまま息をしていた。地面には薄い茶色の吐瀉物が広がり、その中に、朝食べたものの形が残っていた。
それを見た途端、私も喉が縮んだ。
私は佳代の背中から手を離し、少し脇へ向いた。口へ上がってきた酸っぱいものを吐くと、鼻にも入り、目から涙が出た。
兵隊は数歩先で止まっていた。
「済んだら来い。通り道を空けろ」
私は返事をしようとしたが、咳が出た。
佳代が袖で口を拭こうとしたので、私は首を振った。彼女の袖にも、さっき支えた軍服の汚れがついていた。
自分の布を出そうとして、私も手を止めた。
洗っていない手だった。
結局、佳代は唇を内側へ巻き込み、何度か唾を吐いた。私は鼻の下へ流れた涙を、肩のまだ汚れていないところへ押しつけた。
立ち上がると脚が震えた。
佳代と目が合い、私は小さく頷いた。二人で持ち手を拾い、空の担架を持ち上げた。
*
高橋さんに戻ったことを伝えると、手を洗い、少し座るよう言われた。
私たちは水のところへ行った。
指を擦ると、持ち手が食い込んだところが痛んだ。水に濡れた掌からは、身体を支えたときの汗と血の匂いがする気がした。
佳代は洗い終わってから、両手を広げていた。
「顔、拭きたい」
私は頷いた。
少し湿らせた布を渡すと、佳代は口元と鼻を押さえた。私も別の布で顔を拭いた。冷たさが気持ちよかったが、目を閉じると、外に並んでいた身体が浮かんだ。
荷物のところへ戻ると、夏子が佳代を見つけた。
「どこ行ってたの」
佳代は座り、すぐには答えなかった。
夏子が膝をついて顔を覗くと、佳代はその袖を掴んだ。
「外へ、運んだ」
夏子は私を見た。
私は頷いた。
それで、何を運んだのか分かったようだった。夏子は佳代の隣へ座り、掴まれた袖をそのままにした。
*
私は少し離れたところへ座った。
運んだ人の名前を聞いていなかった。
昨日、椀へ伸びた指のことも、今朝、顔へ布が掛かっていたことも覚えている。肩の下へ入れた自分の手が、どれだけ沈んだかも覚えていた。
けれど、その人を誰かに伝えようとしても、名前がなかった。
私は立ち上がり、高橋さんのところへ戻った。
「あの、さっきの人の名前……」
高橋さんは手元の仕事を止めず、私の声を聞いた。
「あとで確かめます。今、この布を持っていてください」
私は差し出された布を受け取った。
目の前では、別の患者が身体を動かせずにいた。毛布の脇から、血を吸った包帯が見えた。
私は布を両手で広げた。
さっきまで遺体を運んでいた腕が、また痛んだ。持つ位置を直し、落とさないように支えた。
名前を聞くために戻ってきたのに、もう、次の人のそばに立っていた。




