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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第52話 替えの布



 夜に運ばれてきた人たちのために、私たちは荷物をもう一度移した。


 寝るときに使っていた布を畳み、袋を壁際へ押し込んだ。さっきまで美咲が頭を置いていたところへ、担架が下ろされた。私の着替えがまだ端に残っていたので、身体の下へ入る前に引き抜いた。


 担架から移された兵隊は、肩で息をしていた。


 胸の上に当てられた布は血を吸い、灯りの下でも黒っぽく見えた。端のまだ乾いていないところだけが赤く光り、身体を動かすと、その下から血が細く流れた。


 私は着替えを抱えたまま立っていた。


「それを片づけて、灯りを持って」


 高橋さんに言われ、私は袋へ着替えを押し込んだ。小さな灯りを受け取り、指示されたところへ近づける。炎が揺れるたび、兵隊の顔と、高橋さんの手が明るくなったり暗くなったりした。


「もう少し、こちら」


 私は腕を伸ばした。


 血は、写真で見た一色ではなかった。布に吸われたところは暗く、皮膚に薄くついたところは赤茶色になっていた。新しく出てくる血は濡れた艶があり、拭われたあとにも、傷の周りへ溜まっていった。


 兵隊の唇が動いた。


 声を聞こうとして顔を近づけると、汗と血の匂いがした。濡れた軍服には土もついていて、胸元からは、むっとする酸っぱい匂いが上がってきた。


「お名前、言えますか」


 高橋さんが尋ねた。


 兵隊は何か答えたが、息の音に混じって聞き取れなかった。


 私の腕が震え、灯りが動いた。


「そこを照らしていて」


 私は反対の手で手首を支えた。腕が痛くなっても、下ろせなかった。


     *


 灯りを持つ仕事を代わってもらったあと、別の患者のところへ呼ばれた。


 美咲と幸子が、敷いた布を替える準備をしていた。私は新しい布を運び、壁際へ置いた。


 近づく前から、便の匂いがしていた。


 患者の足元には桶があったが、使うのが間に合わなかったのだと高橋さんが説明した。毛布をめくると、尻の下の布が茶色く汚れ、尿を吸ったところが濃く広がっていた。


 私は息を止めた。


 布の端を掴むと、湿った重さが手へ伝わった。乾いているところだけを持ったつもりだったが、折り返した内側まで濡れていた。


「顔の方へ、寄せないで」


 高橋さんの声に、私は腕を伸ばした。


 患者は顔を壁へ向けていた。片手で目元を覆い、私たちを見なかった。


「すまん」


 低い声がした。


 私は返事をしようと口を開いた。そこで息を吸ってしまい、便の匂いと、鼻の奥を刺すような尿の臭気が入ってきた。喉が勝手に縮まり、私は唇を強く閉じた。


 美咲が私を見た。


 私は首を小さく振った。大丈夫だと伝えたかったが、目に涙が溜まっていた。


「身体を支えます。布を抜いてください」


 高橋さんと幸子が患者を横へ向けた。私は美咲と端を持ち、汚れた面を内側へ折り込みながら引いた。布が身体の下から離れると、匂いがさらに強くなった。


 患者の脚が震えた。


「痛いですか」


 高橋さんが尋ねると、その人は頷いた。幸子が肩を支え直し、私は新しい布を美咲へ渡した。


 患者の身体を拭く間、私たちは毛布を持ち、必要なところ以外が隠れるようにした。


 顔を背けていた兵隊は、もう謝らなかった。目を閉じ、顎を引いていた。


 私は、さっき喉を詰まらせた音が聞こえていなければいいと思った。


     *


 汚れた布を運ぶ途中、幸子が桶を取りに行った。


 私と美咲は通路の脇で待った。布を持った腕を下ろしたかったが、自分の服へつけたくなくて、そのまま支えていた。


「重いね」


 美咲が言った。


 私は頷いた。


 布の重さだけではなかった。手を離せず、顔へ触れることもできず、息をするたびに匂いが入ってきた。


 幸子が戻ると、私たちは布を桶へ入れた。底へ落ちたときに湿った音がし、私は思わず後ろへ下がった。


 幸子は桶を持ち直した。


「私、向こうへ持っていく。二人は手を洗って」


「一緒に行くよ」


 私が言うと、幸子は首を振った。


「先に洗って。あとで、私も使いたいから」


 私たちは水のところへ行った。


 指の腹に、ぬるつく感じが残っていた。少しずつ水をかけ、掌と指の間を擦る。石鹸を使っても、爪の際の汚れはすぐには落ちなかった。


 私は何度も手の向きを変えた。


 後ろから人が来て、水を使いたいと言った。まだ洗い足りない気がしたが、私は脇へ寄った。


 美咲も濡れた手を持て余していた。拭く布を出そうとして鞄へ手を伸ばし、途中で止めた。


「この手で、触っていいのかな」


 私は答えられなかった。


     *


 四月に入って数日が過ぎると、通路の脇にも人が寝るようになった。


 昨日までは足を置けたところに、今日は毛布があった。壁に寄れば避けられた場所でも、患者の腕や脚が伸びていて、横向きになって通らなければならなかった。


 灯りを運ぶと、天井から落ちた水が額へ当たった。


 私は袖で拭きかけ、染みのあるところに気づいて腕を下ろした。髪の生え際を水が伝い、耳の脇へ落ちた。


 壕の匂いは、場所ごとに違っていた。


 傷の布を替えるところでは、血と、傷から出る濁った液の匂いがした。黄白色の膿が染みた布は、取り除かれても周りに臭気を残した。患者が何人もいるところには、汗と湿った衣服、排泄物の匂いが重なっていた。


 外から戻るたび、その空気に息が止まった。


 中にいると少し分からなくなり、また外へ出ると、自分の袖にも同じ匂いがついていることに気づいた。


 美咲の襟は汗で黒ずみ、幸子の袖口には洗っても落ちなかった茶色い跡があった。私の服にも血の染みが増え、乾いたところは硬くなっていた。


 着替えは袋にあった。


 けれど、脱いだものを十分に洗い、乾かして戻せるか分からず、私は袖を引くだけで済ませていた。


     *


 村田さんに食器を運んだとき、私はその顔を見て立ち止まった。


 頬の汗が乾き、唇の端に白く残っていた。昨日よりも、呼吸のたびに胸が大きく動いていた。


「食事です」


 声をかけると、村田さんは目を開けた。


「ああ」


 私は器を置く場所を確かめ、手の届くところへ寄せた。村田さんは肘をつこうとして、途中で顔を歪めた。


「看護婦さんを呼びます」


「忙しいだろう」


「でも、私だけじゃ……」


 村田さんは身体を戻した。


「じゃあ、待つ」


 私は頷き、高橋さんを探した。


 途中で別の患者に呼ばれた。桶を取ってほしいと言われ、置き場所へ行くと、使ったものが残っていた。


 私は足を止めた。


 これを片づけてからでなければ、渡せない。


 高橋さんを呼びたい人が、村田さんのところにも、ここにもいた。通路の先では、また新しく運ばれた人のために灯りが動いていた。


 私は幸子を見つけ、事情を伝えた。幸子は使い終わった桶を引き取り、私には別のものを示した。


「こっち、まだ使ってない」


「ありがとう」


「村田さんのこと、高橋さんに言っておく」


 私は桶を抱え、呼んだ人のところへ戻った。


 その人は額へ腕を載せ、歯を食いしばっていた。


「遅い」


「すみません」


 私は膝をついた。


 謝る言葉が、口を開くより先に出るようになっていた。


     *


 食事の時間になっても、私はすぐには食べられなかった。


 椀からは温かい匂いがしていた。それなのに、顔を近づけると、袖や胸元に染みついた便と汗の匂いが一緒に上がってきた。


 箸を持つ指を見た。


 洗ったはずだった。爪の下も擦り、掌のぬるつきもなくなっていた。それでも、口へ運ぶところを考えると手が止まった。


 千代が隣へ座った。


「食べないの?」


「食べる」


 私はひと口取った。噛むうちに、汚れた布を桶へ落とした音が蘇り、飲み込めなくなった。


 椀を置いて口元を押さえると、千代は何も言わず、身体を少しずらした。通路から私の顔が見えにくくなる位置だった。


 私はようやく飲み込み、何度か息をした。


「私も、最初、駄目だった」


 千代が小声で言った。


「桶を洗ったあと。手が、まだ汚れてる気がして」


 私は頷いた。


「今も、する?」


「するよ」


 千代は自分の箸を見た。


「でも、食べないと、桶も持てなくなる」


 私は椀を取り直した。


 次のひと口は、さっきより小さくした。匂いを避けようとしても、顔を向けられる場所はなかった。


 千代が隣で食べていた。


 私はその箸の動きを見ながら、ゆっくり噛み、飲み込んだ。


     *


 夜、横になる前に、美咲が私の襟元を指した。


「そこ、血がついてる」


 私は上着を引いて見た。首の近くに、小さな赤茶色の点があった。いつついたものか、思い出せなかった。


「もう乾いてるね」


 美咲はそう言い、手を戻した。


 私は襟を折った。硬くなった布が首へ当たらないようにしてから、丸めた着替えへ頭を載せた。


 患者の咳が聞こえた。


 少し離れたところで、誰かが桶を呼んでいた。看護婦の返事があり、そのあとにも声が続いた。


 私は自分の手を顔から離して置いた。


 目を閉じると、おばちゃんが洗って干してくれた服の匂いを思い出そうとした。陽に当たった布を頬へ寄せたときの、乾いた柔らかさ。


 けれど、息を吸うたびに、今着ている服の匂いがした。


 美咲が隣で寝返りを打った。布が擦れ、私の腕へ彼女の肩が触れた。


 私は少し身体を寄せた。美咲も同じ匂いのする服を着ていた。二人とも何も言わず、肩を触れさせたまま、次に呼ばれるまで目を閉じていた。

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