第51話 四月一日
四月になったことを、和子から聞いた。
朝の食事を受け取るために椀を出していると、和子が隣へしゃがみ、帳面の紙を膝に載せた。仕事を分けるときに使っている紙だった。昨日の名前の横に線を引き、新しい日付を書いた。
「今日から四月だね」
文子が言った。
「本当なら、もうすぐ二年生だね」
和子は頷いたが、鉛筆は止めなかった。
私は椀を持ったまま、紙の上を見ていた。
四月一日。
日記へ書いた数字だった。おばちゃんに預けた、あの頁にある。
「理恵、器、出して」
後ろから言われ、私は慌てて椀を差し出した。受け取った食事をこぼさないように膝へ載せたが、箸を持ってからも、和子が書いた日付が頭から離れなかった。
今日、米軍が沖縄本島へ上陸する。
壕の中では、誰かが咳をしていた。器を重ねる音がして、春子が清美へ何か頼んでいる。昨日と同じ場所で、昨日と同じように朝の仕事が始まっていた。
私はひと口食べた。
飲み込むまで、いつもより長くかかった。
*
その朝は、入口の方を通る人が多かった。
奥へ入ってくる兵隊が、途中で別の兵隊を呼び止めた。二人は顔を近づけて話し、すぐに離れた。何を言ったのかは聞き取れなかったが、片方は高橋さんを探していた。
私は棚の前で布を畳んでいた。
何度も同じ方へ目を向けたせいで、端を揃えたつもりの布が歪んでいた。美咲が隣から手を出し、角を合わせてくれた。
「眠れてない?」
「少しは寝た」
「私も」
美咲はそう言い、次の一枚を広げた。
私は入口の方へ、また顔を向けた。
上陸のことを話せば、今なら誰かが聞いてくれるだろうか。けれど、ここにいる人たちが、それを知らないとは限らなかった。私が知っているのは日付と、戦いが続くことだけだった。
どの道を通れば安全なのか。
誰を、どこへ連れていけば助けられるのか。
私の覚えている歴史には、書いていなかった。
*
昼に近づいた頃、兵隊の声が通路に響いた。
「上陸したそうだ」
私は手を止めた。
近くにいた人が場所を尋ねた。西の方の地名が幾つか聞こえたが、話はすぐに小声になった。
私は布を棚へ置き、文子を探した。
彼女は患者へ食器を運んでいた。私と目が合うと足を止めたが、持っている椀を見て、先に行くね、と口だけ動かした。
私はその背中を待った。
戻ってきた文子を壁際へ呼び、声を落とした。
「上陸したって」
文子は私を見た。
「今日……?」
私は頷いた。
文子の目が、私の顔から通路へ移った。そこを兵隊が通り過ぎると、彼女は私の近くへ寄った。
「理恵が言ってた日だね」
「うん」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
文子は両手を重ね、指を押さえていた。爪の脇に小さな傷があった。私はその手を見ながら、何か教えてあげなければと思った。
逃げる場所も、助かる方法も。
けれど、文子が聞いたのは別のことだった。
「千代と春子は、知ってる?」
「まだ、話してない」
「仕事が終わったら、一緒に話そう」
私は頷いた。
文子は私の袖へ触れた。
「今は、ここにいるから」
私は彼女の顔を見た。
「離れるとき、言ってね」
「うん。文子も」
二人で約束してから、私は棚へ戻った。
*
担架が運ばれてきたのは、そのあとだった。
入口の方で人を呼ぶ声がし、高橋さんが立ち上がった。私たちにも通路を空けるよう指示が出た。
担架を持った兵隊の息は荒かった。片方の人が足を滑らせ、もう一人が、止まれ、と声を出した。担架が傾き、載っていた人の腕が布から落ちた。
私は反射的に手を伸ばした。
その手首を支えると、指先が私の袖へ触れた。生温かいものが手の甲を伝った。
「下ろすぞ」
声がして、私は身体を引いた。
担架の上の人は、目を開けていた。泥のついた顔で天井の方を見て、口を動かしていたが、何を言っているのか分からなかった。
高橋さんが呼びかけ、別の看護婦が灯りを近づけた。
私は自分の手を見た。
赤いものが、手首までついていた。袖にも細く染みていた。
「寺田さん、布を持ってきて」
高橋さんの声に、私は顔を上げた。
「棚の上。畳んである方です」
分かっている場所だった。それなのに、最初の一歩が出なかった。
美咲が私の背中へ手を当てた。
「こっち」
私は彼女と一緒に棚へ行き、布を取った。さっき自分たちで畳んだものだった。抱えると、手の甲の汚れが触れそうになり、慌てて持つ位置を変えた。
戻ると、高橋さんはもう別の人へ指示を出していた。
私は布を差し出した。受け取られると、そこへ立ったままになった。
「次の人が来ます。脇へ」
言われて下がると、入口からまた声がした。
*
担架のそばから離れたあと、私は手を洗った。
水を少し使い、指を擦る。赤い色が薄くなり、桶へ落ちた。爪の際に残ったものを取ろうとして、ひび割れた皮膚へ爪を立ててしまった。
痛みで手を止めた。
袖の染みは、そのままだった。
私は布を濡らして押さえたが、周りへ広がるばかりだった。洗うのを諦め、袖を少し折り返した。
すぐ近くで、知らない兵隊が、どこから運ばれたのかと尋ねていた。答える声には、私の聞き覚えのない地名が混じっていた。
私はその話を聞こうとした。
どこで傷ついたのか分かれば、今日の上陸と何かがつながる気がした。けれど、担架で来た人の名前も、所属も、私にはまだ分からなかった。
分かるのは、腕を支えたときに、その人の指が動いたことだった。
*
夕方、春子と千代が荷物のところへ戻ってきた。
春子は椀を置くなり、炊事場の方を振り返った。
「また呼ばれるかもしれない。先に食べよう」
千代も座ったが、片方の履物を脱ぎ、足の指を動かしていた。
私は二人へ上陸の話をした。
春子は箸を止め、千代は履物の紐を持ったまま顔を上げた。
「聞いたよ。向こうでも話してた」
春子が言った。
千代は、私の袖へ目を向けた。
「それ、どうしたの」
「運ばれてきた人の腕を、支えたときに」
「理恵の怪我じゃないんだね」
「うん」
千代は頷き、紐を結び直した。
私は二人が何か尋ねるのを待った。これからどうなるのか、知っているなら話してと言われると思った。
けれど、春子は椀を持ち直した。
「今日、清美が鍋を代わってくれたの」
「手が痛いから?」
文子が尋ねた。
「うん。でも、清美も疲れてる。次は私が持つって言った」
春子は食べながら、指の付け根を見た。
「理恵も、食べなよ。冷めるから」
私は自分の椀へ目を落とした。
上陸した日にも、ご飯を食べなければならなかった。水を運び、器を洗い、汚れた布を片づける。止められない仕事が、私たちの周りにあった。
*
夜になってからも、入口で声がした。
私は布へ横になったところだったが、起き上がった。美咲も顔を上げ、二人で通路の方を見た。
灯りが動いていた。
誰かが場所を空けるよう言い、桶を引きずる音が続いた。私は膝を伸ばしかけた姿勢のまま待った。
高橋さんが私たちを呼んだ。
「手の空いている人、来てください」
私は立った。
美咲が後ろへ続いた。肩が触れ、彼女が先に通れるよう身体をずらしたところで、自分の袖が目に入った。
折り返した内側に、昼の染みが残っていた。
私は袖を引き直し、灯りの方へ歩いた。四月一日が終わる前に、また、覚えなければならない人が運ばれてきていた。




