第50話 外へ出る仕事
壕へ来てから何日経ったのか、私は指を折って数えた。
朝の食事を受け取った回数と、夜、布の上へ横になった回数が、途中から合わなくなっていた。眠ったと思ったら仕事に呼ばれ、戻って横になると、また起こされる。短く目を閉じた時間を、一晩として数えていたのかもしれなかった。
和子に尋ねると、三月の終わりに近づいていると教えてくれた。
「帳面につけてるの?」
「日にちだけ。忘れそうになるから」
和子は袋から小さな紙を出した。端に数字が並び、その隣には、生徒の名前と仕事が書いてあった。
私は今日の数字を覚えようとして、もう一度聞いた。
四月一日まで、あと少しだった。
その日を知っていることと、今日を間違えずに過ごすことは、別のことだった。
*
水を運ぶ手伝いに呼ばれたとき、千代が私の顔を見た。
「持てそう?」
「うん。二人で持つんでしょう」
「重かったら、途中で言って」
空の桶でも、持ち手は掌へ固く当たった。千代と片側ずつ持ち、通路を進んだ。向こうから人が来ると桶を下ろして壁へ寄り、過ぎてからまた持ち上げる。
外へ出ると、私は思わず顔を上げた。
空が見えた。
明るさに目が慣れるまで待ちたかったが、千代は先へ進んでいた。私は桶を引かないよう歩き、息を大きく吸った。壕の中で胸につかえていた匂いが少し薄れた。
井戸へ向かう道には、土を踏み固めたところと、足が沈むところがあった。千代は戻るときに躓きそうな石を避け、私にも場所を教えた。
「水が入ったら、下ばかり見てられないから」
私は頷き、曲がり角と木の位置を確かめた。
先に着いていた静子が、私たちの桶を受け取った。水を入れてもらう間、私は指を開いたり閉じたりした。
近くにいた兵隊が、空を見た。
私もつられて見上げたが、何も見つけられなかった。
音だけが聞こえていた。
*
最初の爆発は、遠かった。
空気の奥で低く鳴り、少し遅れて足元へ震えが伝わった。私は桶の持ち手から手を離した。
静子が井戸の方へ顔を向けた。水を汲んでいた人も手を止めたが、すぐにまた動き始めた。
「早く戻ろう」
千代が言った。
私は持ち手を握り直した。二人で持ち上げると、桶の中で水が片側へ寄った。空のときとは違い、腕を下ろしただけでは支えられなかった。
歩き始めて間もなく、もう一度、音がした。
今度は、千代の肩が跳ねた。
私も身体を屈め、水が縁からこぼれた。反射的に桶を持ち上げようとして、掌へ持ち手が食い込んだ。
「下ろそう」
千代の声で、二人とも腰を曲げた。
地面へ置いた途端、近くの兵隊が叫んだ。
「伏せろ!」
私は膝をつき、千代に腕を引かれて道の脇へ身体を倒した。頬のそばに草があり、湿った土の匂いが鼻へ入った。
音が重なった。
どこへ落ちたのか、分からなかった。顔を上げるのが怖く、私は頭を腕の間へ入れた。地面から胸へ響き、奥歯が当たった。
千代の袖を掴んでいた。
もう片方の手は、桶へ伸ばしたままになっていた。指を引き寄せ、身体の下へ入れた。
*
顔を上げたとき、道の向こうで土埃が動いていた。
井戸の方にいた人たちの姿が、低くなっていた。誰かがこちらへ手を振り、壕へ戻るよう声を出した。
私は立とうとして、膝が滑った。
千代が先に起き上がり、私の腕を持った。身体を起こすと、桶が目に入った。倒れてはいなかったが、水面がまだ揺れていた。
「置いていく?」
私は千代へ尋ねた。
千代は入口の方と桶を交互に見た。
「持てるなら、持とう」
私は頷いた。
持ち上げると、水が減った分だけ軽かった。そのことにほっとした直後、こぼした量が気になった。
千代は何も言わず、歩き始めた。
私たちは足を速めたが、走ると水が揺れた。千代の肘が何度も動き、桶を水平に戻そうとしていた。
また音がするのではないかと思うと、足元から目を離せなかった。けれど、見ていたはずの石へ爪先をぶつけ、私は桶を傾けた。
「止まって」
千代が言った。
二人で持ち直した。私は謝ろうとして息を吸ったが、胸がうまく広がらなかった。
「あと少し」
千代は入口を見ていた。
私はそこまでの道だけを見て歩いた。
*
壕の入口で、兵隊が桶を受け取った。
「これだけか」
水面を見て言った。
私は千代の隣で立っていた。掌には持ち手の跡が残り、膝の布が濡れていた。
「途中で、伏せたので」
千代が答えた。
兵隊は私たちの脚を見たあと、桶を奥へ運んだ。
「次は、こぼさんようにしろ」
私は返事をしなければと思ったが、その背中へ声をかけられなかった。
中へ入ると、暗さで千代の顔が見えなくなった。私は手を伸ばし、彼女の袖へ触れた。
「千代」
「うん」
「ごめん。私、石に……」
「私もこぼしたよ」
千代はそう答え、壁際で足を止めた。
「手、痛い?」
私は掌を見せた。灯りの遠いところでは、赤くなった線は見えなかった。
千代は自分の手も開き、指を曲げた。
「少し待ってから、戻ろう」
私たちは壁へ寄り、通る人を避けた。
外で倒れていたときは、壕へ入れば助かると思っていた。入口が見えたときには、そこへ辿り着くことしか考えられなかった。
今は、奥へ運ばれた桶を見ていた。
命じられた仕事は、終わったのだろうか。減った水を、もう一度汲みに行かなければならないのだろうか。
尋ねる相手を探しながら、私はまだ鳴っていない次の音を待っていた。
*
高橋さんは、私たちの膝を見て事情を聞いた。
千代が答える間、私は持ち手を握った指が開きにくいことを伝えた。高橋さんは順に手を見て、擦れて皮が剥けたところがないか確かめた。
「今は、こちらの仕事をしてください」
布を運ぶよう言われ、私は頷いた。
身体を動かしている方が、立ったまま外の音を聞くよりは楽だった。けれど、通路を歩くたびに桶の重さが腕へ戻ってくるようで、何度も指を開いた。
村田さんのそばを通ると、声をかけられた。
「外へ行ってたのか」
「水を汲みに」
「艦砲か」
私は顔を上げた。
村田さんは入口の方へ目を向けていた。
「海から撃ってくる。ここからじゃ、見えんだろうが」
私はさっきの音を思い返した。
船も、砲も見ていなかった。空を見上げても、何も分からなかった。ただ、地面へ伏せ、千代の袖を掴んでいた。
「また、来ますか」
尋ねると、村田さんは私を見た。
すぐには答えなかった。
「音がしたら、身体を低くしろ。外では、ぼうっと立つなよ」
私は頷いた。
また来るかどうかの答えは、もらえなかった。それでも、私が立ったまま固まったことを、この人は見ていないのに知っているようだった。
*
休める時間になり、私は文子の隣へ座った。
文子は私の膝についた土を見た。袖にも草の切れ端が絡んでいたので、一本ずつ取ってくれた。
「怪我は?」
「してない」
「千代も?」
「うん」
文子はそこでようやく手を止めた。
私は水筒を出し、栓を開けた。少し飲むと、乾いた口の中に水が広がった。飲み込んでから、さっき運んだ桶を思い出した。
この水がなくなれば、また外へ出なければならない。
私は栓を閉め、膝へ置いた。
「理恵」
文子が小さく呼んだ。
「飲んでいいんだよ」
「うん」
そう答えたのに、もう一度開けることはできなかった。
近くで春子が、次の食事に使う器を数えていた。清美が横から指を差し、ひとつ数え落としていると教えた。二人は最初から数え直し、終わると立ち上がった。
水も、食事も、誰かが外へ出て運んでいた。
私は水筒を荷物へ戻した。次に呼ばれたとき、また立てるだろうか。千代の隣で、持ち手を握れるだろうか。
入口の方から足音が近づいた。
私は顔を上げ、自分の名前が呼ばれるかどうかを聞いていた。




