↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/124

第50話 外へ出る仕事



 壕へ来てから何日経ったのか、私は指を折って数えた。


 朝の食事を受け取った回数と、夜、布の上へ横になった回数が、途中から合わなくなっていた。眠ったと思ったら仕事に呼ばれ、戻って横になると、また起こされる。短く目を閉じた時間を、一晩として数えていたのかもしれなかった。


 和子に尋ねると、三月の終わりに近づいていると教えてくれた。


「帳面につけてるの?」


「日にちだけ。忘れそうになるから」


 和子は袋から小さな紙を出した。端に数字が並び、その隣には、生徒の名前と仕事が書いてあった。


 私は今日の数字を覚えようとして、もう一度聞いた。


 四月一日まで、あと少しだった。


 その日を知っていることと、今日を間違えずに過ごすことは、別のことだった。


     *


 水を運ぶ手伝いに呼ばれたとき、千代が私の顔を見た。


「持てそう?」


「うん。二人で持つんでしょう」


「重かったら、途中で言って」


 空の桶でも、持ち手は掌へ固く当たった。千代と片側ずつ持ち、通路を進んだ。向こうから人が来ると桶を下ろして壁へ寄り、過ぎてからまた持ち上げる。


 外へ出ると、私は思わず顔を上げた。


 空が見えた。


 明るさに目が慣れるまで待ちたかったが、千代は先へ進んでいた。私は桶を引かないよう歩き、息を大きく吸った。壕の中で胸につかえていた匂いが少し薄れた。


 井戸へ向かう道には、土を踏み固めたところと、足が沈むところがあった。千代は戻るときに躓きそうな石を避け、私にも場所を教えた。


「水が入ったら、下ばかり見てられないから」


 私は頷き、曲がり角と木の位置を確かめた。


 先に着いていた静子が、私たちの桶を受け取った。水を入れてもらう間、私は指を開いたり閉じたりした。


 近くにいた兵隊が、空を見た。


 私もつられて見上げたが、何も見つけられなかった。


 音だけが聞こえていた。


     *


 最初の爆発は、遠かった。


 空気の奥で低く鳴り、少し遅れて足元へ震えが伝わった。私は桶の持ち手から手を離した。


 静子が井戸の方へ顔を向けた。水を汲んでいた人も手を止めたが、すぐにまた動き始めた。


「早く戻ろう」


 千代が言った。


 私は持ち手を握り直した。二人で持ち上げると、桶の中で水が片側へ寄った。空のときとは違い、腕を下ろしただけでは支えられなかった。


 歩き始めて間もなく、もう一度、音がした。


 今度は、千代の肩が跳ねた。


 私も身体を屈め、水が縁からこぼれた。反射的に桶を持ち上げようとして、掌へ持ち手が食い込んだ。


「下ろそう」


 千代の声で、二人とも腰を曲げた。


 地面へ置いた途端、近くの兵隊が叫んだ。


「伏せろ!」


 私は膝をつき、千代に腕を引かれて道の脇へ身体を倒した。頬のそばに草があり、湿った土の匂いが鼻へ入った。


 音が重なった。


 どこへ落ちたのか、分からなかった。顔を上げるのが怖く、私は頭を腕の間へ入れた。地面から胸へ響き、奥歯が当たった。


 千代の袖を掴んでいた。


 もう片方の手は、桶へ伸ばしたままになっていた。指を引き寄せ、身体の下へ入れた。


     *


 顔を上げたとき、道の向こうで土埃が動いていた。


 井戸の方にいた人たちの姿が、低くなっていた。誰かがこちらへ手を振り、壕へ戻るよう声を出した。


 私は立とうとして、膝が滑った。


 千代が先に起き上がり、私の腕を持った。身体を起こすと、桶が目に入った。倒れてはいなかったが、水面がまだ揺れていた。


「置いていく?」


 私は千代へ尋ねた。


 千代は入口の方と桶を交互に見た。


「持てるなら、持とう」


 私は頷いた。


 持ち上げると、水が減った分だけ軽かった。そのことにほっとした直後、こぼした量が気になった。


 千代は何も言わず、歩き始めた。


 私たちは足を速めたが、走ると水が揺れた。千代の肘が何度も動き、桶を水平に戻そうとしていた。


 また音がするのではないかと思うと、足元から目を離せなかった。けれど、見ていたはずの石へ爪先をぶつけ、私は桶を傾けた。


「止まって」


 千代が言った。


 二人で持ち直した。私は謝ろうとして息を吸ったが、胸がうまく広がらなかった。


「あと少し」


 千代は入口を見ていた。


 私はそこまでの道だけを見て歩いた。


     *


 壕の入口で、兵隊が桶を受け取った。


「これだけか」


 水面を見て言った。


 私は千代の隣で立っていた。掌には持ち手の跡が残り、膝の布が濡れていた。


「途中で、伏せたので」


 千代が答えた。


 兵隊は私たちの脚を見たあと、桶を奥へ運んだ。


「次は、こぼさんようにしろ」


 私は返事をしなければと思ったが、その背中へ声をかけられなかった。


 中へ入ると、暗さで千代の顔が見えなくなった。私は手を伸ばし、彼女の袖へ触れた。


「千代」


「うん」


「ごめん。私、石に……」


「私もこぼしたよ」


 千代はそう答え、壁際で足を止めた。


「手、痛い?」


 私は掌を見せた。灯りの遠いところでは、赤くなった線は見えなかった。


 千代は自分の手も開き、指を曲げた。


「少し待ってから、戻ろう」


 私たちは壁へ寄り、通る人を避けた。


 外で倒れていたときは、壕へ入れば助かると思っていた。入口が見えたときには、そこへ辿り着くことしか考えられなかった。


 今は、奥へ運ばれた桶を見ていた。


 命じられた仕事は、終わったのだろうか。減った水を、もう一度汲みに行かなければならないのだろうか。


 尋ねる相手を探しながら、私はまだ鳴っていない次の音を待っていた。


     *


 高橋さんは、私たちの膝を見て事情を聞いた。


 千代が答える間、私は持ち手を握った指が開きにくいことを伝えた。高橋さんは順に手を見て、擦れて皮が剥けたところがないか確かめた。


「今は、こちらの仕事をしてください」


 布を運ぶよう言われ、私は頷いた。


 身体を動かしている方が、立ったまま外の音を聞くよりは楽だった。けれど、通路を歩くたびに桶の重さが腕へ戻ってくるようで、何度も指を開いた。


 村田さんのそばを通ると、声をかけられた。


「外へ行ってたのか」


「水を汲みに」


「艦砲か」


 私は顔を上げた。


 村田さんは入口の方へ目を向けていた。


「海から撃ってくる。ここからじゃ、見えんだろうが」


 私はさっきの音を思い返した。


 船も、砲も見ていなかった。空を見上げても、何も分からなかった。ただ、地面へ伏せ、千代の袖を掴んでいた。


「また、来ますか」


 尋ねると、村田さんは私を見た。


 すぐには答えなかった。


「音がしたら、身体を低くしろ。外では、ぼうっと立つなよ」


 私は頷いた。


 また来るかどうかの答えは、もらえなかった。それでも、私が立ったまま固まったことを、この人は見ていないのに知っているようだった。


     *


 休める時間になり、私は文子の隣へ座った。


 文子は私の膝についた土を見た。袖にも草の切れ端が絡んでいたので、一本ずつ取ってくれた。


「怪我は?」


「してない」


「千代も?」


「うん」


 文子はそこでようやく手を止めた。


 私は水筒を出し、栓を開けた。少し飲むと、乾いた口の中に水が広がった。飲み込んでから、さっき運んだ桶を思い出した。


 この水がなくなれば、また外へ出なければならない。


 私は栓を閉め、膝へ置いた。


「理恵」


 文子が小さく呼んだ。


「飲んでいいんだよ」


「うん」


 そう答えたのに、もう一度開けることはできなかった。


 近くで春子が、次の食事に使う器を数えていた。清美が横から指を差し、ひとつ数え落としていると教えた。二人は最初から数え直し、終わると立ち上がった。


 水も、食事も、誰かが外へ出て運んでいた。


 私は水筒を荷物へ戻した。次に呼ばれたとき、また立てるだろうか。千代の隣で、持ち手を握れるだろうか。


 入口の方から足音が近づいた。


 私は顔を上げ、自分の名前が呼ばれるかどうかを聞いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。