第49話 名前を聞く
朝になったことは、身体を揺すられて知った。
目を開けても、灯りの届くところと暗がりの境は昨夜と変わらなかった。私は美咲の手をまだ握っていた。どちらからともなく指をほどき、起き上がろうとして、腰の痛みに顔をしかめた。
「痛い?」
美咲が尋ねた。
「少し。美咲は?」
「肩が」
私たちは互いの荷物を避けながら、脚を伸ばした。膝が固まり、立つまでに時間がかかった。昨夜取り除いたはずの石とは別のものが、布の下で腰へ当たっていた。
入口の方では、和子が皆を起こしていた。
「清美、起きて。春子も」
「起きてる」
春子は返事をしたが、顔は伏せたままだった。清美が肩を押すと、ようやく身体を起こした。
私は履物を探し、紐を結んだ。昨日まで、朝にはおばちゃんが湯を沸かす音がしていた。ここで聞こえるのは咳と靴音で、まだ眠っている人のすぐそばを、桶を持った人が通っていった。
*
朝の食事を終えると、高橋さんが仕事を分けた。
春子と清美は炊事へ、千代と静子は水を運ぶ手伝いへ行った。私と美咲は、患者のいるところへ来るよう言われた。
昨日、布を替えた兵隊が目を開けていた。
高橋さんが顔を覗き込み、具合を尋ねる。その人は昨夜あまり眠れなかったと答え、私たちの方へ目を向けた。
「昨日の子か」
「はい」
私は膝をついた。
高橋さんは私たちへ、器を持つことや、身体を支えることを順に説明した。勝手に水を飲ませないよう、もう一度念を押したあと、奥で呼ばれて立ち上がった。
「ここで少し待っていてください」
私たちは返事をした。
兵隊の手が毛布の上で動いた。端を引こうとしていたので、私は少し近づいた。
「ここ、直しますか」
「ああ。足の方」
私は顔を見てから、毛布を伸ばした。下にある脚の形を確かめるのが怖く、布の表面だけを見ていた。
「ありがとう」
その声に、私は顔を上げた。
兵隊は私の手を見ていた。
「学校から来たんだろう」
「汐見女学校です」
「名前は?」
「寺田理恵です」
隣で美咲も名乗った。兵隊は二人の名前を小さく繰り返した。
「俺は、村田。村田正雄」
私は頷いた。
名前を聞いた途端、その人の顔が、昨日よりよく見えた気がした。汗をかいた額も、伸びたひげも同じだったが、看護婦を呼んでいた兵隊は、村田さんという人になった。
「お二人とも、眠れたか」
私が答えに迷っていると、美咲が、少し、と言った。
「下が硬いからな」
村田さんはそう言って、目を閉じた。
私は膝の下の土を見た。眠れなかったことを知っている人が、この毛布の上にもいるのだった。
*
別の場所へ呼ばれたとき、私は村田さんへ、行ってきます、と言いかけた。
病院の仕事の途中で、その言葉はおかしいように思い、結局、頭を下げただけだった。
高橋さんのそばには、桶と小さな器が置かれていた。横になっている患者は、顔をこちらへ向けようとして、途中で眉を寄せた。
「寺田さん、その器を持って」
私は受け取り、言われた位置へ置いた。
高橋さんは患者へ声をかけ、身体を支えた。私は手元を見ようとしたが、毛布がめくられたところで息を止めた。
汚れた布の向こうに、赤黒いところが見えた。
写真で見た傷とは違った。そこに身体があり、動くたびに声が出た。近づくと匂いも分かった。私は器を持つ手へ力を入れたが、指が小さく震え、縁が傾いた。
「もう少し、下へ」
高橋さんが言った。
私は動かそうとした。けれど、どこへ下げれば傷へ触れずに済むのか分からず、手が止まった。
患者が私を見た。
「何やってる。早くしろ」
声は大きくなかった。それでも、私は肩をすくめた。
器を下げると、中のものが揺れた。こぼしそうになり、高橋さんが手を添えた。
「ここで支えて。私の手と一緒に」
私は頷いた。
患者は目を閉じ、歯を食いしばった。高橋さんが布へ触れるたび、喉の奥から押し潰したような声が出た。
私はその顔と、高橋さんの手元を交互に見ていた。器を支えているだけなのに、逃げ出したかった。ここから手を離せば、患者の痛みも声も、私から遠くなるような気がした。
「そのまま」
高橋さんの声がした。
私は両手で器を持ち直した。
*
処置が終わり、器を下ろしたあとも、腕の震えは止まらなかった。
高橋さんは使ったものを分け、私へ運ぶ場所を示した。私は返事をしたつもりだったが、声が出ていなかった。
「寺田さん」
もう一度呼ばれ、顔を上げた。
「気分が悪い?」
「……少し」
「いったん離れて。上原さん、代わってください」
美咲が私の手から器を受け取った。
私は通路へ出た。立っていると膝が抜けそうで、壁際へしゃがんだ。息を吸っても匂いが残り、口の中へ唾が溜まった。
吐いたら、ここを汚してしまう。
そう思い、口元を押さえた。人が通るたびに身体を縮め、下を向いて息を吐いた。
靴が目の前で止まった。
「どうした」
兵隊の声だった。
私は顔を上げた。見知らぬ人が、肩に荷を載せてこちらを見ていた。
「気分が……」
「そこで座られたら通れん」
私は立とうとした。手を壁につき、片脚を引いたが、すぐには起き上がれなかった。
兵隊が息を吐いた。
「休むなら、脇へ行け」
私は頭を下げ、立ち上がった。身体を横へずらすと、その人は荷を持ち直して通り過ぎた。
怒鳴られたわけではなかった。
それでも、私は自分の膝を叩くように押さえた。立てなかったことまで、見られたくなかった。
*
荷物のところへ戻ると、文子がいた。
私を見るなり立ち上がり、場所を空けた。
「どうしたの。顔、白いよ」
「ちょっと、気持ち悪くなった」
座ると、文子は私の背中へ手を当てた。何があったか尋ねず、私が息を整えるまで待っていた。
私はようやく顔を上げた。
「怪我を、見たの」
文子の手が止まった。
「うん」
「習ったときは、大丈夫だった。身体の絵も、器具も、見られたのに」
言葉が続かず、私は膝の上で指を握った。
「本当に痛がってる人がいたら、手が動かなかった」
文子は私の指を見たあと、近くに置いてあった布を寄せた。
「少し、ここにいよう」
「仕事、代わってもらっちゃった」
「戻れるようになったら、戻ればいいよ」
私は頷いた。
文子の言う通りにしたかった。けれど、その戻れるようになるときが、いつなのか分からなかった。
*
美咲が来たのは、しばらくしてからだった。
私は先に謝った。
「ごめん。全部、やってもらって」
「高橋さんと一緒だったから」
美咲は私の隣へ座り、袖を少し引き下げた。
「理恵、もう大丈夫?」
「うん。戻る」
立ちかけた私へ、美咲が手を伸ばした。
「少しだけ、待って」
私は座り直した。
美咲は下を向いていた。髪の間から耳が見え、その下に汗が残っていた。
「私も、今、ちょっと」
小さな声だった。
私は自分が座っていた布をずらし、美咲の背中を壁から離した。文子が荷物を寄せ、彼女が身体を預けられるところを作った。
美咲は目を閉じた。
器を引き取ってくれたときには、平気なのだと思っていた。返事をして、そのまま仕事を続けたから。
私はその肩へ手を置いた。
「ここにいて。私、戻ってくる」
美咲は目を開け、私を見た。
「大丈夫?」
「布を畳む仕事なら、できると思う。高橋さんに聞いてくる」
私は立ち上がった。まだ脚に力が入りきらなかったが、今度は壁へ寄りかからずに歩けた。
通路へ出る前に振り返ると、文子が美咲の隣へ座っていた。
私は二人の場所を確かめ、灯りの方へ向かった。
*
高橋さんは、私に布を畳ませた。
誰がどこで休んでいるかを伝えると、分かりました、と答えた。私は棚のそばへ座り、一枚ずつ端を揃えた。
少し離れたところに、村田さんがいた。
「戻ったのか」
声をかけられ、私は顔を上げた。
「はい」
「忙しいな」
私は何と答えればいいか分からず、手元の布を見た。
村田さんはそれ以上尋ねなかった。毛布の上で指を動かし、届くところの端を自分で直した。
私は畳んだ布を積み重ねた。
さっき器を支えた手で、今は皺を伸ばしていた。できなかったことを思い出すと指が止まりそうになったが、次の一枚を膝へ広げた。
村田さんが咳をした。
私は顔を上げ、高橋さんが近くにいることを確かめた。それからまた布へ目を戻した。
名前を聞いた人が、そこにいた。
隣で休んでいる友達にも、戻ると約束していた。
私は布の端を揃え、もう一度折った。




