第48話 眠る場所
高橋さんに呼ばれたのは、椀の袋を荷物へ戻した直後だった。
「寺田さんと、上原さん。こちらへ来てください」
美咲が立ち、私もそのあとに続いた。通路へ出る前に裾を払ったが、膝についた湿った土は落ちなかった。
高橋さんは灯りの近くで足を止め、横になっている兵隊を示した。
「身体の下に敷いた布を替えます。私が支えるので、言ったときに抜いて、新しい方を入れてください」
兵隊は毛布の上からこちらを見た。私たちより年上だったが、おばちゃんの店に来ていた男の人たちほどではなかった。唇が乾き、顎の下に汗が光っていた。
「少し横を向きますよ」
高橋さんが声をかけると、その人は目を閉じた。
私は畳んだ布を受け取った。美咲が反対側へ回り、高橋さんの手元を見ていた。
身体が少し持ち上がると、下の布が見えた。汗で色が変わり、腰の辺りに濃い染みがあった。
「今、抜いて」
美咲が端を掴んだ。すぐには動かず、もう一度引こうとしたとき、兵隊が息を詰めた。
「待って」
高橋さんの声に、美咲の手が止まった。
私は新しい布を持ったまま、兵隊の顔を見ていた。閉じた瞼の下で目が動き、口の端が引きつっていた。身体を少し動かすだけで痛むのだと分かったが、どこが、どのくらい痛いのかは分からなかった。
高橋さんが支える位置を直した。
「もう少しだけ。ゆっくり」
今度は布が抜けた。
私が差し入れる番だった。けれど、畳んだところが身体の下で引っかかり、うまく広がらなかった。高橋さんの腕に力が入っているのが見えた。
「端を、こちらへ」
私は布を引いた。兵隊が低く呻き、手近な毛布を掴んだ。
「急がなくていい。平らにして」
言われた通りに端を伸ばしたつもりだったが、高橋さんは最後に手を入れ、残った皺を直した。
身体が元の位置へ戻ると、兵隊の息が少しずつ長くなった。私は布から手を離し、両手を膝の前で握った。
「すみません」
兵隊へ向けた声だった。
その人は目を開け、私を見たあと、高橋さんの方へ顔を向けた。
「水は、まだか」
「確認してきます。少し待ってください」
高橋さんは毛布を掛け直した。私は謝ったことへの返事を待っていた自分に気づき、顔を下げた。
この人は今、私のことを考えている余裕などないのだった。
*
汚れた布は、決められた桶へ運んだ。
美咲と二人で端を持っていたが、通路を人が通るたびに片側へ寄らなければならなかった。布を身体へつけないようにすると腕が伸び、今度は向こうから来る人の邪魔になった。
桶へ入れたところで、私はようやく息を吐いた。
「手、洗おう」
美咲が言った。
水を少しずつ使い、指の間を擦った。爪の脇のひびに水がしみた。
「さっき、痛そうだったね」
私が言うと、美咲は頷いた。
「抜いたらいいと思って、引いちゃった」
「私も、布、引っかけた」
二人とも、洗い終わってからもしばらく自分の手を見ていた。
教室では、相手が痛いと言えば止めて、最初からやり直せた。ここでは、やり直す間にも、その人は痛みに耐えなければならなかった。
高橋さんが戻ってきて、桶の置き方を確かめた。
「次は、使う布を畳んでください。棚の上のものです」
私たちは返事をした。
休んでからではなく、そのまま次の仕事が始まった。
*
夕方になったことは、入口から戻った千代に教えられた。
「外、もう暗くなってきた」
私は布を畳む手を止めた。
壕の中の灯りは、来たときと同じように揺れていた。ここにいると、時間は誰かが言うことや、食事が来ることでしか分からなかった。
春子は炊事を手伝っていた。清美と一緒に戻ってきたときには、額の髪が汗で貼りつき、袖口に灰がついていた。
「鍋、重かった」
春子は腰を下ろし、両手を広げた。指の付け根が赤くなっていた。
「二人で持ったの?」
「途中から、清美も」
「最初から呼べばいいのに」
清美が隣へ座った。
「呼んだでしょう」
「持ち上げてからね」
春子は言い返そうとしたが、息を吐いて、次は先に呼ぶ、と言った。清美はそれ以上責めず、春子の袋を近くへ引き寄せた。
食事が配られると、私たちは自分の椀を出した。
私は受け取ったものを見てから、周りを見た。すぐに食べ始めた子も、箸を持ったまま座る場所を探す子もいた。量を比べているのが分からないように、私は椀を胸元へ寄せた。
朝から歩き、働いていた。食べ始めると、まだ飲み込む前に次のひと口を取ろうとしていた。
「ゆっくり」
文子が小声で言った。
私は箸を止めた。
「うん」
文子も自分の椀へ目を落とした。その縁を持つ指が、薄い灯りの中で白く見えた。
*
寝る場所へ案内されたときには、もう脚が重かった。
患者のいる場所とは別の、狭いところだった。荷物を奥へ寄せ、身体を横にできる幅を作るように言われた。
私は袋を持ってしゃがみ、湿りの少ないところを探した。どこにも乾いた土ばかりがあるわけではなかった。持ってきた布を敷くと、すぐに下の凹凸が手へ伝わった。
「こっち、石がある」
文子が膝をついたまま言った。
千代が拾い、壁際へ置いた。もうひとつ見つけて取り除いたが、大きく埋まったものは動かなかった。
「頭、反対にしよう」
千代が布を持ち直した。
横になると、隣の子の肘がすぐそばにあった。私は腕を胸の前へ寄せ、膝を曲げた。袋を頭の下へ入れてみたが、椀の固いところが当たり、結局、着替えだけを取り出して丸めた。
美咲が何度も身体の向きを変えていた。
「痛い?」
尋ねると、美咲は腰の辺りを押さえた。
「下が、硬くて」
私は自分の布を少し寄せた。重ねられたのは端の方だけだったが、美咲はそこへ肩を移し、ありがとう、と言った。
周りでも、荷物を動かす音や、布を引く音が続いていた。誰かが寝る場所をずらすと、隣も身体をずらさなければならなかった。
島袋先生が入口の方から、静かに休みなさい、と声をかけた。
私は目を閉じた。
眠る場所が決まれば、少しは安心できると思っていた。けれど、土の冷たさが服を通して背中へ伝わり、脚を伸ばすこともできなかった。
昨夜は、おばちゃんの手を握っていた。
そのことを思い出すと、胸が詰まった。泣けば、すぐ隣にいる美咲に分かってしまう。私は口を閉じ、鼻から少しずつ息を吸った。
*
眠りかけるたび、通路の音で目が覚めた。
靴音が近づき、止まり、誰かが呼ばれる。桶の縁が何かに当たった。奥から咳が続き、そのあと低い呻き声が聞こえた。
声がする方へ行った方がいいのか迷ったが、誰が呼ばれているのかも分からなかった。私は目を開けたまま待ち、高橋さんの返事を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
しばらくして、美咲が起き上がった。
「どこへ行くの?」
「お手洗い」
私も行きたかった。けれど、さっき教わった道を暗い中で辿れるか心配で、我慢していた。
「一緒に行く」
私たちは隣の子を起こさないように脚を抜き、荷物を跨いだ。履物を探す手が文子の布に触れ、文子が顔を上げた。
「戻ってくる?」
「うん。すぐ」
文子は頷き、また横になった。
通路へ出ると、灯りの位置が昼間とは違って見えた。私は柱を覚えようとしながら、美咲の後ろへ続いた。
兵隊がひとり、向こうから来た。
私たちは脇へ寄ったが、並んだままだと通れなかった。美咲が先へ進もうとしたところで、その人の肩が彼女の腕へ当たった。
「邪魔だ。何をしてる」
美咲が壁へ身を縮めた。
「すみません」
私も身体を引いた。兵隊は返事をせずに通り過ぎ、靴音だけが遠ざかった。
美咲はその場で、しばらく動かなかった。
「行こう」
私は小声で言った。
美咲が頷き、私たちは今度は一列で歩いた。
*
戻ると、眠っていた場所が少し狭くなっていた。
隣の子が寝返りを打ったのだろう。美咲は起こさず、自分の布の端へ身体を入れた。私は膝をさらに曲げ、その隣へ横になった。
美咲の呼吸が、すぐ近くで聞こえた。
「さっき、当たったところ、大丈夫?」
「うん」
返事のあと、美咲は肩を動かした。
「通れると思ったんだけど」
私は、私もそう思った、と答えた。
それきり、二人とも黙った。
通路にまた靴音がすると、美咲の身体がわずかに固くなった。私も目を開けた。近づいてくる音を聞きながら、自分たちの布や脚が通路へ出ていないか、暗がりで確かめた。
足音は、そのまま過ぎていった。
私は目を閉じたが、さっきの声が耳に残っていた。次に通るときは、もっと早く避けなければならない。そう考えているうちに、眠りたいのに、通路の気配を聞き続けていた。
美咲が布の下で手を動かした。
私の指へ触れ、すぐに引こうとしたので、私はその手を軽く握った。
美咲は握り返した。
暗くて顔は見えなかった。私はその手だけを確かめ、身体を少し丸めた。指を離さないようにしながら、次の足音が遠ざかるのを待った。




