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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第46話 夜明けのグラウンド



 おばちゃんに肩を揺すられたとき、私はまだ、その手を握っているつもりでいた。


 布団から出した腕は冷えていて、指を曲げると少し強張った。隣の布団はもう畳まれ、戸口の方で湯を注ぐ音がしていた。


「少し食べてから行こう」


 私は起き上がり、上着を着て紐を結んだ。昨夜まとめた荷物は、置いたときと同じ形で戸口にあった。おばちゃんは水筒の口を拭いて栓を閉め、袋の脇へ差し込んだ。


 小さな椀に、温かい汁が入っていた。両手で包むと指先がじわじわ温まったが、芋をひとつ食べたところで箸が止まった。喉の奥が狭くなったようで、飲み込むたびに力が要った。


「残してもいいよ」


「あと、少し」


 私はもう一口だけ食べた。おばちゃんは向かいで待ち、私が椀を置くと、包んでおいた食べ物を荷物の上へ入れた。


 袋を背負うと、肩紐に縫いつけた布が首の脇へ触れた。


「痛くない?」


「うん」


 おばちゃんは私の襟を直し、左右の肩紐を引いて確かめた。いつもなら自分で直せるところまで、その手に任せていた。


 外はまだ暗かった。戸を開けると、湿った土の匂いが入ってきた。


「途中まで、一緒に行こうか」


 私は首を振った。


「文子たちと会うから」


 おばちゃんを連れていけば、どこで別れればいいのか分からなくなりそうだった。私は敷居を越え、履物の紐を確かめた。顔を上げると、おばちゃんが戸口に立っていた。


「行ってきます」


 声が震えないように、ゆっくり言った。


「行っておいで。足元、気をつけてね」


 数歩進んでから振り返ると、おばちゃんは同じところにいた。私が手を上げると、向こうも手を上げた。


 曲がり角で、私は足を止めた。


 戻って、もう一度抱きつきたかった。けれど、戻れば、その次に歩き出せる気がしなかった。上着の内側へ手を当て、おばちゃんを探すための名前を書いた紙を確かめた。


 私は角を曲がった。


     *


 待ち合わせの場所には、千代が先に来ていた。


 荷物を背負ったまま石垣に身体を預け、私に気づくと手を上げた。


「おはよう」


「おはよう。早かったね」


「家で待ってても、落ち着かなくて」


 千代の髪はきちんと結ばれていたが、片方の襟が内側へ折れていた。私が直すと、千代は礼を言い、私の肩紐へ目を向けた。


「それ、いいね」


「おばちゃんが縫ってくれた」


 千代は布に触れ、頷いた。


 文子は母親と一緒に来た。別れるところまで来ると、母親が娘の腕を掴んだ。


「先生のお話、よく聞いてね」


「うん」


「何かあったら……」


 そこから先が続かなかった。


 文子は母親の手へ自分の手を重ね、私たちを見た。


「理恵も千代もいるから」


 母親は私たちに頭を下げた。私は慌てて頭を下げ返したが、何を言えば安心してもらえるのか分からなかった。


 文子が歩き出すと、母親は後ろから肩へ触れた。


「ちゃんと食べるんだよ」


「分かった」


 文子は振り返って答えた。


 しばらくは三人とも黙っていた。文子が鼻をすすり、千代が鞄から布を出して渡した。文子は目元を押さえたあと、畳み直そうとして手を止めた。


「あとでいいよ」


 千代が言うと、文子は布を握ったまま頷いた。


     *


 グラウンドには、既に何人もの生徒が集まっていた。


 暗がりでは顔が見分けにくく、声を聞いてようやく誰か分かった。足元に荷物を置いた子も、背負ったままの子もいる。先生が持つ灯りの近くで、和子が帳面を開いていた。


「理恵、文子、千代」


 私たちを見ると、和子は名前を追って印をつけた。


「春子は?」


「まだ会ってない」


「清美と来ると思う」


 春子は、そう待たずに現れた。隣には清美がいて、二人とも息を切らしていた。


「荷物の紐がほどけたの」


 清美が言うと、春子が袋を下ろした。


「結び直してもらったんだけど、今度は固くて取れなくなった」


「今は取らなくていいでしょう」


 いつものやり取りに、文子が少し笑った。私も肩から力が抜けた。


 辺りが明るくなるにつれ、クラスメイトの顔が見えてきた。美咲は袋を胸へ抱き、静子は悦子の荷物を持ち上げて背負わせていた。夏子の髪には、いつもと違う紐が使われていた。


 私は典子を探した。


 いなかった。


 和子もときどき校門を見ていた。帳面に目を落としたあと、先生へ何か小声で伝えている。


 誰には知らせが届き、誰は家を出られなかったのか。尋ねようとしたとき、悦子が足元へ布を広げた。


「理恵、ここ、一緒に使って」


 私が腰を下ろすと、悦子は荷物から出した紙の包みを脇へ寄せた。開いた端から、小さな写真が見えた。


「去年の春の?」


「うん。折れないように、間に入れてきた」


 高等部へ入った頃に撮った、私たちの組の写真だった。


 私は並んだ顔を少しだけ見た。悦子は紙を重ね直し、着替えの間へしまった。先生の呼ぶ声がして、私たちは立ち上がった。


     *


 組ごとに列を作り、荷物を背負った。


 私の前には美咲、後ろには文子が立った。千代と春子は少し離れていたが、顔を向ければ見えた。足元の土は湿っていて、履物の底が沈むところを避けながら、皆が少しずつ立つ位置を直していた。


 校長先生が前へ出た。


 上着の襟を整え、私たちの列を端から見渡した。近くにいた先生が姿勢を正すと、生徒たちも肩を引いた。私も背筋を伸ばしたが、袋が後ろへ引くので、身体がわずかに傾いた。


「皆さんは、今日から病院において、傷病兵の看護を補助する務めに就きます」


 校長先生の声は、朝のグラウンドによく通った。


「これまで学校で受けた教えを、実際に役立てるときが来ました。皆さんは、まだ十分な経験を持ってはいません。しかし、誠実に学び、与えられた仕事を確実に果たすことはできます」


 前の列で、誰かが顎を引いた。


「病院では、軍医、看護婦、衛生兵の指示をよく聞くこと。分からないことを勝手に判断してはなりません。よく確かめ、教えられたことを守りなさい」


 私は、その言葉だけは覚えておこうと思った。


 分からないことを確かめる。できないことを、できるふりをしない。


 けれど、先生は続けた。


「仕事に、大小はありません。包帯を扱うことも、食事を運ぶことも、掃除をすることも、兵隊の回復を支える大切な務めです。自分に任された仕事を軽んじることなく、最後まで責任を持って取り組みなさい」


 美咲の袋の口から、畳んだ手拭いが少し出ていた。私はそれを見ながら、教室で巻いた包帯と、四人で運んだ毛布の重さを思い出した。


 最後までというのは、どこまでなのだろう。


 腕が上がらなくなっても、水を運べなくなっても、終わるまではやめられないのだろうか。


「皇国の女子として、お国のために働くことを誇りとし、汐見女学校の生徒としての自覚を失わぬように」


 校長先生は少し声を強めた。


「苦しいときにこそ、人の真価は表れます。自分だけ楽をしようと考えず、互いに励まし、助け合って務めを果たしてください。家の方々も、皆さんの働きを信じ、送り出してくださったのです」


 私は唇を結んだ。


 おばちゃんは、私が怖がっていることを先生へ話しに来た。昨夜は、帰ってきたいと言った私を抱いてくれた。


 その手の温かさと、今聞いている言葉が、どうしても重ならなかった。


 列の端で、生徒がひとり、肩へ掛けた紐を持ち直した。先生がそちらへ目を向けると、その子はすぐに手を下ろした。


 私は、足が痛いのか、荷物が重いのかと思った。けれど、校長先生の話が続く間、誰も列から出なかった。


「引率の先生方も、皆さんと行動を共にします。心配なことがあれば申し出て、勝手に持ち場を離れないように。皆さん一人ひとりの行いが、学校全体の信用に関わることを忘れてはなりません」


 島袋先生は、私たちの横に立っていた。


 私は先生の顔を見たかったが、横顔からは何も分からなかった。いつものように教室の前に立つ先生と、今日ここから一緒に歩いていく先生が、同じ人なのに少し遠く感じられた。


 校長先生が手元の紙へ目を落とした。


 私は息を詰めた。


 このあと、帰る日の話があるかもしれない。家へ知らせを送る方法や、具合が悪くなったときのことを教えてもらえるかもしれない。


「皆さんの働きを期待しています。どうか、教えられたことを忘れず、力を尽くしてください」


 校長先生は紙を畳んだ。


 近くの先生が礼をするよう声をかけ、私たちは頭を下げた。袋が背中でずれ、私は両手で肩紐を押さえた。


 顔を上げても、もう話は続かなかった。


     *


 先生たちが列の間を歩き、荷物や履物を確かめた。


 島袋先生が私の前で足を止めた。


「寺田さん、具合は?」


「大丈夫です」


 そう答えてから、私は先生を見た。


「あの、帰る日は、まだ……」


「まだ分かりません」


 先生は私の肩紐へ触れ、捻れていたところを直した。


「途中でつらくなったら、知らせなさい」


 私は頷いた。それ以上尋ねる前に、別の生徒が先生を呼んだ。


 美咲が振り返った。


「歩くの、速くなったら言ってね」


「美咲も」


 彼女は頷いて前を向いた。後ろから、文子の指が私の袖へ触れた。


「一緒にいようね」


 私は振り向き、文子の顔を見て頷いた。


 列が動き始めた。


 校門の外には、見送りに来た家族が残っていた。名前を呼ぶ声がして、何人かが顔を向けた。文子も母親を探していたが、すぐには見つからなかったようだった。


 私は門を出る前に、校舎へ振り返った。


 教室の窓は閉まっていた。机の中に置いたままのものを、ふと思い出した。使いかけの布と、短くなった鉛筆。次に来たときに片づければいいと思っていた。


「理恵」


 文子に呼ばれ、前へ向き直ると、美咲との間が少し開いていた。


 私は追いつき、歩幅を合わせた。袋が揺れて食器がかすかに鳴り、肩紐の下で、おばちゃんが縫ってくれた布が動いた。


 私はその端を指で押さえたまま、友達と一緒に校門を出た。

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