第45話 明日の朝
学校から知らせが来たとき、私はおばちゃんと芋を切っていた。
戸口で名前を呼ばれ、包丁を置いて立ち上がった。和子と幸子が並んでいた。二人とも鞄を肩に掛け、歩いてきた道を一度振り返ってから、私へ向き直った。
「明日の朝、学校へ集まるようにって」
和子は帳面を開き、書いたところを指で押さえた。
「用意した荷物を持って。夜明け前に出れば、間に合うと思う。集まる場所はグラウンド」
私はその指先を見ていた。爪の脇に墨のような黒い汚れがあり、帳面の端は何度もめくったせいで柔らかくなっていた。
「病院へ行くの?」
「うん。先生たちも一緒に」
後ろでおばちゃんが立ち上がった。
「場所は、聞いてる?」
和子は病院の名前と、向かう方角を伝えた。おばちゃんは紙を持ってきて書き留め、集合の時刻をもう一度確かめた。
私は二人を中へ誘おうとしたが、幸子が首を振った。
「まだ知らせる家があるから」
「文子たちは?」
「文子には伝えた。千代と春子のところは、これから」
和子は帳面を閉じた。
「理恵も、明日ね」
いつも別れ際に聞く言葉だった。私も同じように返そうとしたのに、声がうまく出なかった。
「……うん。明日」
二人が道へ戻ると、おばちゃんはしばらく戸口に立っていた。私はその隣で、和子たちの背中が曲がり角へ消えるまで見送った。
*
台所へ戻ると、切りかけの芋がそのまま残っていた。
包丁を持ち直そうとした私に、おばちゃんが、先に荷物を見よう、と言った。私は頷き、部屋の隅から袋を持ってきた。
着替えを出し、畳み直す。手拭い、箸、椀を包んだ袋。ひとつ置くたびに、おばちゃんが知らせの紙と見比べた。
「水筒は、朝、入れようね」
「うん」
「紐、もう少し短くできるかな」
袋を背負うと、下の方が腰へ当たった。おばちゃんは私の後ろへ回り、紐を引いて結び直した。肩に食い込むところへ布を当て、ずれないよう縫うと言った。
私は背負ったまま、部屋を数歩歩いた。
軽いと思っていた荷物が、動くと背中で揺れた。食器が当たる音がして、私は立ち止まった。
「椀、割れないかな」
「間に、もう一枚入れよう」
おばちゃんは袋を下ろすのを手伝い、中のものを取り出した。
その間、私は机のそばに置いていた日記を膝へ載せた。表紙の角が折れ、何度も握ったところが黒ずんでいた。
「それも、持っていく?」
おばちゃんが尋ねた。
私は頁をめくった。年号を書いたところを過ぎ、母へ宛てた手紙のところで止めた。
「置いていこうかな」
病院で誰かに読まれたら、どうなるか分からなかった。持っていけば心強いような気もしたが、もう、ここに書いた日付を見直さなくても思い出せた。
おばちゃんは椀を包む手を止めた。
「預かっておくよ」
「誰にも、見せないで」
「うん」
私は日記を閉じ、渡した。おばちゃんは乾いた布で包み、自分の荷物の中へ入れた。
戻ってきたら返してね、と言おうとして、私は口を閉じた。代わりに、母へ書いたところを折らないでほしいと頼んだ。
「分かるようにしておこうね」
おばちゃんは包みを一度出し、平らに置き直した。
*
午後、私は水を汲みに行った。
おばちゃんは自分が行くと言ったが、私は家に残る仕事もあるでしょう、と桶を持った。何かしていないと、袋の置いてある方ばかり見てしまった。
戻る途中、トメさんに会った。
「聞いたよ。明日なんだってね」
私は足を止めた。
トメさんは桶を覗き、半分持とうか、と手を伸ばした。私は大丈夫ですと答えたが、結局、家まで一緒に運んでもらった。
門口で桶を下ろすと、トメさんは私の袖口を直した。折り返したところが片方だけほどけていた。
「身体を冷やさないようにね」
「はい」
「困ったことがあったら、先生に言うんだよ。一人で我慢しないで」
私は頷いた。
トメさんが帰ったあと、家の中へ入ると、おばちゃんが鍋を火にかけていた。切った芋が湯の中で動き、蓋の縁から細く湯気が上がっていた。
「手、洗っておいで」
私は桶の水を少し使った。
明日になっても、ここでは水を汲み、鍋を洗い、食事を作るのだろう。おばちゃんも、ハツさんも、同じように朝を迎える。その中に自分がいないことを考えると、見慣れたものへいちいち目が止まった。
*
夕食のとき、おばちゃんは私の椀へ芋をもうひとつ入れた。
「これ、食べて」
「おばちゃんのが減るよ」
「私は、鍋にあるから」
私は鍋を見た。
おばちゃんは私の視線に気づき、蓋を開けて見せた。底に幾つか残っていたので、私はようやく箸を動かした。
口へ入れた芋は熱く、すぐには飲み込めなかった。汁を少し含み、ゆっくり噛んだ。
「明日の分も、少し包んでおくね」
「うん」
「途中で食べられるかもしれないから」
私は頷いた。どこで、いつ食べるのか、その先のことは聞かなかった。
食べ終えると、私は椀を重ねて台所へ運んだ。おばちゃんも立ち上がろうとしたので、今日は私が洗う、と言った。
「じゃあ、お願いしようね」
おばちゃんは座り直した。
椀の内側を洗い、縁へ指を滑らせた。食堂に来た最初の日にも、食べ終えた椀を運ぼうとした。あのときは休んでいなさいと言われ、何もできずに座っていた。
今は、洗ったものをどこへ置くか分かった。布巾の使い分けも、おばちゃんが鍋を伏せる向きも覚えていた。
私は最後の椀を置き、手を拭いた。振り向くと、おばちゃんが袋の肩紐を縫っていた。
「終わったよ」
「ありがとう」
私は隣へ座り、その手元を見た。
*
夜、履物を確かめると、紐の一か所が細くなっていた。
おばちゃんが別の紐へ取り替えている間、私は明日の道順を口に出した。いつもの道を行き、文子たちと途中で合流する。もし会えなければ、そのまま学校へ向かう。
「暗いうちは、足元を見てね」
「うん」
「急がなくていいように、早く起こすから」
おばちゃんは結び目を引き、ほどけないか確かめた。
私は膝を抱えた。
「おばちゃんも、明日、どこかへ行くの?」
「ハツさんたちと、これからのことを相談する。移ることになったら、学校に知らせるよ」
「私が帰ってきたら、分かる?」
「分かるようにする」
おばちゃんは顔を上げた。
「トメさんにも伝える。ここだけ探して、いないって思わないようにね」
私は道順を書いた紙の裏へ、おばちゃんが連絡を頼む相手の名前を書いた。紙を小さく畳み、上着の内側へ入れた。
「食堂、またできるかな」
尋ねると、おばちゃんは少し考えた。
「鍋はあるからね」
「卓もいるよ」
「そうだね。椅子も」
「私、運ぶの手伝う」
おばちゃんは、頼むね、と言った。
私は笑おうとしたが、顔がうまく動かなかった。おばちゃんが履物を脇へ置き、手を伸ばしてきたので、その肩へ額を寄せた。
「帰ってきたい」
声にすると、涙が出た。
「ここに、帰ってきたい」
おばちゃんの手が背中へ回った。
「うん」
それ以上の言葉を待つように、私は袖を掴んだ。おばちゃんは私を抱いたまま、背中をゆっくり撫でた。私は息を吸おうとするたびに喉が震え、しばらく顔を上げられなかった。
*
布団へ入ってからも、眠れなかった。
荷物は戸口のそばに置いてあった。水筒だけが空で、朝、おばちゃんが入れてくれることになっていた。椀の袋も着替えも、もう何度も確かめたのに、何か忘れている気がした。
「おばちゃん、起きてる?」
「起きてるよ」
すぐ隣から返事があった。
「明日、ちゃんと起きられるかな」
「起こすから、大丈夫」
私は横を向いた。暗い中でも、おばちゃんの布団の膨らみが見えた。
「手、出してもいい?」
おばちゃんの腕が布団から出た。私は自分の手を伸ばし、その指に触れた。
おばちゃんは何も尋ねず、握ってくれた。
目を閉じると、食堂の娘の部屋が浮かんだ。窓際の机と、短い鉛筆。知らない家で眠るのが怖かった夜にも、戸の向こうでおばちゃんの足音を聞いていた。
私は指を少し強く握った。
「おやすみ」
「おやすみ、理恵」
今度は、誰へ向けた言葉なのか、迷わなかった。




