第44話 家で話しておくこと
三月になった朝、典子の席が空いていた。
遅れて来ることには慣れていたので、私は鞄を掛けると、いつものように美咲へ挨拶した。美咲は机の上に置いた袋の紐を結び直していた。食器を包むために縫ったものだったが、今日は針と糸を入れてあるという。
「まだ直すところがあるから」
私の袋にも、椀を出し入れすると引っかかる縫い目があった。あとで見てもらおうと思いながら前を向くと、島袋先生が教室へ入ってきた。
先生は出席簿を開く前に、典子の席へ目を向けた。
「安里さんは、家の都合でしばらくお休みします」
和子の鉛筆が止まった。
「何日くらいですか」
「まだ分かりません。お母さんとお話ししました」
先生はそれだけ答え、名前を呼び始めた。
典子の机には、前に使った布の切れ端が残っていた。鉛筆で小さく名前を書いた紙を縫いつけてある。私はそれを見ながら、妹を預けてから来ます、と言った典子の声を思い出した。
休みが長くなったからといって、もう来ないと決まったわけではない。それでも、授業が進んでも、私は何度もそちらへ顔を向けた。
*
昼休み、和子が典子の机から布を取り上げた。
「ほこりがつくから、しまっておこう」
教科書を包んでいた紙を広げ、その中へ入れる。私が、家へ届けるの、と尋ねると、和子は首を振った。
「次に来たとき、渡す。これ、典子のお母さんの服だったって」
和子は包みの上へ名前を書いた。
少し離れた席で、夏子が佳代の髪を結び直していた。紐を口にくわえ、両手で髪を集めている。佳代が首を傾けると、動かないで、と夏子が言った。
「痛いんだもの」
「緩くすると、またほどけるよ」
「じゃあ、少しだけ」
夏子は紐を引く力を加減し、結び終えると佳代の肩を軽く叩いた。
そのやり取りを聞いていた春子が、自分の髪へ触れた。
「私のも、あとでやって」
「春子は自分でできるでしょう」
「後ろ、見えないから」
「みんな見えないよ」
清美が横から言い、春子がそちらを向いた。二人がまた言い合い始めると、文子が間に入って、順番にやればいいでしょう、と笑った。
私は典子の包みを和子へ渡した。
和子は自分の机の中へしまい、口を折って押さえた。次に典子が来たら、ここにあるよ、と声をかけるつもりなのだろう。その仕草を見て、私はようやく弁当の包みを開いた。
*
午後、先生は黒板を消し終えても、しばらく教壇の前に立っていた。
「家の方と、話しておいてほしいことがあります」
私は膝の上へ両手を置いた。
「これから、皆さんに病院の仕事を手伝ってもらうことがあります。学校へ急に集まるよう、連絡する場合もあります」
後ろで椅子が鳴った。誰かが座り直した音だった。
「用意した荷物は、すぐに持ち出せるところへ置いてください。家を出るときに慌てないように」
文子が手を上げた。
「病院へ行ったら、夜は家へ帰るんですか」
先生は文子を見た。
「泊まることも考えておいてください」
「何日くらいですか」
今度は清美だった。
「今は、はっきり言えません」
教室が静かになった。
私は先生の手元を見ていた。黒板を拭いた布を、両手で持っている。指の間で折り直し、また広げていた。
先生にも、まだ知らされていないことがあるのだと思った。
けれど、知らないまま、私たちは荷物を用意することになっていた。
「家の事情がある人は、私に話してください」
先生の声が少し低くなった。
「一人で抱えずに、まず知らせてください」
私は手を上げたかった。
行きたくありません、と言いたかった。病院へ行けば、やがて負傷兵が運ばれてくる。薬が足りなくなり、食べ物も減り、ここへ戻れるかどうかも分からなくなる。
けれど、先生が今聞いている家の事情と、私の知っている未来は、同じようには話せなかった。
膝の上の手を開きかけたとき、隣で美咲が息を吸った。
「家の人が、駄目だって言ったら……」
小さな声だった。先生が聞き返すと、美咲はもう一度、同じことを言った。
先生はすぐには答えなかった。
「そのときは、私に知らせてください。家の方とお話しします」
美咲は頷いたが、安心した顔にはならなかった。
私も、手を上げられないままだった。
*
学校を出ると、悦子が門のそばで待っていた。
「理恵、少しだけいい?」
文子たちは先へ行った。私が悦子の隣へ立つと、彼女は鞄の口を開き、葉書を出した。
前に届いたものだった。
「返事を書いたの。でも、まだ出せてなくて」
「何て書いたの?」
「学校にいることと、元気だって。あと、弟に布団を取っておいてって」
悦子は葉書をしまった。家族から来た方を持ち歩いているのは、返事を書くときに見直したかったからだという。
「病院のことも、書き直した方がいいのかな」
私は道の向こうを見た。荷を積んだ車が通り、人が端へ寄っていた。
「今、分かってることだけでも」
「うん」
悦子は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。
「家に帰って、話せたらいいんだけど」
私は彼女の顔を見た。
「ここで決まったことを、便りで知らせても、その返事が来る前に出発になったら……母が、帰っておいでって書いても、私には届かないでしょう」
葉書をしまった胸元へ、悦子の手が触れた。
私は、きっと間に合うよ、とは言えなかった。
代わりに、先生へ相談した方がいい、と言った。悦子は、そうする、と答えたあと、少し困ったように笑った。
「理恵は、帰ったらすぐ話せるね」
私は頷いた。
おばちゃんが待っている。それは、今の私にあるものだった。
*
家へ戻ると、おばちゃんはトメさんと話していた。
私を見るとトメさんが腰を上げた。帰り際に、ちゃんと食べるんだよ、と言われ、私は返事をした。戸口で見送ってから振り向くと、おばちゃんがこちらを見ていた。
「何か、言われた?」
私は鞄を下ろし、先生の話を伝えた。
病院の仕事を手伝うこと。学校から急に連絡が来るかもしれないこと。泊まることもあるので、家で話しておくようにと言われたこと。
おばちゃんは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「明日、私も先生に会いに行こうね」
「来てくれるの?」
「うん。行く場所も、帰れるのかも、聞いておきたいから」
私は、おばちゃんの前へ座った。
「行きたくないって、言ってもいいかな」
おばちゃんは私の目を見た。
「いいよ。私には、言っていい」
その言葉に、胸の奥で堪えていたものが動いた。
「行きたくない」
一度言うと、もう止められなかった。
「怖い。習ったこと、ちゃんとできるかも分からないし、怪我をした人を見て、動けなくなるかもしれない。私が失敗したら、その人が……」
最後まで言えず、私は膝を見た。
おばちゃんが近くへ座り直した。
「そこまで、理恵一人で背負わなくていい」
「でも、行ったら、やらなきゃいけないでしょう」
おばちゃんは黙った。
私も、その先を言わなかった。二人とも、簡単に大丈夫と言える話ではないことを知っていた。
やがて、おばちゃんは私の肩へ手を置いた。
「先生に会って、話そう。今夜、ここで全部決めなくていいから」
私は頷き、おばちゃんの袖を掴んだ。
行かなくて済む方法があるかもしれない。その気持ちを、まだ捨てたくなかった。
*
翌日の昼、おばちゃんは学校へ来た。
私は廊下で待った。教室の戸は閉まっていて、中の言葉は聞き取れなかった。窓の外では、下の学年の生徒が二人、桶を運んでいた。一人が足を止めると、もう一人も止まり、持ち替えてから歩き始めた。
戸が開き、おばちゃんが出てきた。
先生も後ろに立っていた。
「寺田さん。場所や日にちが決まったら、知らせます」
私は先生とおばちゃんを交互に見た。
「家のことで心配なことがあれば、また話してください」
「……はい」
先生が教室へ戻ると、私はおばちゃんへ近づいた。
「どうだった?」
「先生にも、まだ分からないことが多いんだって」
「行かなくてもいいとは?」
おばちゃんは、すぐには答えなかった。
私は袖から手を離した。
「言われなかったんだね」
「うん」
廊下の端へ一緒に歩いた。おばちゃんは私の顔を覗き込み、声を落とした。
「でも、話はしたよ。理恵が怖がっていることも、私が心配していることも」
私は頷いた。
教室から、椅子を動かす音が聞こえた。午後の練習が始まる時間だった。
「帰ったら、続きを話そう」
おばちゃんが言った。
私は、うん、と返した。門へ向かう背中を見送り、姿が隠れてから教室へ戻った。
美咲が私の分の布を机へ置いてくれていた。
「ここ、空けてあるよ」
私はその隣へ座った。美咲は何も尋ねず、絡まった紐をほどいていた。しばらくして、私の方へ端を差し出した。
「持っててもらえる?」
私は紐を受け取り、両手で軽く張った。
美咲の指が結び目を探っている間、私はさっきのおばちゃんの声を思い返していた。
帰ったら、続きを話そう。
今日の授業が終われば、まだ、そこへ帰れた。




