↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/124

第44話 家で話しておくこと



 三月になった朝、典子の席が空いていた。


 遅れて来ることには慣れていたので、私は鞄を掛けると、いつものように美咲へ挨拶した。美咲は机の上に置いた袋の紐を結び直していた。食器を包むために縫ったものだったが、今日は針と糸を入れてあるという。


「まだ直すところがあるから」


 私の袋にも、椀を出し入れすると引っかかる縫い目があった。あとで見てもらおうと思いながら前を向くと、島袋先生が教室へ入ってきた。


 先生は出席簿を開く前に、典子の席へ目を向けた。


「安里さんは、家の都合でしばらくお休みします」


 和子の鉛筆が止まった。


「何日くらいですか」


「まだ分かりません。お母さんとお話ししました」


 先生はそれだけ答え、名前を呼び始めた。


 典子の机には、前に使った布の切れ端が残っていた。鉛筆で小さく名前を書いた紙を縫いつけてある。私はそれを見ながら、妹を預けてから来ます、と言った典子の声を思い出した。


 休みが長くなったからといって、もう来ないと決まったわけではない。それでも、授業が進んでも、私は何度もそちらへ顔を向けた。


     *


 昼休み、和子が典子の机から布を取り上げた。


「ほこりがつくから、しまっておこう」


 教科書を包んでいた紙を広げ、その中へ入れる。私が、家へ届けるの、と尋ねると、和子は首を振った。


「次に来たとき、渡す。これ、典子のお母さんの服だったって」


 和子は包みの上へ名前を書いた。


 少し離れた席で、夏子が佳代の髪を結び直していた。紐を口にくわえ、両手で髪を集めている。佳代が首を傾けると、動かないで、と夏子が言った。


「痛いんだもの」


「緩くすると、またほどけるよ」


「じゃあ、少しだけ」


 夏子は紐を引く力を加減し、結び終えると佳代の肩を軽く叩いた。


 そのやり取りを聞いていた春子が、自分の髪へ触れた。


「私のも、あとでやって」


「春子は自分でできるでしょう」


「後ろ、見えないから」


「みんな見えないよ」


 清美が横から言い、春子がそちらを向いた。二人がまた言い合い始めると、文子が間に入って、順番にやればいいでしょう、と笑った。


 私は典子の包みを和子へ渡した。


 和子は自分の机の中へしまい、口を折って押さえた。次に典子が来たら、ここにあるよ、と声をかけるつもりなのだろう。その仕草を見て、私はようやく弁当の包みを開いた。


     *


 午後、先生は黒板を消し終えても、しばらく教壇の前に立っていた。


「家の方と、話しておいてほしいことがあります」


 私は膝の上へ両手を置いた。


「これから、皆さんに病院の仕事を手伝ってもらうことがあります。学校へ急に集まるよう、連絡する場合もあります」


 後ろで椅子が鳴った。誰かが座り直した音だった。


「用意した荷物は、すぐに持ち出せるところへ置いてください。家を出るときに慌てないように」


 文子が手を上げた。


「病院へ行ったら、夜は家へ帰るんですか」


 先生は文子を見た。


「泊まることも考えておいてください」


「何日くらいですか」


 今度は清美だった。


「今は、はっきり言えません」


 教室が静かになった。


 私は先生の手元を見ていた。黒板を拭いた布を、両手で持っている。指の間で折り直し、また広げていた。


 先生にも、まだ知らされていないことがあるのだと思った。


 けれど、知らないまま、私たちは荷物を用意することになっていた。


「家の事情がある人は、私に話してください」


 先生の声が少し低くなった。


「一人で抱えずに、まず知らせてください」


 私は手を上げたかった。


 行きたくありません、と言いたかった。病院へ行けば、やがて負傷兵が運ばれてくる。薬が足りなくなり、食べ物も減り、ここへ戻れるかどうかも分からなくなる。


 けれど、先生が今聞いている家の事情と、私の知っている未来は、同じようには話せなかった。


 膝の上の手を開きかけたとき、隣で美咲が息を吸った。


「家の人が、駄目だって言ったら……」


 小さな声だった。先生が聞き返すと、美咲はもう一度、同じことを言った。


 先生はすぐには答えなかった。


「そのときは、私に知らせてください。家の方とお話しします」


 美咲は頷いたが、安心した顔にはならなかった。


 私も、手を上げられないままだった。


     *


 学校を出ると、悦子が門のそばで待っていた。


「理恵、少しだけいい?」


 文子たちは先へ行った。私が悦子の隣へ立つと、彼女は鞄の口を開き、葉書を出した。


 前に届いたものだった。


「返事を書いたの。でも、まだ出せてなくて」


「何て書いたの?」


「学校にいることと、元気だって。あと、弟に布団を取っておいてって」


 悦子は葉書をしまった。家族から来た方を持ち歩いているのは、返事を書くときに見直したかったからだという。


「病院のことも、書き直した方がいいのかな」


 私は道の向こうを見た。荷を積んだ車が通り、人が端へ寄っていた。


「今、分かってることだけでも」


「うん」


 悦子は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。


「家に帰って、話せたらいいんだけど」


 私は彼女の顔を見た。


「ここで決まったことを、便りで知らせても、その返事が来る前に出発になったら……母が、帰っておいでって書いても、私には届かないでしょう」


 葉書をしまった胸元へ、悦子の手が触れた。


 私は、きっと間に合うよ、とは言えなかった。


 代わりに、先生へ相談した方がいい、と言った。悦子は、そうする、と答えたあと、少し困ったように笑った。


「理恵は、帰ったらすぐ話せるね」


 私は頷いた。


 おばちゃんが待っている。それは、今の私にあるものだった。


     *


 家へ戻ると、おばちゃんはトメさんと話していた。


 私を見るとトメさんが腰を上げた。帰り際に、ちゃんと食べるんだよ、と言われ、私は返事をした。戸口で見送ってから振り向くと、おばちゃんがこちらを見ていた。


「何か、言われた?」


 私は鞄を下ろし、先生の話を伝えた。


 病院の仕事を手伝うこと。学校から急に連絡が来るかもしれないこと。泊まることもあるので、家で話しておくようにと言われたこと。


 おばちゃんは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「明日、私も先生に会いに行こうね」


「来てくれるの?」


「うん。行く場所も、帰れるのかも、聞いておきたいから」


 私は、おばちゃんの前へ座った。


「行きたくないって、言ってもいいかな」


 おばちゃんは私の目を見た。


「いいよ。私には、言っていい」


 その言葉に、胸の奥で堪えていたものが動いた。


「行きたくない」


 一度言うと、もう止められなかった。


「怖い。習ったこと、ちゃんとできるかも分からないし、怪我をした人を見て、動けなくなるかもしれない。私が失敗したら、その人が……」


 最後まで言えず、私は膝を見た。


 おばちゃんが近くへ座り直した。


「そこまで、理恵一人で背負わなくていい」


「でも、行ったら、やらなきゃいけないでしょう」


 おばちゃんは黙った。


 私も、その先を言わなかった。二人とも、簡単に大丈夫と言える話ではないことを知っていた。


 やがて、おばちゃんは私の肩へ手を置いた。


「先生に会って、話そう。今夜、ここで全部決めなくていいから」


 私は頷き、おばちゃんの袖を掴んだ。


 行かなくて済む方法があるかもしれない。その気持ちを、まだ捨てたくなかった。


     *


 翌日の昼、おばちゃんは学校へ来た。


 私は廊下で待った。教室の戸は閉まっていて、中の言葉は聞き取れなかった。窓の外では、下の学年の生徒が二人、桶を運んでいた。一人が足を止めると、もう一人も止まり、持ち替えてから歩き始めた。


 戸が開き、おばちゃんが出てきた。


 先生も後ろに立っていた。


「寺田さん。場所や日にちが決まったら、知らせます」


 私は先生とおばちゃんを交互に見た。


「家のことで心配なことがあれば、また話してください」


「……はい」


 先生が教室へ戻ると、私はおばちゃんへ近づいた。


「どうだった?」


「先生にも、まだ分からないことが多いんだって」


「行かなくてもいいとは?」


 おばちゃんは、すぐには答えなかった。


 私は袖から手を離した。


「言われなかったんだね」


「うん」


 廊下の端へ一緒に歩いた。おばちゃんは私の顔を覗き込み、声を落とした。


「でも、話はしたよ。理恵が怖がっていることも、私が心配していることも」


 私は頷いた。


 教室から、椅子を動かす音が聞こえた。午後の練習が始まる時間だった。


「帰ったら、続きを話そう」


 おばちゃんが言った。


 私は、うん、と返した。門へ向かう背中を見送り、姿が隠れてから教室へ戻った。


 美咲が私の分の布を机へ置いてくれていた。


「ここ、空けてあるよ」


 私はその隣へ座った。美咲は何も尋ねず、絡まった紐をほどいていた。しばらくして、私の方へ端を差し出した。


「持っててもらえる?」


 私は紐を受け取り、両手で軽く張った。


 美咲の指が結び目を探っている間、私はさっきのおばちゃんの声を思い返していた。


 帰ったら、続きを話そう。


 今日の授業が終われば、まだ、そこへ帰れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。