第43話 持っていくもの
二月に入ると、看護の練習に使う布を、家から持ってくるよう言われた。
新しいものを用意する必要はなく、古い手拭いや着なくなった服でよかった。ただし、洗ってあるもの。先生がそう付け加えたとき、教室の後ろで誰かが、乾かなかったらどうしよう、と呟いた。
雨が続いていた。ハツさんの家でも、軒下へ寄せた洗濯物が何日も湿っていた。私はおばちゃんと相談して、端の薄くなった手拭いを一枚持っていった。
教室では、机の上にそれぞれ違う布が並んでいた。白いものは少なく、細かな模様のあるものや、縫い合わせて一枚にしたものもあった。
春子は自分の布を広げると、手のひらで皺を伸ばした。
「これ、うちで皿を拭いてたやつ。ちゃんと洗ったからね」
「誰も何も言ってないよ」
清美が返すと、春子は、先に言っておいただけ、と布を畳み直した。
その向こうでは、夏子が小さく歌っていた。机を動かす音に紛れるくらいの声だったが、隣の佳代が途中から続きを口ずさんだ。二人とも手を止めず、最後のところで言葉が合わなくなると顔を見合わせた。
「そこ、違うでしょう」
「うちではこう歌うよ」
夏子がもう一度歌いかけたところで、先生が入ってきた。声は止まり、動かした机だけが、いつもと違う向きで残った。
*
その日は、二本の棒と毛布で人を運ぶ練習をした。
横になる役を決めるとき、誰もすぐには手を上げなかった。衛生兵が、順番にやる、と言い、近くにいた静子へ顎を向けた。
大城静子は履物を脱ぎ、毛布の上へ寝た。両手を腹の上に重ねて天井を見ていたが、私たちが棒を持つと顔をこちらへ向けた。
「落とさないでね」
「落とさないよ」
私は答え、両手で棒を握り直した。美咲が同じ側に立ち、反対側には千代と文子がついた。
合図に合わせて持ち上げると、思っていたよりも重かった。毛布が沈み、静子の身体が低いところへ寄った。私は腕を伸ばしたまま、指に力を入れた。
「そっち、下がってる」
千代の声に、私は持ち上げようとした。けれど、腕だけを動かすと棒が揺れ、静子が毛布の端を掴んだ。
「止まって。いったん下ろして」
美咲が言った。
四人で腰を曲げ、床へ戻した。私は手を離すと、指を一本ずつ開いた。
衛生兵は持つ位置を直し、歩幅を合わせるように言った。今度は文子が声を出すことになった。
「上げるよ。いち、に」
静子の身体が床から離れた。
教室の端まで、ほんの数歩だった。私たちは足元を確かめながら進み、机にぶつからないよう身体を横へずらした。後ろ向きに歩く千代が、もう少し、と言ったところで、私の手の中の棒が滑りかけた。
握り直す間、美咲が肩を近づけて支えてくれた。
下ろしたときには、息が上がっていた。静子は起き上がって毛布を直し、私たちの顔を順に見た。
「私、そんなに重い?」
「棒が持ちにくいの」
文子が答えた。
「静子のせいじゃないよ」
静子は笑ったが、私は笑うまでに少し時間がかかった。
床は平らで、明るく、邪魔になるものは先に避けてあった。運ばれる静子も、揺れるたびに身体を合わせてくれた。
その数歩で、私の指は痺れていた。
次の組へ棒を渡すとき、私は手のひらの赤くなったところを見た。千代が隣に来て、同じように自分の指を曲げた。
「二人じゃ、無理だね」
私は頷いた。
「道が狭かったら、四人も並べないし」
言ってから、千代は毛布の方へ目を戻した。
私は何も返せなかった。暗い壕の中で誰かを運ぼうとする自分の姿が浮かび、その誰かの顔を、考えないようにした。
*
数日後、先生は授業の終わりに、身の回りのものをまとめておくよう話した。
「着替え、手拭い、食器。自分のものと分かるように、名前をつけておきなさい」
先生は黒板へ品物を書き、最後に、水筒、と付け加えた。
私はその文字を見ながら、膝の上で手を握った。
いつ、どこへ行くための用意なのか。先生はまだ言わなかった。聞けば何か分かるかもしれないと思ったが、教室の誰も口を開かなかった。
和子が帳面に書き写し、隣の席へ見せた。後ろから、鉛筆を貸して、と声がした。
悦子は黒板を見たまま、上着の内側へ手を入れていた。葉書をしまっているところだった。
「全部、寮に置いておくんですか」
悦子が尋ねた。
「持ち出せるようにしておいてください。荷物は、自分で運べる重さに」
先生が答えると、悦子は頷き、書き始めた。
私は紙の端に、小さく、名前、と書いた。
寺田理恵。
こちらへ来てから何度も書いた名前だった。学校の帳面にも、提出する紙にも、おばちゃんが繕ってくれた袋にもある。
今度は、持っていくもの全部につけるのだという。
*
帰りに、私たちは道の脇で立ち止まり、持ち物を書いた紙を見比べた。
「食器って、お椀だけでいいのかな」
文子が言った。
「箸もいるでしょう」
「箸はあるよ。お椀を持っていったら、家で使うのが一つ減るから」
千代は自分の紙を畳んだ。
「うちも。別に買えないし」
春子は少し黙ってから、家に欠けたのがある、と言った。
「口をつけるところじゃなければ使えるよ。二つあったと思う」
「春子はどうするの」
「私は別のを持つ」
文子は、見つかったら教えて、と頼んだ。春子は、うん、と答えた。
そのやり取りを聞きながら、私は自分の椀を思い浮かべていた。食堂から持ち出せた品は多くなかった。ハツさんの家で借りているものもあり、私の分だけを勝手に荷物へ入れることはできない。
四人で話しているうち、美咲が追いついてきた。私たちが何を話しているか聞くと、鞄から縫いかけの布を出した。
「食器を包むの、作ってる。剥き出しだと割れそうだから」
千代が布を受け取り、裏返して縫い目を見た。
「ここ、紐を通せる?」
「そのつもり」
「じゃあ、私もそうしよう」
美咲は布を返してもらうと、私へ目を向けた。
「理恵のも、余ったところで作れるよ」
「自分でやってみる。分からなかったら教えて」
「うん」
それから私たちは、家にどんな布が残っているかを話した。袋の大きさや紐の長さを考えている間だけ、どこへ持っていくのかという問いを、口にせずにいられた。
*
おばちゃんは持ち物の紙を読み終えると、もう一度、上から目を通した。
「日にちは?」
「まだ言われてない」
「そう」
紙を私へ返し、棚の奥から椀を出した。縁が少し欠けていたが、ひびはなかった。
「これを持とうね」
「使っていいの?」
「使うために取ってあるんだよ」
おばちゃんは欠けたところを指でなぞり、私にも触らせた。尖っていないことを確かめてから、机の上へ置いた。
私は鞄から布を取り出し、美咲に教わった形に折った。おばちゃんは隣で、着替えにする上着の脇を繕い始めた。
針を持ってからも、私は何度か手を止めた。
「おばちゃん」
「うん」
「学校から、連絡が来たら……」
続きが出てこなかった。
おばちゃんの針も止まった。私の顔を見てから、畳んだ紙へ目を向けた。
「まず、何て言われたか、一緒に聞こう」
「でも」
「うん。怖いね」
おばちゃんはそう言い、縫いかけの上着を膝へ置いた。
私は頷いた。未来のことを話したあの夜から、おばちゃんは、そんなことは起こらない、と言わなくなっていた。それがありがたくもあり、逃げ込める言葉が一つ減ったようで、苦しくもあった。
「おばちゃんと、離れたくない」
言うと、涙が滲んだ。
おばちゃんは私の手から針を取り、針山へ戻した。それから、布を握ったままの私の指を包んだ。
「私もだよ」
私は俯いたまま、その手を握り返した。
しばらくしてから、おばちゃんは、今日はここまでにしようか、と言った。私は首を振った。
「袋、作っておきたい」
「そう。じゃあ、続きをしよう」
その晩、私は食器を包む袋を縫い終えた。縫い目は美咲のものほど揃わず、紐を通すところも少し狭かったが、おばちゃんに手伝ってもらうと、椀を入れて口を閉じられた。
小さな布切れに、寺田理恵、と書き、袋の内側へ縫いつけた。
おばちゃんが紐を引いて確かめ、私へ渡した。
「これなら、落ちないね」
私は袋を両手で受け取った。
用意が一つできたことに、ほっとしていた。ほっとした自分が怖くなって、私は袋を膝へ置いたまま、隣のおばちゃんの肩に身体を寄せた。




