第42話 便りを待つ席
一月の朝、教室へ入ると、美咲が私の机に広げていた布を慌てて引き寄せた。
「ごめん。こっちの方が明るくて」
窓際の私の席には、曇り空からでも幾らか光が入った。美咲の膝には上着が載っていて、袖口の擦り切れたところへ別の布を当てている。私は鞄を机の脇へ掛け、隣から縫い目を覗いた。
「そこ、昨日も縫ってなかった?」
「昨日は反対の袖」
美咲は両方の袖を持ち上げて見せた。同じ色の布を探したらしいが、一方は茶色、もう一方は少し緑がかっていた。
「左右が違うね」
「両方いっぺんに見せなければ分からないよ」
そう言いながら片腕を背中へ隠したので、私は笑ってしまった。美咲も口元を緩めたが、すぐに針先へ目を戻した。
上原美咲とは、高等部へ入ってから隣の席になった。人に話しかけられると小さな声で返すのに、二人でいると案外よくしゃべった。看護の練習で私が何度も包帯を巻き直している間に、美咲は同じ幅で端まで揃え、結び目を相手の腕へ食い込ませずに仕上げた。
その手が、今朝は止まっていた。
「指、冷たい?」
「うん。針が落ちそう」
私は両手をこすった。自分の指も赤く、爪の脇には小さなひびがあった。
教室の後ろでは、春子と清美が一枚の布を間に置いて言い合っていた。
「こっちまで切ったら足りなくなるでしょう」
「切らないと、ほつれたところが残るよ」
「だから、折って縫うの」
春子が布を取り返すと、渡嘉敷清美は、じゃあやってみて、と机へ肘をついた。口調だけ聞けば喧嘩に見えるけれど、春子が糸を引くと清美は布の端を押さえ、動かないように支えた。
文子はその隣で千代に何か教わっていた。千代が縫ったところを指で示し、文子が顔を近づける。二人の頭がぶつかりそうになって、文子だけが先に笑った。
先生が来るまでの短い時間だった。机を寄せ、足りないものを借り、うまくできないところを友達に見てもらう。その朝の教室には、まだ、そういう声があった。
*
島袋先生が入ってくると、和子が席を立った。
金城和子は、朝、誰が来ているかを確かめる役を引き受けていた。先生が名前を呼ぶ前に空いた席へ目をやり、遅れて来た子には、何かあったの、と小声で尋ねた。
私たちの組は三十六人だった。
全員が揃う日は、この頃には少なくなっていた。家の手伝いで休む子も、具合を悪くする子もいた。空襲のあと、遠くから通うようになった子は、遅れて教室へ入ると、そのまま椅子へ身体を落とした。
先生は出席を取り終えると、帳面を閉じずに言った。
「住んでいる場所が変わった人は、今日のうちに知らせてください。前に届けたところから、また移った人もです」
何人かが頷いた。
「学校から連絡をすることがあります。家の方にも、分かるようにしておきなさい」
安里典子が手を上げた。
「昼間、家に誰もいないときは、どうしたらいいですか」
「近くで、伝言を頼める方はいませんか」
典子は少し考えてから、隣のおばさんなら、と答えた。先生は、それも書いておいてください、と帳面へ目を落とした。
私は鞄から紙を取り出した。ハツさんの家の場所は前にも届けてあったが、おばちゃんが昼間どこにいるかまで書いた方がいいのか迷った。
学校からの連絡。
その言葉を聞いただけで、日記に書いた三月という数字が頭に浮かんだ。今は一月で、先生は何の連絡かを言っていない。それでも私は、紙へ鉛筆を当てたまま、しばらく書き始められなかった。
*
午前の看護の練習では、机の間を空け、二人ずつ組んだ。
その日は三角巾で腕を吊るす練習だった。衛生兵が前で示した形を見ながら、美咲が私の肘の下へ布を入れた。首の後ろで結ぶとき、髪が引っかかりそうになって、その指が止まった。
「髪、上げてもらっていい?」
私は片手で髪を持ち上げた。
布に支えられると、腕の重さが肩と首へ移った。美咲は肘の位置を確かめ、指先が少し出るように布を直した。
「痛くない?」
「大丈夫」
「結び目、ここでいいかな」
私が答える前に、衛生兵が隣へ来た。
美咲は背筋を伸ばし、何か言おうとして唇を開いたが、声が出なかった。衛生兵は布へ触れ、結び目の下へ小さく畳んだ布を当てるように言った。
「長くこのままにすることもある。擦れないように」
美咲は、はい、と返し、持っていた布切れを折った。
衛生兵が次の組へ移ると、私の首元へその布を差し込んだ。固い結び目が直接当たらなくなり、私は肩を下ろした。
「楽になった」
「よかった」
美咲はそこで初めて息を吐いた。
次は私が巻く番だった。さっきまで自分の身体で覚えていたはずなのに、布を持つと肘を支えるところが浅くなった。美咲は何も言わずに待っていたが、私は一度ほどいた。
「ごめん。もう一回」
「いいよ。私で練習して」
私は布の真ん中を確かめ、もう一度、美咲の腕へ回した。
傷のない腕だった。袖から出た手には縫い物でできた小さな針の跡があるだけで、血も流れていなければ、痛みで身体を動かすこともなかった。
それでも、正しく支えるまで時間がかかった。
*
昼休み、悦子が廊下の窓際に立っていた。
手に持っていたのは、一枚の葉書だった。平良悦子は寮から学校へ通っていた。私は葉書を覗かないようにしながら、その隣へ立った。
「家から?」
「うん。やっと来た」
悦子は裏返し、宛名の方を私へ向けた。
「母の字。父は、こういうの書かないから」
「元気だった?」
「これを書いたときは」
悦子は日付を指で隠すように持ち直した。
私は返事に困った。元気だったと分かったことを喜んでいいのか、それから今日までのことを一緒に心配するべきなのか、どちらもできなかった。
「弟がね、私の布団で寝てるんだって」
悦子が自分から続きを話した。
「帰ったら、返してもらわないと」
「部屋も取られてたりして」
「それは困る」
悦子は笑い、葉書を上着の内側へしまった。折らずに入れられるよう、そこだけ布で袋を作ってあった。
「家に帰りたい?」
尋ねてから、当たり前のことを聞いたと思った。
悦子は窓の外を見て、うん、と答えた。
「でも、帰れるときに帰らないと、次がいつになるか分からないでしょう。帰ったら帰ったで、こっちへ戻れるのかも分からないし」
校庭を、荷物を担いだ人が横切っていった。悦子はその姿を目で追っていた。
「学校は、やめたくないの」
私は頷いた。
家へ帰ることと、学校を続けること。その二つを、悦子は同時に望んでいた。どちらかを選べば済むような顔ではなかった。
廊下の向こうから文子が私を呼んだ。私は悦子に、またあとで、と言った。悦子は葉書の入ったところを上着の上から一度押さえ、教室へ戻っていった。
*
午後の作業が終わる頃、典子が先生のそばへ行った。
私は机の上の布切れを集めながら、二人の声を聞いた。典子は翌日、少し遅れるかもしれないと話していた。
「妹を預けてから来ます。母が先に出るので」
「何時頃になりますか」
「できるだけ早く来ます」
先生は典子の顔を見た。
「無理に急いで、道で転ばないように。来たら私に知らせてください」
典子は頭を下げ、席へ戻った。その肩が少し下がっていたので、私は声をかけた。
「妹さん、何歳?」
「四つ。弟は七つだけど、二人だけにはできないから」
典子は荷物を詰めながら答えた。
「お母さんが戻るまで待ってたら、学校に来られなくなるし」
近くで話を聞いていた和子が、明日の作業の場所は書いておくね、と言った。
「遅れても、どこにいるか分かるように」
「ありがとう」
典子はそのときだけ、顔を上げて笑った。
誰かが休む理由を、私は今まで、欠席という一つの言葉で受け取っていた。けれど、その席が空くまでには、朝、起こす子がいて、食べさせるものを用意し、預け先を頼む時間があった。
家を出るだけでも、学校へ来るだけでも、以前より多くのことが必要になっていた。
*
帰り道、文子と千代に、悦子の葉書のことを話した。
「届いてよかったね」
文子はそう言ってから、少し考え込んだ。
「私だったら、何て書くかな。元気です、って書いたら、それだけでいっぱいになりそう」
「元気なら、それでいいんじゃない」
千代が答えた。
「読んだ方は、まずそれが知りたいでしょう」
私は二人の隣を歩きながら、母のことを考えていた。
元気です。
それだけでも伝えられたら、母は安心するだろうか。家を飛び出したあと、どこへ行ったのかも分からない娘から、その一言が届いたら。
けれど、どんなに細かく住所を思い出しても、ここから送ることはできなかった。
別れ道で二人に手を振り、ハツさんの家へ戻ると、おばちゃんが軒先で鍋を洗っていた。私の足音に顔を上げ、手を止めた。
「お帰り」
「ただいま」
私は鞄を置いてから、鍋をすすぐ水を運んだ。おばちゃんは、今日、学校はどうだった、と尋ねた。
私は美咲の袖口のことを話し、春子と清美が布の切り方で言い合っていたことを話した。おばちゃんは鍋を傾けて水を切りながら、縫えるうちは大事に着ないとね、と言った。
悦子に便りが届いたことも話した。
「何度も読んでた」
「嬉しかったんだね」
「うん」
おばちゃんは鍋を伏せ、濡れた手を拭いた。
私は続けようとして、声が止まった。母へ便りを書きたいと言っても、困らせるだけだと思った。
おばちゃんは何も急かさず、私の顔を見ていた。
「私も、家に……」
そこまで言うと、喉が詰まった。
「元気だって、言えたらいいのに」
おばちゃんは布巾を畳み、鍋の横へ置いた。
「うん」
その返事を聞いて、私は俯いた。
夕方の風で、軒先に干した布が揺れていた。隣の家から、子どもを叱る声が聞こえ、すぐあとに泣き声が続いた。
「書いておこうか」
おばちゃんが言った。
私は顔を上げた。
「送れなくても、今、言いたいことを」
その晩、私は日記の最後の方に、一枚、空いているところを見つけた。
年号を書いていた頁から離し、上に小さく、お母さんへ、と書いた。
元気です、と続けようとして、鉛筆を止めた。怪我をした日も、家が焼けた日もあった。怖くて眠れない夜があり、今も、明日のことを考えると胸が苦しくなった。
それでも、その下には、まずこう書いた。
私は生きています。
隣でおばちゃんが針箱を閉じる音がした。私は涙が落ちる前に目元を拭き、次の行へ鉛筆を移した。




