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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第41話 空いた席の向こう



 包帯を巻くことには、少しずつ慣れた。


 最初は布の端を押さえるだけで指がつりそうになったが、何度も繰り返すうちに、手を持ち替えるところで止まらなくなった。文子の腕へ巻き終えると、私は指を動かしてもらい、きつくないか尋ねた。


「今日は大丈夫」


 文子が答えた。


 私は頷き、衛生兵が回ってくるのを待った。


 褒められることは少なかった。直すところを指で示され、もう一度やるように言われる。それでも、昨日できなかったところが今日はできると、少し嬉しかった。


 その嬉しさを、私は誰にも説明しなかった。


 できるようになりたかった。


 できるようになったからといって、実際の傷を見る日を待ちたいわけではなかった。


     *


 冬へ向かうころ、学校で過ごす時間の使い方が、また変わった。


 看護の勉強をしたあとに縫い物をし、別の日には作業へ出た。教室へ戻ると、机の上へ置いたノートに、指の土がついた。


 数学の本は、鞄の底に入れていた。


 家では灯りを使う人がほかにもいるので、開けない夜があった。眠る場所の脇へ座り、頁をめくったところで、誰かが寝る支度を始める。私は本を閉じ、荷物を寄せた。


 先生になりたいと言っていた文子も、最近はその話をしなかった。


 ある日、休憩の間に、私は尋ねた。


「小学校の先生になる勉強、続けてる?」


 文子は巻き戻していた包帯から顔を上げた。


「本は持ってるよ」


「うん」


「でも、弟たちに教える方が先になっちゃう。学校で習えなかったところ、母さんに見てあげてって言われて」


 文子は少し笑った。


「私も習ってないのにね」


 千代が隣でノートを開いた。


「分からないところ、持ってきたらいいよ」


「理恵に聞く?」


「理恵にも。私たちにも」


 私は頷いた。


 文子は、じゃあ今度、と言った。


 今度という言葉が出たことに、私は少し安心した。来年の戦争の話ばかりしていると、その前にできることまで、なくなったように思えてしまう。


     *


 十二月のある帰り道、直樹と修に会った。


 二人とも荷物を持っていた。前に会ったときより、直樹の頬が細くなったように見えた。


「健一は?」


 文子が尋ねた。


「家の方。今日は来られなかった」


 修が答えた。


 それから私たちの鞄を見て、そっちは何を習ってるの、と尋ねた。


「看護」


 春子が言った。


「包帯とか、人を運ぶこととか」


「もう病院へ行くの?」


「まだ、そういう話は聞いてない」


 私は答えた。


 直樹が私へ目を向けた。


 私はその視線を受け止めたが、何も続けられなかった。未来のことを知っているのは、おばちゃんと、ここにいる三人だけだった。


 直樹たちへも話すべきなのだろうか。


 鉄血勤皇隊という名前を思い出した。


 けれど、直樹と修と健一が、どの部隊へ、いつ動員されるのかは分からなかった。名前を知っているだけでは、この道でどんな言葉をかければいいのか決められなかった。


「船の絵、まだ描いてる?」


 私は尋ねた。


 直樹は少し間を置いてから、頷いた。


「紙が空いてたら」


「見せて」


「今、持ってない」


 それから、直樹は自分の鞄を見た。


「前のも、全部は残ってないけど」


 私は空襲のことだと分かり、頷いた。


 直樹は肩へ掛けた紐を直した。


「また描くよ」


 私は、うん、と答えた。


 また描けると思っているその言葉を、否定したくなかった。


     *


 家へ戻ると、おばちゃんがハツさんと食事の支度をしていた。


 私は手を洗い、芋を入れた籠を受け取った。おばちゃんは私の鞄を見て、今日は疲れた、と尋ねた。


「少し」


「先に座っててもいいよ」


「これだけ、やる」


 私は籠を下ろした。


 水を使う手順も、鍋へ入れる量も、この家でのやり方を覚えてきた。食堂とは違う場所だったが、おばちゃんの声を聞きながら仕事をする時間は残っていた。


 食べ終わったあと、おばちゃんが小さな布を私へ見せた。


「背負うものの紐、ここを厚くしておこうと思って」


 私の肩へ食い込んだ場所に合わせて、当て布を縫っていた。


 私は隣へ座った。


「おばちゃんのも?」


「うん。二人分」


 私はその布を見た。


「来年、どうするか……」


 言いかけると、おばちゃんは針を止めた。


 私たちは人のいないことを確かめ、声を小さくした。


「遠くへ移れるところは、聞いてるよ」


 おばちゃんが言った。


「でも、明日から二人で住める家が見つかったわけじゃない。食べるもののこともあるからね」


 私は頷いた。


 知らない誰かの家へ行けば、それだけで助かるわけではなかった。今いる家にも、私たち以外の人が何人もいた。


「私、学校へ行かなくなったら」


 おばちゃんが私を見た。


「どこにいるのか、先生が捜すよね」


「理由を話すことにはなるだろうね」


 私は手元へ目を落とした。


 上陸のことを話せば、その理由をまた尋ねられる。話さずに去れば、おばちゃんが問い詰められるかもしれない。


 おばちゃんは、少しずつ確かめよう、と言った。


「移ると決めるなら、荷物だけじゃ済まないから」


 私は頷いた。


 今夜のうちに何もかも決めて、明日の朝には島から離れたい。


 そう思っても、私の足は、明日も学校へ向かうのだった。


     *


 年が変わっても、正月らしいものは少なかった。


 ハツさんの家では、借りてきた器を洗い、いつもより丁寧に並べた。おばちゃんは、冷める前に食べよう、と皆へ声をかけた。


 私は椀を受け取った。


 昭和二十年。


 一九四五年。


 日記に何度も書いた年が、今になった。


 四月一日は、もう来年ではなかった。


 私は椀の縁へ唇を当てた。温かいものを飲み込む間も、その数字が頭から離れなかった。


     *


 一月、また男の人が呼ばれたという話が増えた。


 学校では、家族の都合で来られない生徒がいた。先生は空いた席を見てから、来ている私たちへ作業を振り分けた。


 来ない子の分を、そのまま残しておくわけにはいかなかった。


 文子が布を数え、千代が端を揃えた。春子は隣の子へ針の使い方を教えていた。


 私は新しく渡された分を膝へ置いた。


 放課後、春子が布を畳みながら言った。


「今日は早く帰る。母さんが一人だから」


 千代も、弟を迎えに行く、と立ち上がった。


 文子は二人を見送り、私へ顔を向けた。


「あと、どれくらい?」


 私は手元の布を見て、半分くらい、と答えた。


 文子は首を振った。


 何を尋ねられたのか、分かった。


 私は教室の入口へ目を向けた。


「四月まで、三か月もない」


 文子は黙っていた。


 窓から入った風で、机の上の紙が動いた。文子は掌で押さえ、書いてある字へ目を落とした。


「今日の分、終わらせよう」


 やがてそう言った。


 私は頷き、針を取った。


 その日に必要な仕事をしている間にも、覚えている日付へ近づいていく。


 縫い終わった布を重ねるたび、少しずつ何かを準備している気がした。


 それが誰を助けるためのものになるのか。


 自分たちをどこへ連れていくのか。


 私は分からないまま、次の一枚を膝へ広げた。

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