第40話 包帯を巻く手
十一月に入るころ、学校へ持っていく荷物に、また別のものが加わった。
清潔な布と、手拭い。
島袋先生は持ち物を伝えてから、看護について教わる時間を設けると言った。怪我をした人の手当てを、皆もできるようにしておかなければならないのだという。
私は先生の顔を見た。
隣で文子が、本の間へ持ち物を書いた紙を挟んだ。千代は袖口を見下ろし、春子は先生が話し終えるまで動かなかった。
教室の中では、誰かが看護婦さんになるの、と小さく尋ねた。
「まずは、必要なことを習うんです」
先生は答えた。
私は膝の傷へ目を落とした。
もう布は当てていなかった。かさぶたができ、座るときに少し突っ張る程度になっていた。それでも、手当てを受けるために待った人たちの顔は、まだ覚えていた。
その人たちの前へ、今度は私が立つのだろうか。
*
借りている寝場所の端で布を畳んでいると、おばちゃんが隣へ座った。
「それ、学校へ?」
「うん。看護の授業があるって」
おばちゃんの手が止まった。
私も布を畳む手を止めた。
昨夜までは、未来の話をするために日記を開かなければならなかった。今は学校で聞いたことを話すだけで、そこに書いてある出来事が近づいてくる。
「いつから?」
「明日」
おばちゃんは頷いた。
「その布、もう一度洗っておこう。家で使ったのと、分けた方がいいね」
私は手元を見た。
「おばちゃん」
「うん?」
「まだ、学校で習うだけだよ」
おばちゃんは私へ顔を向けた。
「そうだね」
安心させるつもりで言ったのに、私がその返事を待っていた。
おばちゃんは布の端を揃え、私へ渡した。
「習って、誰かの手当てができるようになるのは、悪いことじゃないよ」
私は頷いた。
「でも、できないことまで、一人でできると思わなくていいからね」
その言葉を聞いて、私は布を握った。
未来を知っていることと、怪我をした人を助けられることは、別だった。
*
翌日、教室へ来た衛生兵は、教卓の上へ持ってきた道具を並べた。
私たちは席を詰め、前へ寄った。
白い布が広げられた。器具の名前を説明され、先生が黒板へ書いた。私は本を置いてきた日の鞄から、今度はノートを出した。
人の身体について習う。
そう考えれば、現代の学校でも授業にあった。骨や筋肉の名前を覚え、心臓や肺の働きを図で見たことがあった。
けれど、目の前で説明されるのは、傷を負った人に何をするかということだった。
私は鉛筆を動かした。
書いている間に説明が先へ進み、顔を上げると、衛生兵はもう次の道具を持っていた。
「今の、どこまで?」
文子が小さく尋ねた。
私は自分のノートを寄せた。
最後の行は、途中で止まっていた。
文子はそこを見て、唇を結んだ。
*
最初の実習では、二人ずつ組になって包帯を巻いた。
私は文子と組んだ。
文子が腕を差し出し、私は教わった巻き方を思い出しながら布を当てた。端を押さえ、重ねていく。布がずれないように引くと、文子の腕が少し動いた。
「きつい?」
「少し」
私は緩めた。
今度は手を離すと、巻いたところが浮いた。
もう一度やり直した。文子は腕を出したまま待っていてくれたが、私の指が同じ場所で何度も止まるので、これで合ってるのかな、と顔を寄せた。
「私も、分からなくなった」
私は包帯をほどいた。
衛生兵が回ってきて、私の手元を見た。
「そこは、先ほど説明したとおりに」
「はい」
私は返事をした。
分からないところを尋ねようと口を開いたが、その人は隣の組へ移っていた。私は黒板を見た。書かれた説明は読めたが、それを今の文子の腕へどう当てはめるのか、すぐには分からなかった。
文子が私を見た。
「もう一回、やろう」
私は頷いた。
文子の腕には傷がなかった。
痛くないかと尋ねれば答えてくれた。やり直しても、血は流れなかった。
それでも、私は手間取っていた。
*
千代は、春子の腕へ巻いた包帯を確かめていた。
春子が指を動かすと、千代は手首のところを少し直した。終わったあと、二人とも教卓の方を見た。
自分たちで、できたと決められなかった。
私も同じだった。
見てもらい、よしと言われてから、ようやく文子の腕を離した。
役を交代すると、文子は私がやり直したところで同じように迷った。
「さっき、どうしたっけ」
私は覚えている範囲で答えた。
文子が巻く間、私は教室の中を見た。何人もの女の子が、腕を差し出したり、包帯をほどいたりしていた。昨日まで針へ糸を通していた手で、今日は人の身体へ布を当てている。
授業が終われば、私たちはここから帰れる。
そのことを考えて、私は窓の外を見た。
*
休憩になると、文子が私の腕から包帯を外した。
布に薄く跡がついていた。巻き直すために端を伸ばし、二人で畳んだ。
「覚えること、多いね」
文子が言った。
「うん」
「私、さっきの名前、もう混ざってる」
千代がノートを開いた。
「あとで合わせよう。書いてないところもあるし」
春子も自分のノートを出した。
「聞き取れなかったところ、空けてある」
四冊を寄せると、同じ説明を聞いたはずなのに、書いてあることが少しずつ違った。誰かが書けたところを、ほかの三人が写した。
私は空欄を埋めながら、昨日のおばちゃんの言葉を思い出した。
できないことまで、一人でできると思わなくていい。
今は、隣に聞ける人がいる。
分からないと言っても、やり直せる。
それがいつまで続くのかを考え始めると、鉛筆を持つ手に力が入った。
「理恵、そこ、写し終わった?」
千代に尋ねられ、私はノートを返した。
*
帰るころには、布を何度も持ち替えた指が疲れていた。
春子が包帯を丁寧に畳み、鞄へ入れた。
「忘れたら困るから、家でもやってみる」
文子が頷いた。
「私も。母さんに腕を貸してもらおうかな」
私は、おばちゃんの手首を思い浮かべた。
もう傷は塞がっていた。
今日習ったことを見せたら、おばちゃんはどんな顔をするだろう。上手になったねと言われれば嬉しい。その一方で、上手になればなるほど、日記に書いた病院へ近づいてしまう気がした。
道が分かれるところで、春子が私へ声をかけた。
「理恵も、ちゃんと覚えよう」
私は春子を見た。
「何かあったとき、知らないよりはいいでしょう」
「うん」
私は頷いた。
春子は先へ歩いていった。
私はその背中を見ながら、鞄の中の布へ手を添えた。
嫌だと思っているだけでは、怪我をした友達の前で何もできない。
そのことを、春子も考えているのかもしれなかった。
*
夕方、おばちゃんに腕を貸してもらった。
仕事の合間だった。洗い物を終えて手を拭き、私の隣へ座ってくれた。
「ここでいい?」
私は頷き、畳んだ布を広げた。
おばちゃんの腕は、文子の腕より細く感じた。袖を上げると、手首の傷の跡が見えた。私はそこへ触れないように布を当てた。
巻き始めると、おばちゃんは手元を見ていた。
「痛くない?」
「大丈夫」
私は少し巻いてから、また尋ねた。
おばちゃんが顔を上げた。
「聞いてくれるんだね」
「きつくしすぎると、よくないから」
私は教わった言葉を答えた。
おばちゃんは頷き、腕を動かさず待った。
最後を留め、手を離した。
まだ、これで正しいと言い切れるほどの自信はなかった。指を動かしてもらい、ずれていないか確かめた。
「明日、また先生に見てもらう」
私が言うと、おばちゃんは、そうしよう、と答えた。
包帯を外すと、下には昨日までと同じ腕があった。
私は布を巻き戻した。
おばちゃんは立ち上がり、途中だった仕事へ戻った。鍋を持ち上げるとき、いつものように布を挟み、熱くないか確かめていた。
私はその姿を見ていた。
今日、ここで練習したことを、おばちゃんに使う日が来なければいい。
鞄へ戻す布の端を揃えながら、私はそう願った。




