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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第39話 残された仕事



 空襲のあと、日付を確かめる場所がなくなった。


 食堂の壁に掛かっていた暦は焼けた。ハツさんの家にも暦はあったが、何度も見上げるのはためらわれた。朝起きると、まず寝ていた敷物を畳み、ほかの人が通れるように荷物を寄せた。水を汲み、借りた椀を洗っているうちに、今日が何日だったか分からなくなることがあった。


 日記には、その日にできたことを書いた。


 水を運んだ。学校へ行った。文子たちに会った。


 未来の出来事を書いた頁のあとに、今日の仕事が少しずつ増えていった。


     *


 おばちゃんと焼け跡へ戻ったのは、何日か経ってからだった。


 ゲンさんも一緒だった。崩れた木や瓦を確かめ、踏んではいけないところを教えてくれた。


 私は部屋のあった方を見た。


 机の形は残っていなかった。箪笥の場所も、思っていたところより奥なのかもしれなかった。壁がないと、部屋の広さまで分からなくなった。


 おばちゃんは台所の辺りで屈み、灰のついた鍋を見つけた。


 ゲンさんに確かめてもらってから、持ち上げた。蓋はなかった。底へ黒いものが貼りつき、片方の取っ手が歪んでいた。


「使えるかな」


 おばちゃんが尋ねた。


「洗って、水を張ってみないと分からんな」


 おばちゃんは頷いた。


 私は近くで、割れた椀の欠片を見つけた。縁に模様があった。朝、私が落とした椀なのか、棚から落ちたものなのかは分からなかった。


 拾おうとして手を伸ばすと、おばちゃんが声をかけた。


「手、また切るよ」


 私は手を引いた。


 持って帰れるものを捜しに来たのに、触れていいものさえ、自分では決められなかった。


 帰り際、おばちゃんは奥の方を長く見た。


 私は待った。


 娘のものを見つけられたか、尋ねなかった。


 やがておばちゃんが鍋を持ち直したので、私は反対側の取っ手へ手を添えた。


     *


 学校へ来る生徒は、日によって違った。


 家族と遠くへ移った子もいた。怪我で来られない子もいた。先生は、会えた人には今いる場所を知らせるように言い、来ていない生徒の名前を確かめていた。


 私たち四人は、顔を合わせるたび、家族と寝る場所のことを話した。


 千代は親戚の家の畑を手伝っていた。文子は水を運ぶ回数が増え、春子は母親と一緒に食事の支度を担っていた。


「人数だけ増えて、鍋は増えないから」


 春子が言った。


「一度に炊けない。食べた人から、椀を返してもらってる」


 私は焼け跡から持ち帰った鍋のことを話した。


「穴は開いてなかった。おばちゃんが、昨日、芋を煮てた」


「よかったね」


 春子はそう言って、自分の指先を擦った。爪の脇が赤くなっていた。


 文子がそれを見て、痛そう、と言った。


「水仕事すると、また開くんだよね」


 春子は手を下ろした。


「でも、やらないと、次のご飯が作れないから」


 誰も返事をしなかった。


 休みたいときに休むには、代わりにその仕事をする人が必要だった。


     *


 十月の終わり、上原さんがハツさんの家へ来た。


 食堂へよく来ていた人だった。店では長椅子に座り、おばちゃんが忙しいと、食べ終えた椀を台所まで運んでくれることがあった。


 おばちゃんは戸口でその顔を見て、無事だったんですね、と言った。


 上原さんは頷き、私を見つけて手を上げた。


「理恵ちゃんも、いたか」


 私は立ち上がって挨拶をした。


 上原さんは中へは上がらず、庭先でおばちゃんと話した。知り合いの安否を幾つか確かめ、それから、呼ばれたので顔を見に来たのだと言った。


「軍へ?」


 おばちゃんが尋ねた。


「防衛隊だそうです」


 私は戸のそばで足を止めた。


 上原さんは、まずは作業になるらしい、と続けた。


「どこへ行くか、詳しくはまだ」


 おばちゃんは頷いた。


「ご家族は」


「今いるところに。留守の間は、家内がどうにかすると言ってます」


 上原さんは少し笑ったが、そのあと口元を戻した。


「頼むことばかりになってしまって」


 私は上原さんの手を見た。


 食堂で椀を運んでいた手だった。軍へ呼ばれたと聞いても、目の前の人が急に変わるわけではなかった。


 それでも、その手が家の仕事から離れてしまう。


 おばちゃんは、できることがあれば奥さんに声をかけます、と言った。


 上原さんは頭を下げた。


     *


 送り出す朝には、近くの人たちが集まった。


 上原さんだけではなかった。荷物を持った男の人が何人もいて、家族がそのそばに立っていた。


 私はおばちゃんの隣から見ていた。


 小さな子が父親の服を掴んでいた。母親が指を外そうとすると、今度は荷物の紐を握った。父親は屈み、子どもの顔を見て何か言ったが、私のところまでは聞こえなかった。


 集まった人たちが、声を揃えた。


 私も口を動かした。


 何を願ってその声を出すのか、自分では決められなかった。勝って帰ってほしいとは思えなかった。戦わずに帰ってきてほしいと言うこともできなかった。


 ただ、帰ってきてほしかった。


 上原さんが歩き始めたとき、私は一歩前へ出た。


「気をつけて」


 声が届いたのか、上原さんが振り返った。


「おばちゃんを、手伝ってな」


 私は頷いた。


 それ以外に言いたいことは、喉の奥へ残った。


     *


 男の人たちが去ったあとも、家には仕事が残った。


 水は汲まなければならず、食べ物は用意しなければならなかった。傷んだ屋根も、そのままでは雨を防げない。


 おばちゃんは上原さんの奥さんへ、手が要るときは声をかけて、と話した。その足でハツさんの家へ戻り、借りた鍋へ水を入れた。


 私も桶を持った。


 重いと分かっていても、運ばずに済むわけではなかった。


 その日から、ハツさんの家で夕方の支度をする人が一人増えた。昼間の仕事が変わり、朝のうちにできなくなった家事を、帰ってから片づけるのだという。


 おばちゃんは手を止めず、私へ芋を渡した。


「今日は、これを先に洗ってもらえる?」


 私は受け取り、桶へ入れた。


 水の中で土を擦ると、上原さんを見送ったときの声が、まだ耳に残っていた。


     *


 夜、日記を開いた。


 ――上原さんが防衛隊に呼ばれた。


 その下へ、家族のことを書こうとして、鉛筆を止めた。


 戦争の年表で読んだとき、防衛召集は一行だった。


 今日見たのは、服を掴む子どもの指と、それを外す母親の手だった。去っていく人の荷物と、置いていかれた桶だった。


 私は頁の余白へ書いた。


 ――呼ばれた人の仕事は、家に残る。


 書き終えると、おばちゃんが隣で布を畳んでいた。


 手首の傷は乾いていたが、まだ赤かった。


 私は日記を閉じ、その布の端を持った。二人で引いて形を揃えると、おばちゃんが、ありがとう、と言った。


 上原さんが帰ってくるまでに、何度この仕事をするのだろう。


 数えようとして、やめた。


 明日の分は、もうここにあった。



 

沖縄の第一次防衛召集は1944年10月29日。17〜45歳の健康な男性が防衛隊として召集され、主に飛行場建設に従事したとされています

 

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