第38話 同じところにいる
千代の親戚の家へ着いたとき、庭で小さな男の子が履物を洗っていた。
桶の水へ片方を浸し、手で土を擦っている。私たちに気づくと手を止め、家の中へ顔を向けた。
「姉ちゃん」
呼ぶ声を聞いた途端、私は足を速めた。
千代が戸口へ出てきた。
私を見て、次に文子を見た。それから庭へ下り、私の腕へ手を伸ばした。
「来られたの」
「うん」
「怪我したって?」
「少しだけ。千代は?」
「私は大丈夫」
千代はそう答え、私の肩から膝へ順に目を向けた。
その確かめ方がいつもの千代らしくて、私は笑おうとした。口元がうまく動かず、代わりに頷いた。
千代はおばちゃんへ挨拶をしてから、私たちを家の脇の日陰へ案内した。
「座って。歩いてきたんでしょう」
低い腰掛けには、畳んだ服が置いてあった。千代がそれを持ち上げ、私たちが座る場所を空けた。
家の奥から千代の母親が出てきて、おばちゃんと話し始めた。泊まっている場所や、焼けた家のことを、二人は小さな声で伝え合っていた。
私は庭にいる千代の弟を見た。
洗い終えた履物を並べ、裸足のまま桶を引きずっていた。
「昨日、ずっと手を握ってたから」
千代が言った。
「今日は一人でやりたいんだって」
私は頷いた。
離したくない手があったのは、私だけではなかった。
*
話す前に、文子が千代へ、少し聞いてほしいことがある、と言った。
千代は私たちの顔を見た。
「春子のこと?」
「それもあるけど、理恵のこと」
私は膝の上へ両手を置いた。
千代は文子から私へ目を移し、待った。
私は話し始めた。
未来から来たことを、もう二度話していた。それでも、慣れることはなかった。自分の時代の家のことを口にすると、今座っている場所との間に、どうしても埋められないものができた。
千代は途中で、待って、と言った。
「昨日の空襲を、あとから習ったの?」
「うん」
「でも、今ここにいる」
私は頷いた。
千代は自分の指を見つめ、もう一度私を見た。
「分からない」
「私も、どうしてこうなったのかは分からない」
「そういう意味だけじゃなくて」
千代は言いかけて、口を閉じた。
文子が隣で、私も全部は分からない、と言った。
「でも、理恵は前から十月十日って言ってた」
「それは覚えてる」
千代は頷いた。
「母さんにも、朝は早めに支度しておこうって言った。弟が起きてなくて、先に着替えを出して……」
そこまで話してから、千代は庭を見た。
弟が家の中へ入り、母親へ何か頼んでいた。
「だから、昨日はすぐ連れて出られた」
私は息を吐いた。
千代は、助かったのは理恵のおかげだとは言わなかった。
それでも、伝えた言葉が昨日の朝に残っていたことを、私は初めて知った。
*
来年の上陸のことを話すと、千代は長く黙った。
私はその間に、覚えていることと、曖昧なことを分けて説明した。学校の名前が史料にないからといって、私たちが動員されないとは言えないことも話した。
千代は聞き終えると、私へ尋ねた。
「私たちは、どうなるの」
私は首を振った。
「分からない」
「文子も、春子も?」
「うん」
千代は私の顔を見ていた。
私は目を逸らさなかった。
「私たちの名前は、私が読んだところにはなかった。おばちゃんのことも、食堂のことも」
家の中で椀を置く音がした。
「じゃあ、私たちがこれから何をするかは、理恵も知らないんだね」
「知らない」
千代は頷いた。
少し考えてから、庭の端へ目を向けた。
「まず、弟と母さんをどこへ行かせるか考えたい」
私は千代を見た。
「すぐには決められないけど。父さんにも話さないといけないし、親戚だって、何人も泊められるわけじゃないから」
千代は私たちへ顔を戻した。
「昨日は、ここへ来るだけでよかった。これからずっとってなったら、別の話になるでしょう」
私は頷いた。
未来を知ったからといって、家族をどこへでも動かせるわけではない。受け入れてくれる家があり、食べるものがあり、そこまで歩ける人たちが揃わなければならなかった。
「私、ここが安全って言えない」
「うん。今、そう聞いた」
千代は答えた。
「だから、ここにいるだけでいいとも思ってない。でも、行くなら、どこへ行って何を食べるかまで考えないと」
その言葉に、私は肩の力が少し抜けた。
知らないことを責められずに、知らないまま一緒に考えられる。
それがどれほどありがたいことなのか、昨日まで分かっていなかった。
*
春子の居場所が分かったのは、その翌々日だった。
学校へ家族の避難先を伝えに来たと先生から聞き、私は文子と千代と一緒に訪ねた。
春子の家族も、知り合いの家に身を寄せていた。
春子は庭先で、借りた鍋を洗っていた。私たちを見ると手を止め、布で指を拭いた。
「みんな、無事だったんだ」
私は頷いた。
「春子も」
「うん」
春子は私の膝を見て、それから鍋を脇へ置いた。
奈々の絵を持ってきたことを伝えると、春子の顔が少し変わった。
「持って出たの?」
「うん。汚れてないと思う」
私は包みを開いた。
布に挟んでいた紙を取り出すと、春子は両手で受け取った。すぐには開かず、角を指で確かめた。
「食堂、焼けたって聞いた」
「うん」
春子は紙を見たまま、頷いた。
しばらくして、布を広げた。
奈々の描いた家が現れた。
私たちは誰も話さなかった。
春子は絵を見てから、丁寧に元の折り目へ戻した。
「ありがとう」
その声を聞いて、私はようやく、持ち出せたのだと思った。
*
家から少し離れたところで、春子にも話した。
春子は初め、私を見ていた。
未来という言葉を口にしたとき、眉が動いた。私はそこで止まらず、現代の学校で対馬丸を知ったことまで続けた。
「じゃあ、まだ沈んでない船のことを、読んだの?」
「ここでは、まだだった。でも、私がいた時代では、昔のことになってた」
春子の手には、奈々の絵があった。
私はそれを見たあと、顔を上げた。
「奈々のことを隠してるんじゃない。本当に知らないの」
春子は返事をしなかった。
「船に乗ったって分かっても、それだけで、奈々が亡くなったとは言えない。帰ってきた子もいるから」
「そんなの、分かってる」
春子の声が強くなった。
私は口を閉じた。
「分かってるから、捜してるんでしょう」
「……うん」
春子は目を伏せた。
文子と千代も、何も言わなかった。
少しして、春子がもう一度私を見た。
「そんな話、すぐ信じろって言われても、無理だよ」
「うん」
「でも、十月十日は当たった」
春子は紙を胸元へ寄せた。
「母さん、あの日の朝、私を起こした。理恵が言ってた日だからって」
私は顔を上げた。
「言ってくれてたの?」
「日付だけね。誰から聞いたのかは、私も答えられなかった」
春子は私を見つめた。
「今度は、何が起きるの」
*
上陸のことを聞いた春子は、すぐには口を開かなかった。
遠くで人の声がして、四人ともそちらを見た。こちらへ来る人はいなかったが、私は声を落とした。
女子生徒が病院へ動員されることも、春子へ話した。
「私たちの学校かは、分からない」
そう付け加えると、春子は頷いた。
「また、分からないんだね」
私は手を握った。
「うん」
春子は長く息を吐いた。
「奈々を島から出したのは、ここが危なくなると思ったからだよ」
「うん」
「今度は、残った私たちも危ない」
私は答えられなかった。
春子は自分で言った言葉を考えるように、地面へ目を落とした。
「どこへやれば、よかったんだろう」
それは私へ尋ねた言葉ではなかったのかもしれない。
私は、それでも答えを探した。
違う船。違う日。島の別の場所。
奈々が助かる道は、どこかにあったかもしれない。けれど、その道を私は今も知らなかった。
春子の指が、絵の端を強く押さえた。
千代が小さく声をかけた。
「紙、折れるよ」
春子は手元を見て、力を緩めた。
文子がその下へ掌を添えた。
春子は紙を文子の手に載せ、両手で顔を覆った。
声は出なかった。
肩が何度か揺れた。
私は隣にいたが、触れていいのか分からず、手を膝の横へ下ろしたまま立っていた。
*
帰る前、私たちは次に会う場所を決めた。
誰かが今いる家を離れるときは、できるだけ先生へ伝える。伝えられなければ、学校へ来た友達に知らせる。
そのくらいのことしか、今は決められなかった。
文子が、私の話を誰にでも言っていいわけではないよね、と尋ねた。
私は頷いた。
「日本が負けるっていうところまで、知られたら……」
言いかけて、周りを見た。
春子も顔を上げた。
「その話は、ここだけにしよう」
千代が言った。
「家族に準備してもらうときは、何をすればいいかを話す。理恵のことまで、勝手に話さない」
三人の顔を見て、私は頷いた。
秘密を守ってもらえることに安堵した。
同時に、三人まで声を小さくさせていることが苦しかった。
私たちは学校へ通い、縫い物をし、畑へ出ていた。同じ道で笑っていた。
今は、誰かが近づいてこないか確かめながら、来年の話をしている。
未来を知っている私だけが、戦争の外へ立っているわけではなかった。
文子も、千代も、春子も、私と同じ地面の上にいた。
別れるとき、春子が私を呼んだ。
「理恵」
私は振り返った。
「分かったことがあったら、言って。奈々のことじゃなくても」
「うん」
「分からないままなら、それも言って」
私は頷いた。
春子は奈々の絵を抱え直し、家へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
助かると約束することはできなかった。
けれど、次に怖くなったとき、黙って一人で日記を開く前に、この三人へ話そうと思った。




