第37話 知っているのに
翌朝、誰かが戸を開ける音で目が覚めた。
身体を起こそうとすると、肩と膝が同時に痛んだ。私は途中で動きを止め、隣を見た。おばちゃんはもう起きていて、畳んだ布を膝へ置いていた。
「少し眠れた?」
尋ねられ、頷いた。
夢を見た気がしたが、何の夢だったのか思い出せなかった。眠っている間も、遠くの音を聞いていたように感じた。
家の人たちは、朝から水や食べ物の支度をしていた。昨日ここへ来た人の一人が、家族を捜しに行くと言って荷物を持った。
私も学校へ行くつもりだった。
その前に、おばちゃんの傷と、自分の膝を見てもらう必要があった。ハツさんに手当てをしている場所を教わり、おばちゃんと一緒に家を出た。
*
外は明るかった。
そのことに、私は戸惑った。
昨日あれだけのことが起きたのに、日が差し、足元に自分の影があった。煙の匂いは残っていたが、空の一部分は青かった。
道へ出ると、人が行き来していた。
荷物を背負って遠くへ向かう人も、何も持たず戻っていく人もいた。誰かが道を尋ね、別の人が、そこは通れない、と答えた。
おばちゃんはその話を聞いて、歩く道を変えた。
私もついていった。
昨日までの道を覚えていることが、役に立たない場所が増えていた。
手当てを受けるところでは、私たちよりひどい怪我をした人が何人も待っていた。私はおばちゃんと端へ座り、自分の膝へ手を置いた。
痛かったが、待てた。
おばちゃんの手首も、私の膝も、傷を確かめて布を替えてもらった。礼を言って外へ出るころには、朝より日が高くなっていた。
「学校まで、行ける?」
おばちゃんが尋ねた。
「うん」
私は頷き、道の先を見た。
*
学校には、すでに先生と何人かの生徒が来ていた。
授業を受けに来たのではなかった。家族と避難した場所を伝える子もいれば、友達のことを尋ねる子もいた。入口のそばで、一人ずつ先生へ話していた。
島袋先生を見つけたとき、私は足を速めた。
「寺田さん」
先生も私に気づいた。
返事をすると、先生は隣のおばちゃんを見て、二人とも無事だったんですね、と言った。
おばちゃんが頭を下げた。
「家は、焼けてしまいました。今は知り合いのところへ」
先生はすぐには言葉を返さず、それから、泊まっている場所を教えてください、と紙を出した。
私は先生が書く手元を見ていた。
これからは、自分のいる場所を伝えなければ、誰にも見つけてもらえない。
「文子と千代と、春子は……」
尋ねると、先生は紙から顔を上げた。
「比嘉さんは、さっき来ました。新垣さんも家族と避難できたと聞いています。宮里さんのところは、まだ直接話せていません」
私は息を吐いた。
その途中で、春子の名前だけが残った。
「さっきまで、向こうにいたんですが」
先生が目を向けた先で、文子がこちらを見ていた。
*
文子は私のところまで来て、手を取った。
掌の布を見て、握る力を緩めた。
「理恵、怪我したの」
「転んだだけ」
「歩ける?」
「うん。文子は?」
「私は大丈夫。母さんも」
そこで言葉が止まり、文子はおばちゃんへ挨拶した。
私は文子の顔を見た。
昨日、空を見ながら何度も考えた顔が、目の前にあった。頬に小さな擦り傷があり、髪を結んだ紐はいつもと違っていた。
「よかった」
言うと、文子が頷いた。
「理恵も」
それだけのやり取りで、私は泣きそうになった。
おばちゃんは先生と話を続けるため、少し離れた。私たちは建物の脇へ寄り、低い段に座った。
「千代たち、親戚のところへ行ったんだって」
文子が言った。
「家族、一緒?」
「うん。弟も」
私は頷いた。
「春子は?」
「まだ会えてない。あとで先生に聞いて、捜せるところは捜してみる」
私は、私も行く、と答えた。
文子は膝の布へ目を落としたが、止めなかった。
*
「理恵の言った日だったね」
しばらくして、文子が口を開いた。
私は指を握った。
昨日の話をしなければならないと思った。十月十日という日付を伝えた理由を、今度こそ説明しなければならなかった。
「文子」
呼ぶと、文子は私へ身体を向けた。
「私の話、変だと思うかもしれない」
文子は答えず、待った。
私は昨夜おばちゃんへ話したことを、初めから話した。
現代の学校で戦争を習ったこと。家で母と喧嘩をして、トラックに轢かれたこと。病院で目を覚ましたら、知っている時代ではなくなっていたこと。
文子は途中で何度か私の顔を見直した。
「じゃあ、記憶がなくなってたんじゃ……」
「全部なくなったわけじゃない。自分の家のことも、母のことも、覚えてた」
「言えなかったの?」
私は頷いた。
「ここにないものばかり覚えてたから。話しても、おかしくなったと思われるかもしれなくて」
文子は目を伏せた。
私の話を信じたのかは分からなかった。
けれど、笑わなかった。途中でやめさせようともせず、昨日の空襲を知っていたのも、と尋ねた。
「習ったの。あとから、自分でも調べた」
「春子の妹の船も?」
「うん」
私は手元を見た。
「でも、奈々がどうなったかは知らない。私が読んだところに、奈々の名前はなかった」
文子は長く黙った。
向こうで先生が誰かを呼んだ。二人ともそちらを見たが、私たちではなかった。
「この話、おばちゃんは知ってる?」
「昨日、話した」
文子は、おばちゃんのいる方へ目を向けた。
それから、私へ尋ねた。
「これからのことも、覚えてるの」
*
私は、来年、沖縄へアメリカの軍が上陸することを話した。
四月一日。
その前から空襲や、海からの攻撃があること。
学校の女の子たちも病院へ動員されること。
文子は手を膝へ置いたまま、聞いていた。
「私たちも?」
「私たちの学校のことは、分からない。名前を覚えてる学校は、ほかのところだから」
私は続けようとして、息を吸った。
「でも、ここも……」
言葉が止まった。
文子は私の顔を見た。
「じゃあ、それまでに、逃げたらいいんじゃない?」
私は頷こうとした。
できなかった。
「どこへ?」
声が出たあと、自分でも驚いた。
文子は少し考えた。
「那覇から離れるとか。親戚のいるところへ」
「そこにも来るかもしれない」
「もっと遠くは?」
私は島の形を思い浮かべた。
北へ。
南へ。
授業で見た地図には、軍が進む矢印があった。戦いがあった場所には、名前がついていた。けれど、その線と線の間で、誰が何を食べ、どこへ隠れ、生き延びたのかまでは覚えていなかった。
「海を渡っても、船が……」
言いかけると、文子が私の手元を見た。
私は自分の指が震えていることに気づいた。
「でも、助かった人もいるんでしょう」
「いる」
「だったら、その人たちがいたところへ」
「そこが、分からないの」
声が大きくなった。
私は周りを見た。近くに誰もいないことを確かめてから、顔を下げた。
「知ってるのは、何が起きたかだけなの。どこへ行けば、私たちが助かるかじゃなくて」
文子は何も言わなかった。
私は昨日の壕を思い出した。
煙が入ってきた。外へ出れば飛行機がいた。家へ戻る道は燃えていた。
最初に選んだ場所で、最後まで待つことさえできなかった。
「昨日も、日付は知ってた。でも、いつ外へ出ていいかも、火がどっちから来るかも分からなかった。おばちゃんに引っ張ってもらわないと、動けなかった」
私は膝へ手を押しつけた。
「どっちへ行っても、怖いの」
これから来る日付を、何度も指で辿った。
そのたび、知らないところが残った。
全部捨てて走ろうと思っても、海の向こうへは走れない。誰かを連れて行こうとすれば、食べ物も泊まる場所も要る。学校へ来なくなった理由を尋ねられれば、未来の話を、また誰かにしなければならない。
逃げたいという気持ちだけでは、出ていけなかった。
「どこにも、安全って言えるところがない」
私は文子を見た。
「何が来るか知ってるのに、逃げるところが分からない」
声が震えた。
文子に話せば、少し楽になると思っていた。
口にすると、自分が持っている知識でできることの少なさが、前よりはっきりした。
*
文子が、私の手へ触れた。
怪我をした掌を避け、指のところだけを握った。
私はその手を見た。
「お母さんに、会いたい」
言葉が出た。
文子の指が止まった。
「帰りたい。家に帰って、ちゃんと謝りたい」
目の前が滲んだ。
昨日なくした食堂も、元の家も、どちらも帰れない場所になっていた。ここで暮らしてきた時間が長くなるほど、母の声を思い出すのに、少しずつ時間がかかるようになっていた。
「私がいない間、何してるんだろう」
文子は答えなかった。
「捜してるかもしれない。事故で、そのまま……」
その先は言えなかった。
今の私が眠っている身体は、あちらにもあるのだろうか。
母は病院で待っているのだろうか。
私がここで大きくなったことも、学校へ通ったことも、何も知らずに。
私は俯き、文子の手を握った。
文子がもう片方の手で、私の肩をそっと撫でた。
「帰りたいんだね」
私は頷いた。
文子の声で聞くと、自分がずっと何を待っていたのか分かった気がした。
戦争が終わることだけではなかった。
帰ってもいい日を、私は待っていた。
*
泣きやむまで、文子は隣にいた。
何もかも信じているようには見えなかった。私が顔を上げたあとも、考え込むように手元を見ていた。
「全部、うまく分かったわけじゃないけど」
文子は言った。
「理恵が、昨日のことを前から怖がってたのは分かる」
私は頷いた。
「だから、先のことも聞く。千代と春子にも、会えたら話そう」
私は文子を見た。
「怒ると思う。春子は、奈々のことがあるから」
「うん」
文子は否定しなかった。
「でも、話さないでいるより、話した方がいいと思う」
私は息を吐いた。
話したから助かるとは、文子も言わなかった。
そのことが、今はありがたかった。
少し離れたところから、おばちゃんが歩いてきた。
私の顔を見て足を緩めたが、何があったのかは尋ねなかった。
「先生が、千代ちゃんたちのいるところを教えてくれたよ」
私は立ち上がった。
膝が痛み、文子が腕へ手を添えた。
おばちゃんは私たちを見て、それから、道を確かめて行こう、と言った。
私は頷いた。
安全な場所を知っているから歩くのではなかった。
まだ会えていない友達がいる。
今、そこへ行くことなら、私にもできた。




