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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第36話 まだ来ていない日付



 その夜、私たちはトメさんの親戚の家へ身を寄せた。


 ゲンさんが捜してきてくれた場所だった。家の中には先に着いた人たちがいて、私たちを見ると、入口に置いていた荷物を奥へ寄せてくれた。


「狭いけど、入って」


 迎えてくれた女の人を、トメさんがハツさんと呼んだ。


 おばちゃんは頭を下げ、私も続いた。履物を脱ごうとして膝を曲げると、当てた布が引きつり、思わず戸口へ手をついた。


 ハツさんが足元を見た。


「怪我してるのね。座っていいよ」


 板の間の端へ腰を下ろすと、ようやく背中から包みを外せた。肩紐を抜いたあとも、そこだけ締めつけられているように感じた。


 隣に座ったおばちゃんも、荷物を膝へ置いたまま、しばらく動かなかった。


     *


 水を分けてもらい、顔と手を拭いた。


 布を掌へ当てると、傷のところがしみた。指の間にも黒い汚れが残っていて、少し拭いただけで布の色が変わった。


 ハツさんは、そのまま使っていい、と言った。


 私は礼を言い、汚れたところを内側へ折った。


 家の奥では、子どもが眠っていた。大人たちは小さな声で、どこから来たのか、誰と別れたのかを話していた。名前が出るたび、誰かが顔を上げた。


 文子。


 千代。


 春子。


 私の知っている名前は聞こえなかった。


「明日、学校の方へ行ってみようね」


 おばちゃんが言った。


 私は頷いた。


 明日になれば会えるのか、学校まで行けるのかも分からなかった。それでも、捜しに行くと決められるだけで、今は少し楽になった。


 ハツさんが薄い敷物を持ってきてくれた。


「二人で、これを使って。掛けるものは、あとで探すから」


 おばちゃんは、十分です、と答えた。


 敷物を広げる手つきが、昼間より遅かった。私は端を押さえて手伝い、荷物を枕元になるところへ寄せた。


 ここで寝る。


 そう決めてからも、横になる気にはなれなかった。


     *


 おばちゃんが私の膝を見直してくれたあと、着替えを出そうと包みを開いた。


 水の瓶を脇へ置き、畳んだ布を取り出す。奈々の絵が入った包みを確かめ、日記をその隣へ置いた。


 おばちゃんは布を裂いて、私の膝へ当てるものを作っていた。


 私は汚れた上着を脱ぎ、身体へついた土を拭いた。肩には赤く擦れたところがあった。指で触れると痛み、すぐ手を離した。


 ハツさんに呼ばれ、おばちゃんが顔を上げた。


「そちらの子、お湯が少しあるから、足も拭いておいで」


 私は入口の脇へ案内された。


 立ち上がる前、おばちゃんに荷物を少し寄せていいか尋ねられ、うん、と答えた。


 日記は着替えの横へ置いたままだった。


     *


 戻ると、おばちゃんが一冊の本を持っていた。


 私の日記だった。


 包みの外へ滑り出ていたらしい。表紙の間に挟んだ紙が半分ほど出ていて、おばちゃんの指が、そこを押さえていた。


 私は足を止めた。


 おばちゃんが顔を上げた。


「理恵ちゃん」


 私は返事をしようとして、息を吸った。


 日記を取らなければと思った。けれど、おばちゃんの手へ伸ばすことができなかった。


「動かしたとき、開いてしまって」


 おばちゃんは本へ目を落とした。


「少し、読んだ」


 私は隣へ座った。


 身体が急に冷えたように感じた。背中へ汗が出て、着替えたばかりの布が張りついた。


 おばちゃんの指の下に、十月十日という文字があった。


「これは、いつ書いたの」


「……八月」


 おばちゃんは私を見た。


「今日のことを?」


 私は頷いた。


 おばちゃんはもう一度頁を見た。そこには、空襲があること、逃げる道を調べることが書いてあった。


「だから、昨日、火を入れないでって言ったの」


「うん」


「壕を見に行ったのも?」


 私は頷いた。


 おばちゃんはしばらく黙り、それから、開いた頁を私の方へ向けた。


「この先も、書いてあるね」


 私は目を落とした。


 一九四五年。


 四月一日。


 おばちゃんの家がなくなった今日の隣に、まだ来ていない日付が並んでいた。


     *


「誰かに、教えてもらったの?」


 おばちゃんは声を小さくした。


 私は首を振った。


「本で読んだの」


「その本は、今ある?」


「ない」


「どこで読んだの」


 私は膝の上の手を握った。


 春子にも尋ねられた。


 先生にも尋ねられた。


 そのたび、答えを途中でやめた。今度はおばちゃんが、私の書いた文字を持っている。


 私は周りを見た。


 少し離れたところでは、ハツさんが子どもへ掛け布を直していた。ゲンさんとトメさんは家の人と話していた。


「ここでは……」


 言うと、おばちゃんは日記を閉じた。


「じゃあ、今は置いておこう」


 私は顔を上げた。


 おばちゃんは本を私へ返そうとした。


 受け取れば、またしまえる。


 今日は疲れているからと、明日に延ばせる。明日になれば、友達を捜すことや、寝る場所を考えることで、一日が過ぎるかもしれなかった。


 私は日記へ手を置いたまま、口を開いた。


「信じてもらえないかもしれないけど」


 おばちゃんの手が止まった。


「私、ここより、ずっとあとの時代から来たの」


 自分の言葉が、耳に戻ってきた。


 小さな声だったのに、家の中の人が全員こちらを向く気がした。私は肩を縮め、おばちゃんの顔を見た。


 おばちゃんは何も言わなかった。


「戦争が終わったあとの時代。そこで学校へ行って、沖縄のことを習った。ひめゆりのことも、対馬丸のことも」


 私は途中で息を継いだ。


「奈々が乗るって分かったとき、止めたかった。でも、何を読んだのか聞かれても、ここには、その本がまだなくて……」


 声が震え、続きを言えなくなった。


 おばちゃんは日記を私たちの間へ置いた。


「ゆっくり話して」


 私は頷いた。


     *


 家で母と喧嘩をしたことから話した。


 玄関を出たこと。車の音がして、トラックが見えたこと。次に目を開けたときには病院にいて、おばちゃんに会ったこと。


 話す順番は何度も前後した。


 自分の時代のことを説明しようとすると、ここにはない物の名前が出た。携帯電話と言ってから、小さな電話を持って歩けるのだと説明した。画面で資料を読んだと話し、今度は画面のことを説明しなければならなくなった。


 おばちゃんは途中で一度だけ、私の年を尋ねた。


 私は、ここへ来たときの年を答えた。


「お母さんも、あちらにいるのね」


 私は頷いた。


「帰ったら、謝るつもりだった」


 そこまで言って、喉が詰まった。


「ちょっと外に出て、戻るだけだったの」


 おばちゃんは私を見ていた。


 私は膝へ目を落とした。


 家出したときは、母に分かってほしかった。追いかけてきてほしい気持ちもあった。なのに、戻れなくなって初めて、自分が何を言って家を出たのかを何度も思い出した。


「お母さんは、私がここにいるって知らない」


 言葉にすると、今日なくした部屋とは別の場所まで、遠くなった。


 私は日記の表紙へ手を置いた。


「ここに来てから、ずっと考えてた。どうしたら帰れるのか。でも、分からなくて」


 おばちゃんは、そう、と小さく答えた。


 それから、少し間を置いた。


「今の話を、全部分かったとは言えないよ」


 私は顔を上げた。


「でも、理恵ちゃんが、あの船を怖がっていたことは覚えてる。今日、朝から荷物を持っていたことも」


 おばちゃんは日記を見た。


「ここに書いたことと、つながるのね」


 私は頷いた。


 信じると言ってもらったわけではなかった。


 それでも、話を途中で終わらせずに聞いてもらえた。私はそのことに気づいてから、ようやく息を長く吐けた。


     *


「この先のこと、少し聞いてもいい?」


 おばちゃんが尋ねた。


 私は日記へ目を向けた。


「うん」


「戦争は、終わるの」


 私は頷いた。


「来年の八月に」


 おばちゃんは黙っていた。


 八月まで、と口の中で数えているように見えた。


「それまで、ここはどうなるの」


 私は日記を開いた。


 四月一日のところへ指を置いた。


「アメリカの軍が、沖縄へ上陸する」


 おばちゃんの手が、膝の上で止まった。


「島で、戦うのね」


「うん」


 私はその先を見た。


 壕。学徒隊。解散命令。自決。


 書いたときには、忘れないための言葉だった。今、おばちゃんへ読み上げようとすると、一つずつが、この人の暮らす場所へ近づいてきた。


「たくさん、人が亡くなる」


 私は顔を上げられなかった。


「でも、一人一人がどうなるかは知らない。どこへ行けば絶対に助かるかも、分からない」


 おばちゃんはしばらく何も言わなかった。


 家の外で誰かの足音がした。私は日記を閉じかけたが、おばちゃんの手が表紙へそっと触れた。


「今夜、全部は話さなくていい」


 私は手を止めた。


「でも、何か準備できることがあるなら、これからは一緒に考えよう」


 私はおばちゃんを見た。


「私、間違えてることもあると思う」


「そういうところも、言ってくれればいいよ」


 おばちゃんは、土で汚れた表紙を指で撫でた。


「一人で決めるのは、怖かったでしょう」


 私は頷いた。


 その言葉を聞くまで、怖かったというだけでは足りないと思っていた。知っているのに助けられなかったことを、先に説明しなければならないと思っていた。


 おばちゃんの家も、守れなかった。


「店、燃えるって、もっと……」


 言いかけると、おばちゃんは首を振った。


「家のことは、悲しいよ」


 声が少し揺れた。


「娘のものも、あそこにあったから」


 私は唇を噛んだ。


「でも、理恵ちゃんまで、あそこに置いてくることにならなくてよかった」


 おばちゃんは私の肩へ手を置いた。


 擦れたところを避けて、そっと。


 私はその手へ顔を寄せた。おばちゃんの袖には、まだ煙の匂いが残っていた。


     *


 日記を布へ包み直したあと、二人で横になった。


 敷物は狭く、身体を伸ばすと、足が外へ出た。私は膝を少し曲げ、おばちゃんの方を向いた。


 ほかの人たちの寝息や、寝返りの音が聞こえた。


 おばちゃんはまだ起きていた。


「理恵ちゃん」


「うん」


「明日も、隣にいるからね」


 私は返事をしようとしたが、喉が詰まった。


 最初に娘の部屋で眠った夜も、おばちゃんはすぐ隣にいると言ってくれた。


 今、その部屋はもうなかった。


 それでも、手を伸ばすと、おばちゃんの袖に触れた。


 私は今度は掴まず、指先をそこへ置いたまま、小さく、おやすみと言った。

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